こんばんは。
みなさん、2023年はどんな年でしたか?
よかった人と思う人もいれば悪かったと思う人もいると思います
今日はそんな、人が持つの思い込みや感想という色眼鏡の話です
さて、大みそかに0.5ミリ以上の雨が降るのは大阪では10年ぶり、東京では19年ぶりなんだとか。
そういえば元旦に雨がふった記憶全然ないですよね。
月1回は神社に行くくらい神社大好きな筆者ですが、元旦は混むわ、並ぶわであんまりいかないことが多いです。
今年は姉夫婦が帰ってきて初のお参りだったので、それも楽しいなということで行ってきました。
パラパラ雨が降っていて、あー辰年だなぁ、と龍を感じながら。
でもさすが、神社に入れば雨はピタッと止んでました。
そんなこんなで家に帰ってきて、次は地震。
大きな地震でしたね。マグニチュード7
元旦から多くの人々の印象や思い込みがまた強く入ったんじゃないかなと感じました。
みなさんはどう思われましたか?
怖かったですか? 可哀想だなと感じましたか? 来るべきいつかに備えないとと思いましたか?
私は復興や苦しむ人が楽になりますようにと時間をとってお祈りみたいな時間を作りました。
「震災だ!」「こんな時にそんな!」「亡くなった人もいるからこれをいってはいけないよ!」という人の中で
一体どれだけの人がそういう時間をとったりという自分にできることをしているだろうか。
そして、これからどれだけその出来事に振り回され続けるだろうか。
断言したいことがあって
「人はどこにいても死ぬ人は死ぬし、死なない人は死にません」
裕福な国にいてもご飯を食べれなくて死ぬ人は死ぬし、
震災や被曝の中でも、死なない人は死なない。
結論だけ言うと、そりゃないぜ…と思うかもしれませんが
魂とか、生まれ変わりや前世とか、知っていくとそうかもと思えてきます。
科学でわからんから、個人的な解釈になってしまうところはあるんですけどね。
だからね、地震で強い恐れを感じるあなたにいいたい。
それって死に対する恐怖をあなたが持っていると言うことです。
「みんな持ってるやろ」って一般化して考えてしまうと話終わっちゃうので、自分が持ってると思ってね。
みんなが言ってたから私も持ったんだ。って人のせいにしてしまう人は
みんなが言っていたことを、そうかもねって思ってるうちに「私が」賛成して取り入れたんだって思ってね。
深くその怖さをみていくと、死にたいする恐怖じゃなくて、別れる悲しさっていう色眼鏡だったりするかもね。
フラットに戻るって言うのは
「地震が起きた」「終わり」
「人が死んだ」「終わり」
って余分なことをつけないこと。 客観的とも言えるかもね。
ロボットみたいになるんじゃなくて、現実を現実としてみていく力というかね。
悲しんでる自分さえも客観的にみちゃうみたいな。
これからは、きっと会える人とか波動の合う人がさらに引きあっていく世の中になると思うのね。
ネットだって、誰でもみれるものなんだけど、ある意味見れる人しか見れないようになってると思うのね。
それはどう生きるか、どう在るかに直接関わってくることだから
根本意識というかベース意識を持つことが大切かもしれないね。
どうやってベースを作ってくかというと
今何を感じていただろう?
今どうしてこう感じたんだろう?
今感じたこれは、私好きかな?嫌いかな?
そういう自問自答を日々やってくこと
それは自分理解だね
それで見えてきたものの中で、脱ぐものは脱いでいく
新しいものが欲しくなったらやってみる。
なんかね、そんなことを感じた今でした。