このように当時の北の庄城は、慶長の大普請と言われ、各大名による普請が行われました。

例えば、現在の福井城の石垣には、丸に十字の薩摩島津家の家紋の入った石垣が見つかっています。

秀康公はこのように巨大な城郭を築くに当たり、どのような思いをしていたのでしょうか。

当時家康公は長男信康をなくし、三男秀忠(二代将軍)に家督を譲るつもりでいたと思われます。

しかし優柔不断と言われた秀忠と違い、統率力に優れ、また武勇に優れる次男秀康公は徳川家の長子で嫡流になり、関ヶ原で遅参した秀忠とは比べ者にならない逸材だったと思います。

でも一旦豊臣家に養子にだしていますし、その後は結城家の養子としてだしてしまった以上、徳川家を継がせようにも継がせられなかったのではないでしょうか。

秀康公は実は双子だったと言われ、当時は不吉と言われていました。

その上、正室築山殿にはばかって奥女中の侍女、お万に手を付け、出来てしまった子供が双子だったとなれば、必然的に疎まれる存在となってしまうでしょう。

秀康公はそんな自分の運命に翻弄されるのです。

本来なら徳川家の跡取りとして、二代将軍になれる立場でありながらなること叶わず、わずか越前一国68万石の大名に留まり、弟秀忠に平伏す自分にさぞ悔しい思いをした事でしょう。

家康公が跡取り問題を家臣に問うた時、多くの家臣が秀康公を推挙する中、大久保忠隣や、本多正純ら秀忠、家康近従の推挙と、これからの世の中を考えるに秀忠が適しているという事で、家康公に見放された脱力感はあったと思います。

家康公以来の官位である三河守を継承しながら、徳川家跡取りになれなかった秀康公は、二代将軍秀忠公就任に伴い、権中納言を賜ります。

それでも秀康公は献身的に弟秀忠公を支えます。

これに家康公はじめ、秀忠公もよく答えます。

秀康公江戸参勤のおり、秀忠公は将軍でありながら、自らわざわざ品川まで出迎えに足をのばしています。

そのおり、二人はそれぞれ道を譲り合いながら江戸まで移動したそうです。

また、秀康公は名前を松平に復帰し、松平秀康と名乗るようになります。

このように秀忠公も兄秀康公には特別の計らいをかけていて、後に言う、『制外の家』として、幕府の制厳を受けない親藩家門として越前松平家は歩んでいきます。

いわゆる徳川将軍家は本家、越前松平家は嫡流家となるのです。

しかし、秀康公の悲運はまだまだ続くのです。
あけましておめでとうござりまする

さぁ、北の庄城がいよいよ出来上がりました。

北の加賀前田家への守りとして、加賀口門を最初の砦とし北國街道を通し、クランク状に曲がらせて侵入時の時間稼ぎとしています。
また、付近に本願寺福井別院や、本覚寺、興宗寺などの有力寺院を配し守りを固めています。

また外堀を配し舎人門(とねりもん、現在復元してあります)などの門のほか、三の丸二の丸を輪郭式に配して本丸を厳重に守り固めていました。

北國街道はそのまま南へ真っすぐに走り、城下の西側を通って、天然の要害足羽川の九十九橋(つくもばし)を渡って城下街南側へと至ります。

足羽川左岸(城下街南側)にも、安養寺、浄光院(のちの運正寺で秀康公菩提寺)、長慶寺(堀久太郎秀久菩提寺)、西光寺(柴田勝家公、お市の方菩提寺)などの寺院が立ち並びます。

また、先ほどの、九十九橋は半分が石橋、半分が木橋となっていて、敵の南からの侵入時、木橋を崩して時間稼ぎできるようになっていました。

北國街道側、つまり城下西側には外堀を配し桜門や鉄門などのほか、万石以上の家臣たちの屋敷や里丸(のちの時代に藩主の居住区となります)を配し守りに備えています。

城下東側には荒川(新川)をひきなおし、土居(土塁)を巡らし、三の丸二の丸のところに百間堀という巨大な水堀を設け実際には最大幅100mもある場所もありました。

天守閣は以前述べたように本丸乾側に石垣上約28mの五層六階立て層塔型天守ですが、層塔型にはめずらしく最上階には廻り縁と高欄を設けていたと思われます。(ちなみに丸岡城は望楼型)

瓦は福井でよく採れる御影石製の石瓦(丸岡城と同じ)をふいていたと思われています。

また石垣に関しても、福井産御影石を使い、石垣の積み方は江戸初期からの城郭に見られる、算木積切込接(さんぎづみきりこみはぎ)式で、出隅(ですみ)、入隅(いりすみ)、雁行(がんこう)などの塁線を形成し、流石は家康公直々の縄張りと目を見張るものがあります。

話がそれますが、丸岡城は柴田勝家公の甥、勝豊の城として天正4年築城とされ、今まで日本最古の天守閣と言われていましたが、近年の研究により望楼型ではありますが通し柱がなく、廻り縁高欄も装飾化されていることや、石垣が江戸初期に見られる初期算木積の形式である事から、慶長年間すなわち本多成重時代に大改修されたとする見方が妥当とされ、現在は日本最古とは言えなくなっています。

話をもどしますが、秀康公は当初この天守閣を連立式天守(姫路城のように小天守を大天守に連ならせる)としていたようですが、実際には大天守だけだったようです。

なかなか説明ができませんが、かなりの大きい城郭だった事がわかります。

ちなみに現在は本丸の石垣のみ残っていて、しかも城跡には県庁や、福井県警察といった、過去の福井城下の景観を100%ぶち壊す建物が偉そうに建っています。(-_-#)

近年の調査で足羽山麓にある、臨済宗妙心寺派瑞源寺の本堂と庫裏が、福井城本丸奥座敷の建物が移築されていた事がわかり、唯一福井城の建物の遺構として注目されています。
秀康公は越前北の庄に入部に際して、義父結城晴朝を下総より越前に連れて来ています。

また、同家に関連のある寺院も越前に移しました。

現在の福井市にある真宗大谷派西念寺もそのひとつと言われ、寺宝として秀康公が戦の時に使用していたお守りの石があります。

これは、兜の中に仏様の形の石(約5cm程)を入れて戦にいどんでいたといわれていて、非公開ではありますが、御住職のご好意で一度拝見させて頂きたした。(プチ自慢)

また、秀康公は優秀な人材を集めました。

例えば旧甲斐武田家家臣、山縣昌景(赤備えで有名な飯富虎昌の弟)の孫、昌時や、鬼作左本多重次の甥、本多富正、今村盛次などを召し抱え高禄を与えました。

また、こう言った知行割りと平行して城郭の整備も進められました。

当時の北の庄は天下普請となり、各大名の協力と父家康公直々の本丸、二の丸の縄張りが行われ、慶長十一年にはほぼ城郭が出来上がりました。

柴田勝家公が作った旧北の庄城天守閣跡より少し北側に本丸を配し、東西南北約、1.5キロ以上におよぶ三重輪郭式平城で天守閣は石垣上より約28メーターの高さをもつ、五層六階立ての、姫路城に匹敵する天守及び、城郭でした。

また、さらにその外側に総掘り構えの外掘りを作っていましたが(加賀口門)、秀康公が早死にしたため、工事は途中で打ち切りとなりました。(T_T)

もし総掘り構えとなっていたらかなり巨大な城郭が出来上がっていたと思われます。(おしいf^_^;)

それだけこの越前北の庄が加賀前田家の押さえとして、重要視されていたのです。

のちの話にはなりますが、秀康公世子忠直の蟄居の跡へ、尾張徳川義直の移封が噂された事もある位、家康公は肝要の地と認識していたのです。