彼に会う前からも、この「心の飢え」は私の中にあった。意識せずにいただけなのだ。それが、彼に会い、そして壊れていくことによって、消えていたはずの、いや消していたはずの「心の飢え」が呼び起こされてしまったのだろうか。それまでは、私は私の心の飢えを、快楽で誤魔化し続けていたはずであると思っていた。いまさらかも知れないけれど、ようやく気がついたことがある。私は「快楽で誤魔化していた」のではなく「快楽に逃げていた」だけであるということを。もちろん、逃げることは悪いことではない、逃げる必要のあるときだってある。逃げることによって救われることもある。だから、「逃げる」ことをしていた自分を私は責めることはしない。いや、責めてはいけないのだ。逃げることも間違いではないから。でも、逃げてばかりでは解決に至らないこともある。解決などせずに逃げれるだけ逃げても良いのだけれど、今回は逃げることができない、というよる逃げてはいけないのだ。なぜなら、逃げてきたからこそ、心の飢えが止まらないのだから。だから、正面から向き合う必要がある。私が生み出している「心の飢え」を満たしてくれるのは、物でもない、誰かでもない。それは、何なのか。「私」である。私以外に私の心の飢えを満たし、消してしまうことができる者と人もいない。私だけにしか出来ないのである。だから、逃げても解決はしないし、物やお金でも解決できないし、彼のような存在の誰かと巡りあっても根本的な解決にはならない。私にとって、世界で唯一の存在である私が私の心の飢えと向き合わなければならない。しっかりと向き合う時間が必要である。結局、寂しい想いも悲しい想いも、辛いも苦しいも、私が生み出しているだけの感情である。それとは逆に楽しいも嬉しいも生み出すことができるのは私だけである。私が飢えていると思うから飢えているだけなのである。思いしだいなのである。
私が私に向き合うことでわかったことがある。
私の「心の飢え」がこれまで満たされて来なかったのも、満たされてなかったのも、「私が私を愛していなかった」からなのだと、やっとわかった。
誰かからの愛や、今回の彼からの愛ばかりを望んでいた私は、私が私を愛することが出来てなかったのだ。一番大切な私を、一番近くにいる私が愛することが、どれだけ大切なことなのか、皮肉なことに、彼との出会いと崩壊によって、気づくことになるとは思わなかった。気づかせてくれたことに感謝すべきなのだろうか。いや、感謝は、まだ出来そうもない。大切なことに気づくことができても、まだ苦しんだことは忘れられない。そう簡単には忘れられない。なぜなら、本気で好きだったから。でもやっと、苦しみの闇から、一歩踏み出せそうです。きっと、踏みだせる。