成人式とは何か。

日本ではどういう認識であろうか。さあ成人になるから酒タバコすべておっけー☆などという認識だろうか。あるいは長く会えていなかった友人としばしの歓談をもつセレモニーなのであろうか。はたまた、スーツと振袖+首回りの白いもはもはしたものを身につけるコスプレ大会のようなものか。いやいや、成人として新たに決意をもって生きて行くための大事な区切りの意味をもつ日なのだろうか。

私はどれも違うと思う。

私は、成人式は「"社会"が、その個人を成人と認める日」であると思う。

言い換えれば、「お前をたった今この瞬間から社会の歯車と認めると同時に、お前個人の自律を信頼し自由を与える」という意味である。

20になれば、酒、タバコなど自由が増える。それと同時に失うものもある。それは何か。

社会の保護である。
19までは、まだ社会の保護観察下にあると言っていい。飲酒も、喫煙も、その個人を守るために制限が存在するのであって、20を過ぎれば酒を飲んで急性アルコール中毒で死んでしまおうが、タバコを吸って肺がんになって死のうが、社会は一切責任をとりはしない。ここでいう社会とはその個人が属する集団の事も勿論指している。

したがって。

成人になった、だから自由だ、だから自分が楽しいから暴れる、というのは全く荒唐無稽であって間違っている、と思うのである。

と、いうことはまず成人してから言えということ。である。若輩者がいうべきことではない、ということである。
クリスマスが近いですね。

イエス・キリスト誕生日だね。ヨシュア君おめでとう。
インエクセルシスデオ。
私が言いたいのはこんな麩がしのようにむにゃふにゃしたものではない。

いやしかし
世のティーンたちは恋人いねえいねえと騒ぐわけだが。

自分はもてないと思っている読者諸賢。
自分はなぜもてないのかについて考察したことはありますか?
私はある。

私の持論は、
「モテない奴はモテないからモテないのである」というものである。

意味が分からない奴ァ手ェ挙げろ!!そこのお前!!お前廊下に立ってなさい!!

詳しく説明しよう。
始めに言っておくが「モテない奴はモテないからモテないのである」というのは、全く見込みが無いから諦めなさいという意味ではない。私が今から書くのは持論であって方法ではないからである。

モテないからモテないというのは、先天的なことも勿論含めて言っている事である。容姿、性格、特技等。だから私はここで努力どうこう言うつもりもない。

「出会いが無くて~」というのは
全く的外れな言い訳である。
「モテない」から「出会いがない」のである。

では、どういう事か。

ほとんどの男女の関係の始まりは顔と顔を合わせた言語コミュニケーションから始まると言っていい。それ以外は突然の出会い、それこそ親方に空から女の子が落ちてきたことを報告しに行くぐらいのハプニングぐらいである。

この顔と顔を合わせたコミュニケーションを取る機会はある程度平等に与えられている。重度のコミュニケーション障害でも機会だけでは平等に近いはずである。また、この機会だけは既存の組織に属する努力をすれば得ることも可能である。そこから膨らむかどうかは先天的な問題と喋る努力の話にもなり、ここでは触れない。

そして、ある部分においてモテない人というのはここでモテる人と圧倒的な差が出てくる。どの部分か。

それは「正しい自信」を持っているかどうかという部分において、である。

モテる奴というのは自分の長所をプロデュースする術というのを十代を経て習得しているのである。その自分の長所を「正しい自信」でもってプロデュースしていく。それが異性、さすれば同性からも「その人魅力」として網膜に記憶されるのである。

「自信を持っているのにモテねーんだが」という人があるかもしれない。それは「正しい自信」とは言えず、自惚れというやつか、もしくはその長所が万人受けしない部分、さもなくばそこまで優れていない所を一生懸命にプロデュースしている可能性がある。墓穴をシャベルカーで一心不乱に掘っているようなものである。

そしてモテない人は根本的に自分に自信がない場合が多い。プロデュースする術を知らないからプロデュースするのと自体を諦め、土俵にも上がらない事にもなったりもする。また本当に冗談抜きにマジで半端なくモテないと、自信のなさは他の感情にも火をつけ、他人に魅力を感じる事さえも申し訳なく思ってしまうこともある。

出会いは当人にとっては突然だが、計画に裏打ちされた出会いは多々ある。人づてに人の網膜に記憶された「魅力的な人」に出会いたいと思うようになる。だから出会いの量に個人差が出てくる。

つまり十代青春期に出会いが少なければ、さらに出会いは少なくなりやすいということである。自分の長所をプロデュースするような、そういう技術を持とうと思った時には時すでに遅く、手遅れになることもしばしばあるのではないか。

持つ者はさらに持ち、無い者は持っているものさえ取られる構図が出来上がっているのである。

だから「努力をしないからモテない」という言葉は的を射ていない言葉であると思う。むしろその逆であり、「モテなかった、その結果努力しなくなった」というのが正しいのである。

また、「自分に自信を持て」という言葉は、時に人を傷つける。自分に自信を持てる部分を見出せないから自信を持てないのに、自分に自信を持っている奴にそんなことを言われても逆上してしまうだけであり問題の解決は見込めない。



以上で「モテない奴はモテないからモテないのである」という持論を説明した。

異論は多々あるだろうと思う。感情論や推論に基づいた文章でもある。異論があるのならなぜモテる奴はモテ、モテない奴はモテないのかについて考えてみて欲しい。

そして心の内にしまっておいて欲しい。

そしてモテない奴の例として出したのがすべて自分であるなんてこの口が1m20cm程度裂けたとしても言えない。
かっぱえびせん。

今空腹でこの言葉を聞かされた者はあのサクッとした食感と海老の風味が口の中に広がるのを想像し、胃の中で空腹がコサックダンス大会を始めたかのような感覚に襲われることだろう。

かくいう私も空腹だ。

いまさら言うまでもないが、「かっぱえびせん」とは、株式会社カルビーが製造している海老味のおいしいスナック菓子である。

ここで興味深い話をしよう。
中国人は、日本に旅行に来た際にコンビニエンスストアに行き、かっぱえびせんを発見した時、こんな言葉を漏らすという。

「あっ!このお菓子、中国にもあるよね。へぇー、日本では“かっぱえびせん”っていうんだな。知らなかった。」

おわかりいただけただろうか。かっぱえびせんは中国でコピーされているのである。あろうことか中国の人達は、コピーされた中国のかっぱえびせんのことをホンモノだと思っているのである。

中国はコピー国家であるといわれる。ヨーロッパブランドのバッグ、財布などのコピー商品、洋画やジブリなどの映画の海賊版DVD、名門サッカーチームのユニフォームのコピー、はてはサンリオが生みだしたハローキティ、ディズニーのミッキーマウスなどのキャラクターまでもが名前をかえて姿そのままコピーされている。

これらブランド商品のデザイン、映画、キャラクターなどは知的財産と言われ、知的財産権という権利に守られているはずだ。

では、何故か。
なぜ中国ではこんなにも知的財産権が侵害されているのか。

理由のひとつに、商標登録があげられる。中国では、コピー商品を中国政府が商標登録してしまう。つまり、中国政府がコピー商品に知的財産権を認め、コピー商品をホンモノと言い、ホンモノをコピー商品だと言えることができてしまうのだ。まるで他人のものを取り上げたジャイアンがドラえもんを味方につけたようなものである。のび太は毎日泣き寝入りだろう。こういう大権力が後ろ盾にある状態では、非常に手出しができない場合が多い。さらに、一旦中国政府で商標登録されたコピー商品のコピー元、つまりホンモノの商品は中国ではニセモノとして扱われ、中国では販売が難しい。ますますのび太は泣き寝入りである。

次に、国民性の話をする。
中国の人達は、こういったコピー商品に対して、なんの犯罪性も感じていない。コピーだから何だ。何か問題あるのか、というスタンスなのである。何故か。理由は簡単である。コピーで満足できてしまうからだ。私が主張したいのは、ここだ。

今でこそ中国はコピー国家だといわれるが、戦後の日本は、まさにコピー大国だったのである。

"Back to the Future 3"という映画の中で、未来からきた少年マーティと、タイムマシンを開発したドク(ブラウン博士)との会話の中に、当時と現在の日本の評価がなされているところがある。
ドク「どうりで壊れる訳だ。ここを見てみろ(何かの電子部品をマーティに見せて)日本製と書いてある。」
マーティ「何言ってんだい、いいものはみんな日本製だよ。」

そうなのだ。日本は、数十年前まで、安かろう悪かろうのものを売っていたのだ。

では中国と日本、何が違ったのか。

端的にいえば、中国は「コピー」をし、日本は「真似た」のである。

中国は海外の製品をコピーした。コピーしてコピーしてコピーしまくった。そしてついにホンモノそっくりのものを作る技術を手に入れた。

日本は、外国の技術を真似た。真似て真似て真似まくった。そしてついにホンモノを超えるものを作る技術を手に入れた。

日本では、あまり偽物という言葉は好かれない。もし財布を貰ったとき、ニセモノだけどなどという言葉を添えられたら、きっとあなたはそれがただの皮の袋に思えるだろう。ここが日本の技術が技術然としている理由である。しかし最近では、日本でもコピー商品が流通するようになってきた。これは実に由々しき事態である。

日本人は技術を持っている。その日本人が、ニセモノで満足できてしまうようになったら、ニセモノをつくる技術だけが発達してしまうだろう。
そんな日本は誰も望んでいないはずである。
ホンモノを見分け、求めて行くことに日本の国民性はあると信じたい。