- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
教員の価値観に基づく指導によって、
生徒の意思決定の過程に介入すること
は良いことなのか?
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
ぼくは、教員になる前から今に至るまで
「教員のエゴがどこまで許容されるのか」について
悩んで(というより、疑問に思って)いた 😶
誤解を恐れずに言うならば、
『教員による指導は全て、エゴの押し付け
ではないのか?もしそうであれば、それは
本当に良いことなのだろうか?』
と疑問に思っている。
例えば、教員の見事な指導により、生徒が
部活動の大会で優勝した場合を考えてみる。
その生徒は “教員の見事な指導”がなければ
明らかに優勝は難しかったとする。
その場合、ほぼ間違いなく、教員は生徒に
「練習した結果、優勝できたという
成功体験を与えた」と言えると思う☺️✨
もっと言えば、優勝実績のある者だけが獲得できる
将来の選択肢まで与えたと言っていいだろう👏🏻
しかし、ぼくはこうも思う。
その教員は生徒から「練習したが、優勝
できなかったという挫折体験を奪った」と。
( 優勝に導いた指導を非難する意図はなく
むしろ指導者として心から尊敬している🥹✨
ただここでは、逆説的なことも言えるのでは?
と考えたに過ぎず、他意はない。)
これは、日々の指導においても
同じことが言えると思う。
・生徒間のトラブルが、教員の見事な指導
により円満に解決された🧑🏻🤝🧑🏻👍🏻
・将来やりたいことが見つからないと
悩む生徒が、教員の献身的な指導により
満足のいく進路選択を実現できた🧑⚕️👌🏻
いずれの場合も、教員が介入したことによって、
生徒が課題に直面し挫折する体験、すなわち、
『その子らしい解を導き出す成長機会』
を横取りしているのではないのか、と
考えてしまうのだ 🥲
教育機関である学校としては、
入学時と卒業時で変化があれば、それが
(良くも悪くも)教育成果といえるだろう。
卒業していく生徒を眺めながら、保護者や教員は
「多くの先生方の指導のおかげで、
この子は成長した🥹✨」と感じるかもしれない。
そして、それは紛れもない事実、だとぼくは思う。
一方で、もし教員が何の介入もしなかったら
3年間で数々の挫折体験を蓄積し、
卒業式の1週間後に、誰も予想できないような
とんでもない成長があったかもしれない。
・「このままではダメだ、自分を変えたい!」と、
何か大きな挑戦を始めていたかもしれない。
・「同じように辛い気持ちを抱える人に
寄り添う人生にしたい」と、人生に
目的意識が生まれていたかもしれない。
極端な例だが、
その可能性は否定しきれない、ともぼくは思う。
では「教員は生徒の活動に何の介入もせず、
見守り続けるべき」という放任主義が適切か
と言うと、それについても疑問を覚える 😂
( to be continued... )
□・・・・・・□・・・・・・□・・・・・・□・・・・・・□・・・・・・□
〈追記〉
ここまで読んで下さった方、
本当にありがとうございます!😭💕
今回は、ぼくが大学生の頃から考えていた
「教育活動そのもの、のあるべき姿とは何か?」
という話題を取り上げてみました 🙋🏻
まだまだ、書きたいことは
たくさんあるのですが、あまりにも
長くなりそうだったので一旦打ち切りました🤣w
人生初、ブログ投稿!
ふと思いつきで投稿してしまったので
何か変なところがないか不安ですが、
読んでくださった方に本当に感謝です🥹💕
ありがとうございます。
Instagram もやってます!
よろしければ、仲良くしてください☺️✨
