朝ごはんはトーストをいただきました。お昼ごはんは出張先の「まるイ」というラーメン店でラーメンとライスをいただきました。晩ごはんは家に帰ってから五目あんかけ焼きそばをいただきました。

食後にゆず味のマカロンをいただきました。

さらに「いとことチョコレート」という北海道のスイーツをいただきました。かなり美味しかったです。

あまりパラリンピックに強く興味を持てず、応援もできていません。
先天性や後天性の身体的な制約がある中で頑張っているなぁとは思います。どの競技にも適した身体的特性があり、健常者でも各競技に対して向き、不向きがあると思います。
AIでパラリンピックの出場資格を見ると以下のような記載が出てきました。
『パラリンピックの出場資格は、肢体不自由(筋力低下、欠損、関節可動域制限など)、視覚障害、知的障害のいずれかを有し、国際基準(MDC)に基づく「クラス分け」判定を受けることです。13歳以上で、加盟国の代表として選考される必要があります。痛みや体力不足のみは対象外です。』
国際基準という名の条件を決めて、それに合致する人のための一大会に過ぎないと思います。オリンピックは各国のトップアスリートが出る大会と思っており、生まれ月や、戦争を仕掛けた国の選手の扱いなど、いくつかの制約はあるものの、基本体には納得しています。しかしパラリンピックは、特定基準に合致した人だけの大会であって、合致しない障害者・障碍者は出られない。正確な基準は把握できていいませんが、不自由な部位がここまでなら出場できて、不自由の加減が小さい人は出場できないなど、様々な差があると思います。それら様々な状態の方々が、同一の競争で金銀銅を競い合うことに意味があるのか、あっても純粋な気持ちで応援できないと感じています。自分にとっては、そういう大会もあるよね、という感じです。基準を設けないと競えないということだと思いますが、パラリンピックの意義で言っている多様性を認めているようで、実際は基準を作って認めていない(機会が与えられていない)ように見えてしまいます。障がい者の中で差を作っていようにも思える部分もあります。
日本パラリンピックのウェブサイトによると、パラリンピックの意義は以下のとおりです。
『様々な障がいのあるアスリートたちが創意工夫を凝らして限界に挑むパラリンピックは、多様性を認め、誰もが個性や能力を発揮し活躍できる公正な機会が与えられている場です。すなわち、共生社会を具現化するための重要なヒントが詰まっている大会です。また、社会の中にあるバリアを減らしていくことの必要性や、発想の転換が必要であることにも気づかせてくれます。』
パラリンピックのアスリートには怒られそうですが、背が低いけどバレーボールやバスケットボールが好きで、身長ランク別の大会があって、その延長に身体に不自由がある人々向けの大会のようなものでしょうか。
いろんな障がいのある方々に機会を作り出すのが一番の目的であるなら、競い合って勝ち負けを決めるのではなく、それぞれの達成度でメダルを授与するような大会であってほしいと思います。
いろいろ障がいのある方がメダルを取って喜んでいるのはいいと思っています。ただ、障がいによっては出場できそうにない人々を置いてけぼりにしているようで、それはちょっと違うだろと言いたいです。スタートが戦争の負傷者の大会で、それの発展形なので仕方ないとは思います。パラリンピックが公正な機会を与えて共生社会を具現化するヒントが詰まっている(←パラリンピックの意義)と謳うのはちょっと違うだろということです。





















