ここ1ヶ月以上、現実逃避モード。
好きな事をするのも辛くなった。
それをやっても自分の納得いく物にならないから。
他の人がしているのを見るのも辛かった。
人の好意で誘ってくれても「辛いから」とか「そっとしてください」とか言ってことごとく断った。
申し訳ない気持ちはありつつも、それ以上に辛いとか重いとかもううんざりとかの気持ちの方が大きかった。
でもどこか現実逃避しきれてない。
現実逃避したと思っても現実に追い付かれ捕まってしまう。
それも現実逃避は現実逃避でも、日常生活に支障をきたさない現実逃避をしようとしたからなのかもしれない。
現実逃避をするのはてめえの勝手やけど、昔のようにそれで周りに迷惑をかけたりするのは最小限に抑えたい。
それを思うと過去の現実逃避の時よりは強くなったのかもしれない。
でもある部分はあの時よりも弱くはなっている気もする。
こうやって自分の中の辛く苦しい気持をさらけ出すのは、そうでもしないと自分の心の中に毒や澱みが貯まって苦しくなるから誰かに助けや癒しを求めたいという場合と、逆にそれらを曲がりなりにも乗り越えたりそうしようとする力がある場合とある。
過去のは前者やった。
今のは後者には近くなってるかもしれない。
自分の痛みを内にしまう事の強さと、それができない事の弱さ。
自分の痛みをさらけ出せる事の強さと、それができない事の弱さ。
一概にどちらがどうとは言い切れない。
本当は“さらけ出せない弱さ”でこの1ヶ月を過ごし、ブログに書いた今日が“内にしまう事に出来ない弱さ”が出てるとも言えなくもない。
今の現実逃避は、それができてる時は今までにはない充実感もあった。
ポジティブに言えば、一筋になった事から気持ちが離れ、それとは違う事への感動や刺激があったから。
でも現実に追い付かれると、そんな感動や刺激を求める気力も失せる。
逃げる力も無くなり、捕まったまま・・・。
それでも日常生活の時間は変わらず流れ続け、その時間の流れには真面目に従っている。
そうしないと社会人として生きていけないというのはあるけど、ある意味日常生活そのものが現実逃避にもなっている。
昔みたいに、精神安定剤が無いと生きていけなかった時とは違っている。
日常に疲れ自分の好きな事に逃避するのが現実逃避のよるあるパターンで、過去の俺もそうやった。
でも今はそれが逆のパターンになっている。
日常で気が紛れてるとう面に関しては、日常の100%どころか50%も充実してないにしても、昔よりはマシな気もする。
それとも、単に日常というカラクリの中に無感情に組み込まれようとしているだけなのか・・・。
無感情なら辛さも苦しみも無いし・・・。
今日はこのブログに何回「現実逃避」という言葉を書いたんやろ・・・。