浦上四番崩れや五島崩れなど幕末から明治初頭にかけて、長崎では壮絶なキリシタン弾圧が行われていたが、大分(ここでは主に国東)ではどうだったのだろうかと考える。
禁教という意味では同じだったはずだが、それほどまで厳しくというか執拗に取り締まっていなかったのではないかと思う。
それはカクレキリシタンが崇拝する石像や墓石、石灯籠などが結構人目につきやすいところに堂々とあったり、それがあからさまにクルスをかかげてたりするからなのだ。

夷の庚申塔 
豊後高田市香々地町夷の庚申塔
交通量の多い三差路の分岐点にそびえており、青面金剛は日本人とは思えない髪型と風貌で見事なクルス(十字架)と蛇を持ち、ω(オメガ)の形態で手を合わせている。こんなあからさまとも思える石像を当時の代官やら藩主は見て見ぬふりをしていたのだろうか?

昨日はお隣の国東市にも足を運んでみた。


泉福寺 

まさかまさかの妙徳山泉福寺
無着禅師の開山と伝える曹洞宗の九州総本山(開山堂と仏殿は国指定重要文化財)である。こんな由緒正しいお寺にカクレキリシタン史跡がどこにあるんだろうと思えば、あった。
しかも山門の手前の一番目立つとこ。

泉福寺の庚申様 
専門家の方々によると青面金剛が右手にクルスと七個のダイヤを持っており、ダイヤはキリスト教の象徴、七個は七つの秘蹟を表しているらしい。さらに「杯」(カリス)に乗っていることに大きな意味があるらしい。キリストは最後の晩餐で葡萄酒を自分の血(契約の血)の印として12人の弟子に与えたことから、葡萄酒を飲むことが教会のミサ祭での聖体拝領を意味する、つまりは聖書の内容を良く表した秀逸なる石像だというのだ。刻まれた年号は享保時代、禁教から100年以上経っているので四~五世代の伝承ということになる。

三位一体のω 
 墓地の方にもうじゃうじゃあった。
たくさんあるので敢えて、ひとつだけ紹介するのだが。
これも間違いないキリシタン仏である。耳なし、ω、三位一体、クルスの台座。


豊後高田市でも富貴寺や応歴寺、杵築市では宗玄寺、国見町の岐部神社などそうそうたる寺社仏閣にこれらの品が鎮座してあるのだからたいしたもんだというか恐ろしい。270年もの間、宣教師のいない中で独自に深化していったカクレキリシタン文化。大分では比較的ユルっとしたものだったのだろうか?密告者には賞金が与えられたり、複数の家族での連帯責任制度などとにかく弾圧の罰則は厳しかったはずなのに。匿ってきたお寺や神社の懐の深さにも惹かれる。 

最近、心惹かれるものが石だったり墓だったりするのは年のせいだろうか。石を彫る行為とは永遠を願い刻む意味があると聞いたことがある。それ故に木彫りにはない深い思想を感じるのだろうと腑に落ちたりもするのである。もう少しだけ、このユル深い世界を探してみよう。



でわ!