どんなスポーツ選手でも、速かれ遅かれいつかは引退の時はやってくる。

例えどんなスタープレイヤーやチームへの貢献度の高い選手であっても・・・。


そして昨日、俺が最も引退して欲しくないバスケ選手の引退が発表された。

日立サンロッカーズ #11 シューティングガード 菅 裕一


このブログでも何度も言ってきたけど、高校の1つ上の先輩にあたる人でもあります。


このニュースは日立ファンに大きな衝撃を与えた事は容易に想像できる。

おそらく、五十嵐や柏木の移籍の時よりも大きな衝撃かもしれない。

移籍ならたとえそのチームを去っても、他のチームでそのプレイを見られるけど、引退となるともう見られないから・・・。


チーム内での出番が少なくなっていっての引退はバスケに限らずよくある話ではあるけど、裕一先輩はそうではなかった。

入団して以来、コート内外問わずチームには不可欠な存在であり続けてきた。

ここ2シーズンはキャプテンとしてチームをまとめていたし、穣次や酒井ら若手が台頭してきても、ほとんどの試合でスタメン出場を果たしていた。

チームの得点源として数字を残せた試合も、逆にディフェンスなど数字には残らない活躍をした試合でも、プレイングタイムは30分以上あった試合もざらだった。

個人賞では2008-2009年のシーズンは年間ベスト5、2010年のオールジャパンでは大会ベスト5にも選出された。

まさにMr.サンロッカーズと呼べる活躍と実績だった。


国際試合ではユニバ代表に2回、A代表に1回選出され、また昨年は1次選考はクリアし最終選考で惜しくも外れたけど、A代表の候補メンバーに選ばれた。


裕一先輩がキャプテンを務めたこの2シーズンは、チームとしても創部以来のいい時でもあり、裕一先輩としても最も充実してたような気がする。

多くの日立の選手やファンはもちろん、他チームの選手やファンも「まだやれるはずなのに」という意見も多くあるし、俺もそう思ってる。

でも出番が失われてしまってからではなかったから、ある意味いい時期であれたうちの引退なのかもしれない。



日立本社ライジングサンと日立大阪ヘリオスが統合して2000年に誕生したのが日立サンロッカーズ。

その時、ルーキーとして入団した4選手が、半田さん、永田さん、二戸さん、そして裕一先輩の4人。


裕一先輩以外の同期3人は高校時代から全国的に有名な選手やったけど、裕一先輩だけが全国大会で1回戦負けだったり、県予選で負けたりで全国的には全く無名の高校生やった。

裕一先輩が3年の時の選抜は県予選でパナソニックの青野を擁する松山城南に敗れ全国への切符を逃し、その全国の決勝カードが、半田さんがメインガードだった能代と二戸さんがキャプテンだった仙台の対決。

その試合はテレビ放映され、俺もそれをビデオに録った。

半田さんの芸術的なパスと、二戸さんの肩を亜脱臼してもコートで戦い続けた姿に感動した。


裕一先輩は京都産業大学の2年生の時、ベンチスタートではあったけどインカレで一躍その名を広め、要約全国レベルの選手となった。

その年の決勝の相手は日本体育大学。

当時の日体の2年生の選手達は、高校時代から全国トップレベルの選手が集まっていて、彼らのいた4年間はインカレ4連覇を達成したまさに伝説の4年間だった。

そんなチームを相手に、2回生で6番手ながら速攻、ドライブ、アウトサイドシュートにと活躍した裕一先輩を、テレビ放映で試合解説をしていた人が「管君はいい選手ですね」と褒めちぎっていた。

その人こそが、元日本代表ポイントガードであり、当時愛知学泉大学の監督であり、そして現日立サンロッカーズのヘッドコーチである小野秀二さんその人であった。

翌年からの京産大はインカレでは好成績は残せなかったけど、裕一先輩は関西のリーグ戦や西日本のトーナメント戦ではMVPや得点王に輝き、当時の西日本の大学界のナンバー1シューターとして名を馳せていた。


京産大を卒業し日立に入ると、なんと高校選抜の決勝のテレビで見た半田さんと二戸さん、そして怪我で苦しみながらも興誠のエースセンターだった永田さんも同期。

特に1年目から裕一先輩がスタメンに定着し、あの半田さんとコンビを組んだ事は高校時代の事を思うと感慨深いものがあった。

チーム時代の成績も不振で、裕一先輩自身も3シーズン目あたりにシュートが不調になったり、相棒の半田さんがチームを去ったりと色々あったけど、五十嵐と柏木の高速ガードコンビが入団した頃から再び調子を取り戻した。

そして、大学時代の活躍をテレビ解説で褒めていた小野さんがヘッドコーチに就任。

当時の日立は日本人のビッグマンがいない事がネックだったけど、五十嵐、柏木とともにスピーディーなオフェンスを展開するのに欠かせない存在となっていた。

柏木も日立にいた当時のインタビューで「菅さんは小野さんのバスケにマッチしている」を発言していた。

小野さんがヘッドコーチになって1年目、チームは初のプレイオフ出場を果たした。


しかしその翌年は柏木がアイシンに移籍し、佐久本さん、戸倉さん、宮ノ腰さんらベテラン選手もチームを去っていき、おまけにシーズン後半戦に裕一先輩は試合中に怪我をし、残りの試合の出場は絶望的になるというアクシデントもあった。

そのけがから復帰して臨んだ翌シーズンには穣次や酒井ら若手が入団し、チームとしても徐々に上向きになってきて、それが結果にもつながってきた。

裕一先輩はキャプテンとなりチームをまとめ、試合でも持ち前のシュート力だけでなく、ディフェンス面でもチームに大いに貢献し、名実ともにMr.サンロッカーズとしてチームに欠かせない存在となっていた。

小野さんも「ここ2シーズン、チームとして優勝を狙えるポジションにまで上がれたのは、彼なしには考えられない」とコメントしている。


昨シーズンはリーグ戦の終盤で佐藤と山田の怪我があり、プレイオフ出場は果たした物の残念な結果に終わった。

今シーズンこそは、佐藤と山田も怪我から復帰し、栃木もアイシンも倒して日立が初の日本一になり、そこに創部以来チームに貢献し続けたMr.サンロッカーズの姿がある事を期待してた矢先の引退発表。

今でも信じられない。

今シーズンは愛媛でも日立の試合が2試合(松山と宇和島)あるから両方とも見に行きたかった。

4年前に今治であった時も見に行ったけど、せっかく裕一先輩のプレイを高校時代以来見られたのに、その試合は前半はリードしてたけど後半逆転された。

それから後もリーグ戦やオールジャパンの決勝をテレビ放映で見た事はあったけど、日立の菅 裕一のプレイを生で見たのは、その時が最初で最後になってしまった。


日立サンロッカーズのチーム誕生のシーズンに入団し、10年間コート内外問わずチームには不可欠な存在でありつづけ、最初は弱小チームだったけど今では優勝を狙えるまでになったチームの主力選手だったMr サンロッカーズ。

そんな人が高校の先輩であった事は、後輩として誇りでもあり、そして自分の刺激と活力の源でもあります。


俺の好きな数字は11で、それは裕一先輩の背番号でもあります。


裕一先輩、今までお疲れ様でした。


TACASHIの青い夜空の海の追憶-yuichikan