もっともっと研ぎ澄ませ!その快楽は、今、おまえに必要か?
もっともっと頭を使え!考えることしかできないじゃないか。
邦題:脱出
原作アーネストヘミングウェイ、監督ハワードホークス、主演ハンフリーボガート、ローレンバコール。
1943年ごろのアメリカ映画。
衝撃的におもしろい!!
ぱっと思い浮かんだことを箇条書きしておくと、、まず、俳優の存在感がすごい。その場を成立させる有無を言わせぬ存在の真実性。次に感情と表情が不一致で、自分に正直であるように見えることでリアルさの追求。かっこいいセリフ、ユーモアのセンス。
話の展開、視聴者心理をついている登場人物の登場、音楽の挿入、照明の美しさ。スピード感、疑問に思った頃に過去の出来事の重要ポイントだけ登場人物に話させるテクニック。とにかく新鮮だ。段取り主義、ご都合主義で矢継ぎ早に繰り出される話の展開。演劇的要素の強い昔の映画ではあるが、あぁ演技ってこうだよな・・・と思わせてくれる。
この映画は、後世の映画に多大なる影響を与えているなぁと思う。ぱっと思い浮かぶので、パルプフィクションとか・・・。
とにかく一度観ただけでは語りつくせない衝撃。
静かな映画ばかり好んで観ていた僕には、久しぶりに「ガーン!!」と来た。
俳優として根本から考えさせられた。
未人非人
撮影終了。
僕の役はオールアップとなった。
現場から学んだことは計り知れず、やっぱり現場をたくさん経験することが何よりも力をつけることになるのだろう。
まず、学んだことは役者の態度がでかいやら悪いやらというのは、映画の現場では至極当然のことかもしれないということである。
もともと性格が悪いやら、偉そうなのではなく、プロの役者として現場を経験するうちに自然にそうなってしまうのだと思った。
現場にはものすごい数のスタッフがいて、助監督の指示で動き回り・・・終始誰かが怒られている。
昨日の現場では、あるスタッフが音声マイクを倒しちゃって、監督にあたりそうになったときは、物静かで温和そうなカメラマンが思いっきりそのスタッフを殴っていた。そして、静かなドスの聞いた声で「・・・きをつけろ」と。
そういうのを目の当たりにして、そのような空気をいちいち読んでいたのでは、もう演技どころではないのである。
スタッフはスタッフ。自分は役者!と切り離さなければ、力を発揮できないのだ。たぶん未熟で人間として普通なうちは。
映画の現場のスタッフの共通意識は「素晴らしい映画がとりたい!」だけなのだから、一人一人が仕事を全うするためには、言葉は悪いが役者は、スタッフを無視する、はけ口にする・・・などを行うこともまた仕事なのかな?と思った。
それはすべて役に集中するために。
役者は空気を読む能力はすごく求められるが、現場の空気だけは読んではならない。
高倉健さんはどんなスタッフにもつねに謙虚だという話だが、かつ、いい仕事をしているなんて、ほんとに尊敬に値する。
その精神力、集中力は並大抵のことではないと思う。
あと、大事なのは死ぬほど練習して望むべきだということ。出来うる限りの練習をシーンの出演者全員でやっておくこと。
未熟なうちはね。それが監督の意向と違っていようと、セリフをどんな状態でも反射のように口からでるようにすべきだと思った。
映画の現場に時間があまるということは、まずない。
すべてをやりきること。カットと声がかかるまで、顔が引きつってようが、お腹が痛かろうが、トイレに行きたかろうが関係ないんだ。
ものすごく相反するものを常に求められる。
分裂しそうで、でもギリギリでいつも保たなければやっていけない。
素晴らしい役者は、自分のことを「俺は世界で一番人間らしくないなぁ」と思っているのかもしれない。
まだまだ学んだことはたくさんあるけどもうこの辺にしておこう。
内緒だよ。僕だけのものだ。
百年恋歌
ホウシャオシエン監督の最新作『百年恋歌』を観た。
三世代にわたる恋物語だ。
冒頭シーン(一世代目)の物語に泣いた。美しすぎて、悲しすぎて泣いた。熱くて気持ちの良い涙だ。
このような物語で泣ける自分の初心さに感動して、気持ちよく泣けるのかもしれない。ナルシシズムだなぁ。
二世代目は人物関係がつかみにくくて、もう少し歴史を勉強しておけばなぁと悔いた。
三世代目(現代)は現代における恋愛はこれほどなのか!?という感じだ。
ホウシャオシエンはいつも期待を裏切るメッセージ性を残していく・・・。
正直なところ、冒頭シーンの物語だけで終わっても大満足だった。
しかし、それだけではすまない。
僕に歴史を勉強させようとし、現代の生き方、現代における人やものとの関わり方を再考させてくれる。
メッセージを押し付けてこない。ただ、やんわりとわかるようにし、しかし全体を分かるようにはしてくれなくて、
たとえ分かったとしてもそこからもう一歩もう一歩思考を展開させてくれるんだ。
まさに、豊穣な物語。
映画はまだまだ奥が深い・・・。
キャステイングは準主役でした。
でもあまり悔しくない。なんでかな?仲間だから?なんか納得できた。
でも、まぁできあがった作品を観たら死ぬほど悔しがると思います。
僕の映画人生は始まったばかりだ。
まだまだまだまだ没頭するぞ!
偶然の愛
これは自慢話でもなんでもない。
自慢話なんか、顔も名前もわからない男が不特定多数に書いたところで何の・・・。
昨日、pm20時ごろ、渋谷Q-AXシネマの前で友達待ちをしていたのは僕だ。
道玄坂のラブホテル街にあるこの映画館。何度も利用させていただいています。
歩く男二人。後ろから追いかける女1人。女男と握手を交わす。
また歩き出す男二人。
「あれ?」
変な違和感を感じたのは僕だ。
「どっかのミュージシャンっぽいけれど・・・」
ミュージシャンに興味の無い僕だが、なぜかその二人の男を追いかけ始めた。
「あれ?これは・・・」
なぜか胸騒ぎのしたのは僕です。
走る。追い越す。顔を確認する。
「あっ・・・」
「うん?」というような男の顔。
それは浅野忠信さんでした。
同じ地平に同じ時間に同じ視線で浅野忠信と対峙したのは僕だ。
「握手してください。」と言ったかどうかは今でもわからないが、ほぼ無意識で次の瞬間握手を交わしていた・・・。
「おぅ」と小さな声で答えて、普通に握手してくれたと思う。想像よりもごつい手の感触。その後普通にすたすたと近くのライブハウスに入って行った。
帽子をかぶっていたが長髪ではなかったと思う。かなりさっぱりしていると思う。ひげは相変わらずもじゃもじゃだったが。
mongolの撮影がおわったのかな?
・・・それにしても不思議な体験でした。
偶然に感謝です。
もうすぐキャスティングの発表がある。
彼女にも十分すぎるほど愛されているし、流れ的にはとんでもなくいいほうに運気が流れていると思うのだが、
どうなんだろう。
少し怖い。
それはそれ。これはこれ。
なのかな?
ホウ・シャオシエン
世界にはまだまだ、素晴らしい監督や作品が一杯あるんだなぁ・・・。
珈琲時光は浅野さんで観てるんだけれど、イマイチ、ピンとこなかったのですが、まぁ最後に「なるほど」という感じで。
いろいろ映画を観てきて、役者としても勉強してきて、ようやくホウ・シャオシエンなどの映画の素晴らしさが分かったような気がする。
エンターテインメント性でもなく、役者が魅せるわけでもなく。
その時代、その空気、その時の感情の流れのみが映っていて、それだけで、十分観ていられる。
ストーリーが秀逸でも論理的でもなく、もちろん計算はされつくしていますが、
メッセージの示唆の仕方や、演技の質、シーンの切り取り方、つなげ方、タイミングなど。
すべてが最近の映画ばかりみてきた僕からは新鮮で、すばらしいものだった。
いや、完全に理解できたわけではないのだから、「すばらしい」なんておこがましいんだけれど。
東京生活、とげとげした気持ち、急ぐ気持ち焦る気持ち。
すべてを中和してくれるやさしいメッセージでもって包んでくれた。
やさしく、リアルで、爽快な作品。
もっとゆっくりでいいんだよ。もっと大事にしていこう。
「イモは薬用にんじんよりも育てるのが面倒なんだ。」
だけれども、大事に大事に育てて生きたい。
人間としてのあり方の原点。こんな風に生きていたいものだね。
『恋恋風塵』を観ての感想。
俳優としての力のつけ方
様々な俳優としてのレッスン方法や、演技とは何かについての本を読み、またレッスンを受けている。
しかし、自分の中で俳優として成長している感覚はない。
役者の勉強をすることで、人間的には成長している、意味のあることをしているという自負はあったが、
逆に、人と波長を合わせられない人。つまり、受けることができない人によりいっそうの嫌悪を指し示すようになってしまった。
自我を前面に押し出して一歩も歩み寄らない人に対しての嫌悪はひどいものだ。
つまり、バカとやくざだね。
ばかでやくざかもしんないけれど。
詳しくは書きませんが、たぶんこの調子ではいつか東京湾に沈められちゃうよ(笑)
人に合わせること、人との関係性のなかにだけ、自我が存在する僕にとって、人と合わせることは正義にまで昇華されてしまっていたのだ。
多分そうだと思う。
いや、やくざものに対応する役に自分のしょうもない自我が入り込んだのかもしれないな。
まぁ気をつけるべきは睡眠不足と慢心である。
僕は、今も変わらず、小さな世界の中にいる。
弓
映画を志す身として、恥ずかしながら、初めてキムギドク作品を観た。
「はじめて、はじめて~なかで~しおふいたのと~いったの。」
そういう作品はまだまだいっぱいあるだろうな。
蜷川幸雄が一番会いたかった映画監督と言っていた。
僕の俳優仲間が大好きで、テイストがティムバートンの真逆だとかなんとか。
「弓」と言う作品に関して感想。
おもしろかった。でも、なんかいやぁな感じが残った。このいやぁな感じはどう考えてもこの映画から感じ取れるメッセージに対する嫌悪感という他はない。かなり考えた。好意的に解釈しようともした。何かを学び取ることも出来るはずの惜しみない映画だ。
その映像には明らかに他の韓国映画とは異質の演技、感情表現の連続が活写されていたし、途中中だるみさせることなく最後の最後までハラハラさせる、と言う点もふくめ、かなり映画としては成功しているしほんとよく出来ている。
他の作品も全部観るつもりです。
ただ、僕が感じ取れるメッセージはどれも、とても嫌悪感を帯びていました。
そういうのこそ「人間らしさ」かもしれないが、僕はムカムカする、腹が立つ。
僕が潔癖なのか。冷たいのか、弱いのか。
なんとも単純に解釈できない人間の「業」というのでしょうか。それが映っていました。
映画を観てこんな気持ちになったのは初めてです。
おもしろかったです。でも「ジジイ、ふざけるな、潔く死ね」
これが素直な感想です。
老害だ何て思わないけれど、それは愛のかたちとして認めたくない。
単純にくくれない。そんなメッセージを感じ取ってはいけないのかもしれない。
しかし一番大きなのは、まさしく嫌悪感だと思います。
生きてるうちが華なんだぜ!
ただただ人間を映し出している作品に出たい。
かっこいいとか前衛的だとか、斬新だとか、論理的だとか、破綻してないとか・・そんな作品じゃなくて
ただそこに紛れもない人間が映っている作品。
少し前の僕はこの世界の闇を映し出した、狂気を扱った作品に興味があったし、自分の需要もそこにあると思っていた。
もちろんそんな作品にも出たいんだけど、今は「かっこいい」とかそんな形容のない演技を身につけて、ただそこにいたい。
セクシーだとか、そんな概念でくくられるような芝居を省きたい。
ただそこにはまぎれもない人間が映っていて、その人間の感情だけが伝わってくる。
観ている最中にその役者のルックスやスタイルに意識をそがれることなく作品自体にのめりこませたい。
加瀬亮はほんといい。あらためて思う。
自分のコンテクストはかなり狭い。
一般的なスタンダードな上辺の「かっこよさ」を省きたい。
なかなかにこれはつらい作業だろう。
でも、役者の勉強していてほんとよかった。
「ただそこにいること」
自分の存在をほんとうにみとめる。
ニワトリはハダシや!
結局何が映っているのか
それに終始するんだよね。
どんな絵が汚くてもどんな俳優でも別に構わない。
最終的に何を撮ろうとして何がそこには映っているのか・・・と。
「2046」はっきり言ってキムタク必要ないけれど、映像、カット割り、音楽、美しすぎるけど、撮ろうとしているもの映っているもののメッセージはなかなかいい。
いいんだよ。
これはなんか斬新すぎて逆にマイナスに働いているような気もするけど、まぁ分かる人には分かるし、映画なんて人それぞれ趣向があるからね。
毎日毎日何年間も欠かさず自分の店の前の風景をカメラで撮り続けてたあの映画のタイトルなんだっけ?
ニューシネマパラダイスとかも。
あと、これ、何撮ってるかやっとわかったよ。
「これ、風を撮ってるんだよ。」
なんて、そんな連想が膨らんだ今日でした。