日本のロックプロデューサーと言われて真っ先に思い付くのが佐久間正英さん。

中学生の時、すでに解散していたBOOWYでロックに目覚め、メンバーの中でもボーカルだった氷室京介さん(ちょうど「KISS ME」が大ヒットしていて「Memories of Blue」というアルバムがリアルタイムだった)のファンになり、過去のアルバムも聞き漁るようになった。
2枚目の「NEO FASCIO」というアルバムのゲストミュージシャンのクレジットを見ると同じ人が全曲のギターもベースもキーボードも弾いていて、アルバムのプロデューサーもその人だった。
そこにはMasahide Sakumaの名があり、俺は初めてその名を知った。

当然BOOWYのアルバムも聞いていて、3枚目の「BOOWY」にはプロデューサーとして、ギタリストである布袋さんがプロデューサーとして制作された4枚目の「JUST A HERO」にはサウンドアドバイザーとして関わっている事を知るのにも時間はかからなかった。

高校生になると、ビジュアル系も含め色々なバンドがシーンの中で頭角を現しはじめ、GLAY、JUDY AND MARY、黒夢といった、僕と同世代の人ならリスナーとして高校生の時に通った人も少なくないであろうロックバンドにハマっていった。
彼らのアルバムのクレジットを見ると、そこにもやはり「Sound Produced by Masahide Sakuma」の文字があった。

その頃の僕は、音楽は好きでもバンドも何の楽器もやってなくて、友達と趣味でやるバスケをやってる方が3度の飯よりも好きで、愛読書は人気バスケ漫画「SLAM DUNK」と毎月欠かさず買っていた月刊バスケットボール。
今でもバスケの話をすると、「実は音楽よりもバスケの方が熱いんやないん?」と言われるのも、その時の名残によるものなのは自分でも自覚しています(笑)。
でも彼らのようなロックバンドを聞いて自分のバスケのテンションを上げてたし、もし自分もバンドをするなら彼らのようなバンドを作ったら面白そうやと漠然と思っていたし、やるなら黒夢の人時さんみたいなベーシストになりたいと思っていた。
ジュディマリのライブを市民会館に見に行ったのも、それくらいの時期だった。

そしてやはり佐久間さんプロデューサーのGLAYのアルバム「BEAT out!」を発売日に買い聞いていくうちに、相変わらずバスケ部でもないのにバスケに狂うのと同時進行で、「俺は松山のGLAYになりたい!ベースを買ってGLAYみたいなバンドを作りたいし、ああいう音楽を自分も作りたい」と思うようになった。
まだベースを買ってもないのに詞を書きためたり(これが「彼女の“Modern・・・”」をパクったような詞だった(笑))、アルバムのスコアを買ったりしながら、ベースを買うまでの間はそうしてバスケに狂いながらロック熱とバンド熱を弓矢の弦を引くようにじわじわと自分の中に気持ちの力をためていた。
高3の受験シーズンにクラスメートに安く譲ってもらい、ようやく初めて自分のベース(どこのメーカーのなのかも分からない黒のモッキンバード)を手にした。

受験が終わるとこれを待ってたかのように、部屋でベースを抱えGLAYのスコアと睨めっこする日々。
音楽雑誌でも特にプレイヤーやバンドマン向けの物(GIGS、BANDやろうぜ、ロッキンfなど)を読んで、自分の好きなバンドやベーシストの記事を読み漁っていく。
そんな中、人時さんやBOOWYの松井さんやGLAYのJIROさんが佐久間さんから伝授された逆アングルピッキングで弾いている事を知った。

逆アングルピッキングというのは、右利きならピックを弦に対して右下がりで持って弾く奏法。
早速試してみたけど、ピックを持ってるだけでしんどくなり、「順アングルよりも良い音が出るんかもしれんけど、俺には無理やわ!」と思い、ピック弾きメインでも佐久間さんやその弟子である自分の好きなベーシストみたいなピックの持ち方は諦め、順アングルで弾き続けることに。

ベースを初めてから1年と4ヶ月で突然ボーカルに転向。
この時初めてのバンド結成に向けてメンバーを探していて、すでに決まっていたギター(主にサイド)とドラムには「何でいきなり?」と言われたのも無理はなかった。
その僕が初めてのバンドとしてボーカルをしたVISAGEが解散してからは、次のバンドpearでは初めてベースでバンドを組み、初めてベーシストとしてステージに立った。
脱退後はアコースティックユニットREVIVEでボーカルをやったり、その後は一人でアコギの弾き語りでの活動をメインにしていったりした。

そんな時、R34 sariariseというバンドのサポートでベースを弾くことになった(これが正式メンバーとして参加することになるCRYSTAL EDGEのひな型になったバンド)。
サポートとは言え、ロックバンドのベーシストになるのも、バンド形体でやるのも6年ぶり。
その1年半ほど前に自分のソロの音源のレコーディング用や、いつかベースでもバンドやってみたいという思いから、今も使ってるバッカスの青いジャズべタイプ(JIROモデル)を買っていて、ロックボーカリストでいながらもロックベーシストとしての気持ちも再び目覚めようとしていた。

久しぶりのバンド形体での活動とライブ、久しぶりのベースに自分でもわくわくしていたし、バンド練習だけでなく個人練習にも力が入っていた。
ライブまで1週間を切ったある日、個人練習をしていたらピックが割れてしまった。
でもそのピックを見ると、右の方が割れていた。
この割れ方やとピックを弦に対して右に下げた弾き方、つまり佐久間さん推奨の逆アングルピッキングで弾いていた証拠。
18、19の頃、自分には出来ないと思っていた逆アングルピッキングがいつの間にか出来るようになっていた。
これは、どんなに難易度の高いテクニックやフレーズが弾けるようになった事より達成感があった。
やっと自分にも佐久間イズムが流れたんだと。

それからはJIROさんや人時さんや松井さんのように、自分も逆アングルでベースを弾いていると堂々と言えるようになった。
これで自分の音も変わったし、それでD.j.dやクリスの音も成立するようになり、佐久間さんプロデュースのバンドではないけど、間接的ではあるけど(そもそも間接的にすらなってないのであろうが)佐久間イズムをDNAを継承したベーシストやバンドになれた気がしています。
自分が10代の頃に憧れたあのバンドやあのベーシストのように。

ほとんど僕の身の上話になってしまったけど、今の日本のロックシーンも、今の自分も、ロックプロデューサーとしてだけではない佐久間正英さんという偉大なる音楽人がいなければ無かったと思います。

謹んでご冥福をお祈りします。