百年後芸術祭・内房総アートフェス 内田未来学校「おもてなし交流プログラム」

「市原米沢の森を考える会」里山ガイドツアーによる

長栄寺 木造十一面観音菩薩立像(市原市)拝観 

 

 市原市、袖ヶ浦市、木更津市、君津市、富津市の内房地域の5市と音楽家・小林武史氏率いる「クルックフィールズ」が官民共同して「百年後芸術祭・内房総アートフェス」が5月26日まで開催されています。今回はその一環として市原市の内田未来学校と連携して活動している「市原米沢の森を考える会」の里山ガイドツアーに参加してきました。 

 内田未来学校は、地域の拠りどころだった内田小学校が過疎化で廃校となったのを機に、広く地域外の人たちと交流することで地域コミュニティの維持と活性化を図ることを目的として、地元の有志を中心に東京藝術大学の学生などと連携してアーチスティックなさまざまな事業を行っています。「市原米沢の森を考える会」は、隣接する米沢地区の里山を整備し、内田未来学校と連携して里山暮らしに関わる事業を行っています。この里山からは内陸部にも拘らず、晴れた日には富士山はもとより東京湾や羽田空港、甲武信岳まで眺望ができるそうです。

 

 このツアーがあると知ったのは、内田未来学校がアートフェスの会場のひとつとなっていて、3月に当地に訪れた際に、かねてから気にかかっていた長栄寺の十一面観音を拝観できる機会があるか地元スタッフの方に尋ねたところ、このツアーのなかで拝観できる予定だと教えてくれたのでした。

 長栄寺の本尊十一面観音は長らく秘仏でしたが、丑年と午年に開帳されるようになりました。それでも6年に一度なので待ち遠しく、ご開帳の際も間近で拝観できず、お飾りでよく見えないようです。今回は特別に内陣に入れていただけるとのことで、またとない機会となりました。

 ツアーは、地元の郷土史家塚原氏のレクチャーの後に行われるスケジュールとなっていたのですが、天候不順の関係ではっきり予定時間が決まっていないようでした。自分たちはレクチャーも聴きたかったのですが、会場に着いた時にはレクチャーは終わりかけていました。かなり興味深い内容のようだったので残念でした。このガイドツアーにしても、フェスのガイドブックには記載がなく、別冊のプログラムに小さく出ているだけで、せっかくの取組みもPR不足で多くの人に見逃されてしまったようでした。未来学校や「米沢の森」のホームページ、掲示ポスターなどで周知したらよかったのではないかと思いました。

 ツアーでは、内田地区の寺院や寺社をチェックポイントとして回りました。この地区は由井正雪の乱の鎮定に功績のあった旗本伊丹氏の恩領で、同氏が創建した近隣十二村の鎮守・諏訪神社の奉納相撲の伝統が引き継がれています。かつては上総下総の遠方からも参加者があり盛況を極め、近年まで相撲界とのつながりが保たれていたそうですが、平成になり子供相撲としてその伝統を引き継いできたということです。写真で見ましたが、高い四本柱と立派な屋根とを組み上げる当社の土俵は、なかなか他所では見られないと思います。

 ただ、内田小学校が閉校になるなど、高齢化と過疎化が地域の伝統文化の継承を難しくしているのが実情のようでした。このほかには、本傳寺では文化財としての価値がかなり高いと思われる文字曼荼羅を見せてもらいました。途中未来学校に寄り、いよいよお目当ての長栄寺に向かいました。

 

長栄寺木造十一面観音菩薩立像(千葉県指定文化財(彫刻)・市原市)

市原市HPから

内田小学校の向かい側、房総横断道路を見おろす高台に、長栄寺があります。急な石段を登った目の前に現れるお堂には、鎌倉時代に作られた十一面観音像が安置されています。十一面観音菩薩は、その頭上に怒りや笑顔を表現した顔が巡る特異な姿ですが、すべての方向の人々を見守り、救うことのできる大きな力を持つ菩薩です。本像は、像高の159センチという大きさよりも逞しくみえる堂々たる立ち姿で、カヤ材を用いた一木割矧造です。
 像の内面に、多くの墨書文字が記されていました。その文面には、この観音像は、文永元年(1264年)の夏、仏師賢光が長谷寺の十一面観音像を模して、矢口村(現・下矢田)の天気寺(現状未詳)に置くために作った5尺の等身像であることが記されています。
 仏師の賢光は、千葉県内において1256年から三十数年に渡って活躍し、10体ほどの仏像彫刻が現存するという、稀有な仏師です。現存する鎌倉時代の仏像は、あまり多く残っていないという現状において、さらに、制作者のわかる仏像自体は極めて限られます。そのなかで、仏師賢光の活躍がわかる資料は重要です。千葉市の天福寺の十一面観音像(1256)、匝瑳市の長徳寺不動明王像(1257)に次ぐ3番目に古いもので、次第に洗練されてきた彫技の力強さをみてとれる力作であり、仏師賢光の意欲作です。
 長谷寺(奈良県桜井市)の巨大な十一面観音菩薩立像は、地蔵菩薩の持物である錫杖を手にとり、岩座の上にそびえ立ちます。賢光も、長谷寺の十一面観音のように、観音の慈悲と地蔵の徳を兼ね備えた姿で、人々の大きな期待と願いを受け止められるよう、彫り上げたのでしょう。 観音像は丑年と午年の秋にご開帳されます。

          

          木造十一面観音菩薩立像(長栄寺)

                    

 長栄寺は街道沿いに細長く展開する集落の高台上のあまり広くない敷地に建つ小規模なお堂です。このお堂に安置される十一面観音像は独特の特性を備えています。

 ひとつは製作者が明らかになっていることです。その製作者とは仏師「賢光」という人で、1256年から三十数年にわたって下総を中心に上総でも活動し、10体ほどの仏像彫刻が現存するということです。このように行動範囲や作風の変遷をたどることのできる地方仏師の例は稀有なことだそうです。しかしその経歴や人物像はわかっていないようです。

 二つ目は、この像が長谷寺の十一面観音像を模して作られたことです。右手を下げて与願印を示しているように見えますが錫杖を掌に持っています。手のひらには錫杖のための溝が彫られているそうです。

 右手に錫杖を持ち、四角形の岩座に立つ十一面観音像は「長谷寺式十一面観音」と呼ばれます。(長栄寺像は蓮華座上に立っています。)この長谷寺式十一面観音は鎌倉時代後期以降、奈良の西大寺系律宗を中心に流布したという説があるそうです。鎌倉時代後期には幕府・北条氏の仏教政策の一大拠点であった鎌倉極楽寺(西大寺系律宗の系譜に属する真言律宗の代表的寺院)を本拠とし政権の権威を背景とする真言律宗が仏教界を席巻しますが、この説に従えば、長谷寺式十一面観音像が少なからず製作されたのは、西大寺と極楽寺との由縁を背景とする当時の政権の宗教政策を反映したためだと思われます。

 仏師賢光は、みずからの信念や知識・技能に従って造像したのか、施主の意向を受けて造像したのか、どちらだったのでしょうか。請負であるうえは、施主の意向を無視することはできないと思われるので、おそらく後者だったのではないかと思われますが、施主の意向の背景には創建まもない真言律宗・極楽寺を宗教政策の一大拠点とした幕府・北条氏への忖度があって長谷寺式十一面観音像が造られたと想像できるのではないでしょうか。

 市原市のホームページによると、長栄寺十一面観音像は元々「矢口村(現・下矢田地区)の天気寺(現状未詳)に置くために作った」ものでした。この地区を含むと思われる矢田・池和田地域は、頼朝政権の樹立に功績のあった上総広常の領地の中でも重要な地であったと考えられている場所であり、広常粛清後に広常の娘、次いで又その娘に対して幕府から「矢田・池和田地頭職」相続が認められました。その後は婚姻による相続か何かの事情により常陸平氏の行方氏が領有したそうです。

 長栄寺像が造立された時期には行方氏の領地になっていたと思われるので、行方氏が新領地・矢口村の民心の慰撫と領主の権威の誇示のために「天気寺」と本像を造立しようとしたと考えることができると思います。その際、行方氏は幕府・北条氏に忖度して真言律宗と関係が深いとみられる「長谷寺式十一面観音」を矢口村に置くことを計画したのかもしれません。

 なお、本像が現在地(内田地区)に伝わった経緯はわかっていないようです。ただ戦国期に池和田城主多賀氏が本像を尊崇して祀ったと云われているので、矢田・池和田地区に在ったが落城後に戦国~江戸時代に近隣する内田地区に移ったと思われます。本像はこの地域にとどまり、その750年余の歴史を閲してきた稀少な古像であるということができます。

 一方、このお像は姉妹像のうちの姉像だと地元では言われています。妹像は現在の国道を茂原市方向に進んだところの笠森観音(本尊は十一面観音)であると云います。現在は、笠森観音には鎌倉時代の古像は伝わっておらず、火災で焼失したのかもしれません。

 しかし、長栄寺像は矢口村の「天気寺」に納めるという造立の目的がはっきりしていることから、笠森観音とは別に作られたと考えたほうが良いのかもしれません。姉妹像の伝承は、後世に名高い古刹・笠森観音と関連付けられものと思われます。ただし、内田地区と笠森地区が、茂原に向かう街道上に隣接していることは注目されます。

 

 内田地区と茂原を結ぶこのルートを西側に延長すると木更津、東京湾に達します。内田地区と木更津を結ぶ線上には矢田・池和田地区があります。

 さらに、鎌倉時代の歌人、藤原長清が編纂し出版した歌集「夫木和歌集」に「来たりとや 音信山のホトトギス 語らふ声は 上の空にて」と詠まれた音信山があります。この歌から鎌倉時代には音信山は歌枕として知られた名所であり、人々が繁く往来した街道が通っていたことが窺えます。

 音信山は、旧上総国の望陀郡(現・木更津市)と市原郡の境界に位置しており、海抜182mの低山です。地元の人によると、むかしこの山に東京湾の海上交通のための燈火が灯されたといわれ、木更津、東京湾方面との通交があったことも窺えます。平安時代後期に上総氏が音信山の麓の矢田・池和田地区を重要な所領と認めていた理由は、このような交通の要地であったためだと思われます。そして内田地区は、音信山を越えて木更津へ往来する街道が通っていたわけです。

 加えて音信山は山間仏教の古いフィールドであったようで、現在矢田・池和田地区にある光明寺(天台宗)は元はこの山中にあって、聖武天皇勅願の金光明寺の旧跡とも伝えられ古くは鎮護国家の道場があった可能性も考えられますが、永観元年(983)に大僧正覚運が再興したのち、現在地に移ったと伝承されています。

 現・光明寺は本堂周囲の土塁や堀の跡から中世の館跡ともいわれ、近世には朱印高15石を受けた名刹です。音信山の北側は鎌倉時代の優れた仏像を複数伝える古刹・橘禅寺と山で一体的につながっており、この山地一帯は古来この地方を代表する宗教的聖地であったと思われます。

 一方、現在の長栄寺の境内地は、地形的に恵まれているとはいえませんが、東京湾-木更津-音信山-茂原-東上総をつなぐ政治経済、交通(南北に流れる養老川とクロスしている)、宗教上重要なルート上に所在していることは、この十一面観音像が当地に伝来している経緯を考えるうえで注目すべきであると思われます。ルート西端の東京湾の対岸は海上交通の権益を支配していた金沢北条氏の本拠地につながり、内田地区は現在過疎化に対峙していますが当時はこの東西を貫くルートが重要な機能を有していたと考えられることが注目されます。

 なお長栄寺のある地の大字名は「宿」といい、中世に街道上に置かれた宿場であった可能性があります。(参考までに、「内田」の文書記録上の初出は延文3年(1358年)。それによりこの時代に内田地区に「西福寺」という寺院があったことが知られる。因みに印西市に同名の天台宗の寺院があり、賢光作の不動、毘沙門天像が伝わる。)

 現在では容易に見過ごしてしまうような小さな集落ですが、江戸時代には領主・伊丹氏の陣屋が置かれていました。当地は音信山を越える前後に休憩したり時には泊まったりする地点として好適地だったのではないかと思われます。このような中世以来の宿場の土地柄が、十一面観音像を現在地に招き寄せたのではないでしょうか。

 また、内田地区には笠森地区に隣接して「市場」という大字名があり、袖ヶ浦市の山谷遺跡において鎌倉街道付近で中世の道と市場の遺構が見つかったように、中世に市場がこの街道の周辺にもあったのではないかと思われます。「宿」や「市場」という地名は街道に関係のある地名だといわれるようです。

 

 長栄寺・十一面観音像について考えるとき特に、街道で繋がれる 光明寺-長栄寺-笠森寺-長福寿寺(長福寿寺は、およそ1200年の昔、延暦17年(798)に桓武天皇の勅願により、伝教大師最澄〔天台宗の宗祖〕によって創建された由緒ある大古刹です。中世においては日本三大学問所(談義所=僧侶の大学)として寺院子弟の教育にあたり、西に比叡山、東に長福寿寺(当時は東叡山と称した)ありと称せられ、実に関東天台の要をなしていました。〈長福寿寺ホームページより引用〉-永興寺(茂原市。西大寺本尊同様に清凉寺式釈迦如来立像が伝来する。県内に二例のみ。)の“天台宗寺院ライン”が注目されます。

 仏師・賢光は当時のこの街道沿いの地域の宗教的環境にインスピレーションを受け、また当地方の天台宗寺院ネットワークとの縁によって十一面観音像の造像を引き受け、優れた像を残したのではないでしょうか。

 加えて考えられるのは、「花島観音」として知られる千葉市の天福寺・十一面観音像は仏師・賢光の若い時の作であり、その胎内墨書から「橘氏女」が願主の一人らしき人物として想定されますが、一方、市原市の音信山や矢田・池和田地区に近い橘禅寺は古くは「橘寺」と称され、仏師・賢光の活動範囲でもある下総・上総に展開していた「橘氏」と関係が深いと見られていることから、長栄寺像の造立にも賢光の「橘氏」との縁が関わっているようにも想像されます。というのは、橘禅寺は長栄寺像造立の3年前に火災にみまわれ、直ちに大仏師常陸公蓮上と小仏師信濃公新蓮によって諸仏像が復興されていますが、長栄寺像はその直後に造立されているので、両者に何らかの影響関係があるように想像されるためです。

 前述のとおり、自分は矢口村(矢田・池和田)の新領主である常陸の行方氏が長栄寺像の施主だと想像しますが、常陸からは遠隔地であるため下総・上総で影響力を持つ橘氏の助力を受け当地の経営を行った可能性があると思います。

 

 長栄寺では特別に内陣に立ち入らせていただき、間近くから見上げるように十一面観音像を拝観させていただきました。像高5尺の堂々とした体躯を持つお像です。肉身部は金泥塗りで、衣装部は木材の素地あらわしとしています。腰から下の衣裳を厚く付けているのが本像の特徴のように思われます。その腰布は折り返されて重ねられ、裙は襞が繁く連続して彫り出されており、これらが美しい意匠となって荘厳しています。これらの衣装は別材で彫り出され本体に取付られたように見えるほど厚く起伏に富んだ彫刻となっています。

 頭部は長円形で大きく、顔面はやや下膨れで豊頬です。この大きな頭部とそれを乗せた肩から胸にかけての上体部は、力に満ち堂々とした威容を感じさせます。条帛に覆われたウエスト部は上体部に比して極端なほどに深くくびれて引き締まり、左側にひねられています。

 相貌はやや図形的で、鎌倉時代の仏像にしては慶派仏師の作のようなリアリズムに乏しく、身体部の動的な表現にも乏しいように思われます。賢光のこの作は、房総の仏像に多く見られる伝統的な古い作風を示しているように思われます。こうした作風の部分の造形にも作者の優れた力量を感じますが、特に腰から下の衣裳の表現には鎌倉時代らしい慶派の影響が感じられ精彩があるように思われます。

 しかしなんと言っても、このお像の前に座り見上げた時の、こちらを見おろす圧倒的な威容こそがこのお像の本領と言ってよいと思います。仏師・賢光が長谷寺の十一面観音像を模して本像を造像したと墨書が伝えているのは、巨大な長谷寺像を見上げた時に感じるそのような驚異を五尺の本像の裡に再現させようと構想したということだと思います。

                

                                 Ⓡタケチャン