　ひょっとして自分に用意された鉄瓶には水銀が入っているのでは？　と三遊亭圓朝が疑心暗鬼になり満足な高座が演れず新聞で酷評されました。ライバル関係にある柳派の春風亭楓枝による策略だったのですが、これにより楓枝への褒美的に真打昇進が決まったことを聞いた圓朝は「いよいよ何かお返しを考えなくちゃいけないな」との言葉を残し、弟子の春朝を高弟の橘家圓喬へと預けます。さて、この先物語がどのように動くのか？　早速、小松光宏作の推理小説「すべて売り物」のあらすじ最終編を記します。

すべて売り物　あらすじ

　若く厳しい圓喬の門下に移った春朝が芸に打ち込みひと月ほど経った頃、圓朝の内弟子、前座の橘也から圓朝宅へ上がってくれるよう知らせを受ける。圓朝の喉が潰れてしまった、というのである。
　大あわてで圓朝宅へ行き、橘也から話を聞くと、主治医の千葉先生はすでに帰っていたが診察しても首をひねるばかりだったという。
　圓朝は一枚の紙を春朝へ示す。そこには、人間の上半身が描かれあり、首のところに「×」が書いてあった。喉の不調を訴えたものだと納得した。その横には大きく「ヌキ」とも書かれてある。どうやら寄席休演の手はずを整えてくれとの指示であると理解し、橘也と手分けして圓朝が出演予定の寄席とお座敷へ断りに回ることにする。
　普段は圓朝のことを陰であれこれ悪く言う席亭たちも、圓朝が出ないとなれば話は別だ。圓朝が出ない寄席など一流とはいえない。それが世間の認識であった。あれこれ文句を言う席亭に代演を三遊亭圓生にしてもらい、寄席を後にしようとしたとき、噺家たちの会話が聞こえてきた。
「柳派のほうじゃ、今日から新しい真打の披露だってな」
「春風亭楓枝だろう」
「なんでも向こうは圓朝師匠をぎゃふんといわせさえすりゃ、芸が巧くなかろうが真打になれるらしいじゃねえか」
「馬鹿言うない」
「ほんとうだよ。なんでも向こうじゃみんな言ってるぜ、ありゃ特例昇進に違えねえって」
　この会話を聞くまで、春朝は楓枝の真打昇進のことは綺麗さっぱり忘れていた。会話の主たちに楓枝の披露興行の寄席を聞き、そちらに向かうことにした。

　人形町日和という言葉がある。魚河岸や問屋街で働く人が多いため、雨が降ると他に行くあてがなくなり寄席でも行くか、と言って寄席が繁盛する。今日はそんな人形町日和。お富与三郎で知られる玄冶店、大通りに面して人形町の末広はあった。
　案の定、末広の木戸口は客の差してきた傘がひしめき合っていた。楓枝の真打披露興行は盛況のようだった。

　大師匠の一大事だから、しばらくそばにして差し上げろ、と圓喬に命じられ圓朝の屋敷に詰めている春朝だったが、二日経ち三日経っても圓朝の喉はそのままだった。ここまで回復の兆しがないと、ひょっとして圓朝師匠は声が出ないのではなく出さないのでは、という考えが沸いてきた。つまりは楓枝の場合と同じことだ。
　つまりは圓朝師匠の趣向では？　原稿用紙に筆を走らせている圓朝の横顔を見つめ続けた。
　その時、橘也が「圓朝師匠にお客様で御座います」と入ってきた。春朝は橘也の後ろの人物を一目見るなり、「あっ、楓枝！」
　そこには思い詰めた顔をした新真打の楓枝が立っていた。
「何しに来やがった、この野郎！」
　掴み掛かろうとした春朝を圓朝は手を差し伸べて止めたのである。
　楓枝は勧められた座布団を脇へどけると袴を気にしつつ正座した。そして、畳に手をついて深々と頭を下げたのである。それを目にした圓朝も居住まいを正す。
「このたび、大看板、席亭、ご常連、皆々様のご推挙をいただきまして、真打昇進に相成りました、春錦亭柳桜の弟子、春風亭楓枝でございます」
　圓朝はにこやかに頷いている。
「圓朝師匠……」楓枝は声を絞った。「どうかこれにてご勘弁を……」
　春朝は耳を疑った。事態が飲み込めずに圓朝と楓枝を交互に何度も見直した。圓朝の表情には驚きを感じた気配はない。楓枝は再びひれ伏すように頭を下げ、
「師匠には席のほうへぜひ出ていただきたく……どうか、どうか……」
　春朝は訳が分からなかったが、圓朝はこうなることを予期していたような柔和な顔である。楓枝が続ける、
「わたくしの負けでございます。先のご無礼はひとえにお詫び申し上げます。圓朝師匠！　楓枝めの詫びを容れ、そして席のほうへご出演を願います」
　圓朝と楓枝の間の空気がフッと緩む。圓朝の定規で引いたような体の線がほぐれた。
「ようござんしょ」そう発した圓朝の声は、以前と変わらず明瞭に透き通って響いた。
「あなたのお申し出はこの圓朝、しかと請け合いましょう」
「……ありがとうございます」楓枝はホッと微笑んだ。

　どうやら圓朝は思惑があり声が出ないフリをして寄席を休演した、というのが真相のようですね。そしてそれは真打披露興行の春風亭楓枝を何やらいたたまれない心境にさせたようです。圓朝の真意は？　楓枝の語りが続きます。

「初日から思いもよらずお客様が詰めかけました」楓枝は言った。「あたくしは欣喜雀躍いたしました。猛稽古が実を結んだ、と思いました。何よりも嬉しかったのは、圓朝師匠と対等な勝負が出来たということでした。圓生支障が出ている寄席“大ろじ”の方の客の入りはどうだろうと、前座を探りに行かせました。すると、圓朝師匠はヌキだというじゃありませんか。気負っていた分ガックリと気が抜けましたが、反面納得もいたしました。圓朝師匠がヌキであるからこそ、こちらにお客様がいらしてくれるんで、自分と圓朝師匠が競ってまともな勝負になるわけはない、と」

　初日とはいえ大入りの真打披露興行の真相を知った楓枝は、二日目も三日目も前座に圓朝の様子を探りに行かせ、どうやら圓朝は声が出なくなっての休演ということを知ります。

「ドキリといたしました。あたくしの真打披露の振り出しから、都合良く圓朝師匠の喉がいけなくなるってえのは腑に落ちない。先のあたくしの、計略の件もある。……そうか、圓朝師匠は仮病を使い、あたくしの門出に傷をつけぬようお心をかけてくだすったのだ、と思い当たりました」
　涙を浮かべ楓枝は言葉を続ける。
「あたくしの方は圓朝師匠を笑い者にし、一方圓朝師匠はあたくしの真打披露をこうして引き立ててくださる……、まったく穴があったら入りてえ思いで……」

　圓朝は楓枝の意を汲んで翌日から“大ろじ”へ出演することになります。
　そうなると、今まで２００人を数え満員だった楓枝の真打披露興行は、精々が４、５０人ほどの客足となってしまいました。
　しかし、楓枝はやる気満々火の出るような高座を披露します。

「何が三遊亭圓朝だ、冗談言っちゃいけねえ。この春風亭楓枝を見くびるんじゃねえぞ」
　高座を降りたばかりで気の高ぶっている楓枝のがなり声は、楽屋から春朝のいる通路にまで聞こえてきた。
「八丁荒らしの圓朝に、出る席出る席お客を奪われ、俺たちの柳派は追い詰められてた。おかげで益々貧乏にならぁ。で、しかたなく、しかたなくだ。涙を飲んでああいうつれえマネをしたんだぞ。わかってんのかっ」
　実はきのう、楓枝の頼みを聞き入れた後、圓朝は楓枝にこう言ったのだった。
「あなたがこうしてわたしのところへいらっしゃることは、最初から見当はついておりました。そりゃあそうでしょう。真打披露の興行が大入りだといったって、あれは圓朝が近所の寄席を休んだからだと言われちゃあ、あなたもさぞかし悔しいでしょうからね……ふふ、まあ、そうして頭を下げていただいたんだから、私の方でもこの前の意趣返しが果たせたというわけで。よろしゅうがす、席に出ましょう。そうして実際、あなたのほうにどのくらいのお客さまがつくものか、ちゃんと見極めていただきましょう」
「畜生っ、これからは、圓朝なんかにゃ負けるもんじゃねえ！」
　楓枝の気迫に楽屋の者はすっかり飲まれている。
　春朝は一人の真打の誕生をそこに見る思いがした。楓枝のことを特例昇進などと陰口をたたく者は、今後いなくなるだろう。
　春朝は、圓朝から託された酒の切手を楽屋の上がりかまちにそっと置いて、楓枝には会わずにそのまま末広をあとにした。

　圓朝はまもなく寄席の出演からはすっぱり退いて、創作のみに専念することにした。すでにだいぶ前から、決意だけは固めてあったようだった。春朝を圓喬の門へ移したのも、自分の下にいては席亭の反感を買い、真打にはなかなかなれない、との弟子思いからの配慮だったのだろう。
　春朝はそう思ったが、師の意がなかなか汲み取れぬ春朝のことであるから、ほんとうのところはどうだかわからない。

（了）

　この作品中、圓喬はほんの少ししか登場しませんが、圓朝の他の弟子たちが、師匠の一大事で浮き足立つのに対して、圓喬は泰然と描かれているのが印象的でした。時代設定としては、『文七元結』の掲載～圓朝が寄席から隠退する少し前ですから、明治二十二年四月あたりでしょう。圓喬満二十四歳、圓喬襲名から二年後ですね。
　結末が人によっては、「圓朝らしい優しい意趣返しだ」、「謎に比べ結末がこぢんまりしてしまった」、と意見が分かれると思います。
　すでに筆を折った作者なので長めのあらすじになりました。次は現在も活動している作家太田経子作、主人公が圓喬の小説「芸鬼」をお送りする予定です。
　ですが、その前に一つ二つ別口を挟みます。

圓喬全集 コラム その１７【圓喬が小説に登場！？】終編 ネタバレ注意！

圓喬全集　コラム　その１７【圓喬が小説に登場！？】終編　ネタバレ注意！