長編小説 『遙かログハウスより祈りを捧ぐ』

長編小説 『遙かログハウスより祈りを捧ぐ』

 いつの日かまたお会いいたしましょう。


       
            

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 ハンマーを振るう私の脳裏には、講師のドレス姿がよぎったり、四国の炎天下の道が浮かんだり、旅先で元妻子を写真に撮る瞬間が走ったりする。


 そういう時は私はしばしハンマーを握る手を休めて祈る。そうしないと手元が狂って左手をしたたかに叩いてしまうのだ。


 祈らずにはおれない時には全てを置いて座禅して祈る。そうすると、やがて心安まりハンマーを握ることができるのだ。


 講師の彼女はにこやかな笑顔で現れたりするが、元の妻子は姿がいつも遠くその表情が読めない。寂しいが、時の流れがそうするのだろうと自分を慰める。



 

 そのうちに私は雑木林に響き渡るハンマーの鋭い金属音に、自分がとけ込んでいくのを快く感じて無念無想になれるのを知った。


 もしかしたら「色即是空」の境地に近づけるかもしれないとも思った。石材は私のノミを軽く拒否し、わずかな傷が付くばかりだったが、私はマメの痛さも腕の疲れも忘れた。


 林の中に鋭く響く金属音が、元の妻や娘や講師に直接語りかけるシラベになっているように思われて、腕を休める気になれなかった。これで三人に近づけると私は信じた。




 雑木林の秋の鮮やかな彩りが終わりを告げていく中に、ハンマーの金属音は響き続けた。すぐそばに厳しい冬将軍の足音が聞こえていた。


 それを同好会の面々が気遣ってくれた。彼らは一日かけて作業小屋まで仮設の電線を引いてくれた。立ち木にくくりつけて電線は最短距離をのびていた。本当に有り難いことだった。


 


 冬の寒さはやはり無防備の身にはこたえた。体も辛いが最も大変だったのは手先だった。ハンマーを握る手もノミを持つ手もすぐに感覚がなくなった。


 うっかりするとハンマーは握力の失せた手からすっぽ抜けてどこかへ吹っ飛んだ。私は悔し涙か、それともかじかむ手足の辛さの涙か、判然としない涙の中で、電気ストーブに手先をかざすのだった。




 冬将軍は容赦しなかった。積雪はみるみるうちに小屋の周囲のコモを押しのけるようにして小屋の中に攻め込んできた。


 最初の猛吹雪が一晩続いた朝にはとうとう作業を中止せざるを得なかった。深い雪の中をやっとたどりついた小屋は、石材もハンマーも深い積雪の下だった。私は仕方なく離れに引き返した。


 離れではいつものように素描画の中から三人が出迎えてくれた。三人ともいつもの表情だったが「今日は休ませてもらうよ。」と講師らの顔の語りかけると、心なしかその表情が優しくくゆるんだ気がした。


 こういう日は一日中離れの真ん中で座禅を組み般若心経を唱え続けた。こうしないと私の心は寂しさに負けてしまいそうだった。





 座禅と読経と石像彫刻と、私の祈りと鎮魂の生活はこういう形に集約して始まり、いつまでも続いた。思えば遠く長い曲がり道だった。


 その間に私は新しい愛を得、そしてもう一つ悲しみを背負った。今となってはこの地を終ひの住み家にしようとしたことに、全ての始まりがあったと思われる。


 その後のことは、全て運命の神のなせる技。その運命にこの身を任せてきた。もう瞑想の中にも彼女らの顔は滅多に出てこない。


 今は、亡き愛しき人々も、私を許してくれているのだろう。この罪多き私を……。


                                                     ~完~

 目的の場所に着くと森林組合のOB氏以外の面々は少々驚いた様子だった。何せ思いがけないところに七体の石像らしきものが立っているのだから。


 黙っている私に代わってOB氏が説明をはじめた。


『オーナーの注文でわしが作って差し上げたものじゃ。交通事故で亡くなりなさったオーナーの奥さんや娘さんや親類の方だそうじゃ。』


『オーナーは毎月命日にはここに参られとったのじゃ。今度はご自分で彫ってみたいと言いなさる。誰の像かはおわかりじゃろ。』


 話題は自然に亡き講師のことになって私はやはり辛かったが平静を装った。


『惜しいべっぴんさんを亡くしたよのう。』


『美人薄命とはよう言うたもんよ。あの人にピッタリだ。もうあんな美人にはお目にかかれんなあ。』


『そうじゃ。近くで拝ませてもろうて酌までしてもろうてのう。あのころが天国だったよの。あのべっぴんさん、ログハウスに勤め始めてから一段と綺麗になってのう。』


『ほんまじゃ。それまでは滅多に近くで顔も拝めんかったのによ、笑顔で対応してもらえるようになって、この辺りの男どもはログハウスへ雪崩れたもんよ。鼻の下長うしてコーヒー一杯で長ごう頑張っとったやつが多かったの。老いも若きもよ。』


『それにしてもよ、パーマをかけてええべべ着たときは大輪の華じゃったよのう。今でも目に浮かぶようじゃ。切ないのう…。』



 面々は私がここで石材を彫ると聞いてそれを気にし始めていた。そして雨の日や少々の雪の日にも作業ができるようにしてやると言い出して、面々はその相談をはじめた。


 翌日から露天風呂同好会の面々は小屋作りにかかった。材料は森林組合からの間伐材とわらやかやだ。それにわらを編んだコモという風よけもあった。


 文字通り掘っ立て小屋だ。屋根はわらと茅葺きだ。それに上げ下げ可能なコモが取り付けられて完成。私一人の作業場にしてはだいぶ広すぎると疑問に思ったがそれはその後すぐに氷解した。


 森林組合のOB氏が懇切丁寧に石の彫り方を教えてくれて、面々は


『それじゃ気長にやりなされや。何でも相談に乗りますけ遠慮のう言うてくれんさいよ。』

と引き上げていった。その飾らない心遣いがとても胸にしみた。



 

 あれから毎日茶室の離れに寝起きして、一杯に掲示した三人の素描画に朝夕語りかけ、朝食と夕食はログハウスでみんなと共に食べ、昼はSちゃんが持たせてくれる弁当を小屋で食べて、ただ黙々とハンマーを振るうのだ。


 時々、露天風呂同好会の面々が見舞いに来て談笑して帰る。なるほど、小屋はそれに丁度いい広さだ。



 素人彫刻師の悲しさ、石材は一向に形を変えない。右手の手のひらにできた豆がやがてつぶれて痛んできたのを絆創膏で手当して、また石材に向かって手を合わせて、私はハンマーを握るのだ。


 彼女への想いを全て刻み込むつもりだ。どんなに長くかかっても構わない。それがあとに残った私のつとめだ。                                     ~続く~

 私は翌朝早く七体の地蔵の立つ場所を詣で花を供えて元の妻達に帰ってきたことを告げた。そして、もう一体を安置する場所を決めた。


 そのあと画材屋に電話して素描画用のフレームを注文した。画材屋はその数の多さに驚いたか注文数の確認に念を入れた。


 このフレームで三人の素描画を茶室の離れに掲げるつもりだ。そうだ!今後はその離れを自分の居場所にしよう。隠遁生活に相応しいところだ。講師の逝ったログハウスは辛すぎる。


 彼女の居室だった洋間には遺品がそのままに置いてある。彼女が今にも帰ってきそうな雰囲気だ。悲しくてこの部屋にはとても近づけない。


 厨房から石窯辺りにも彼女の姿が濃密に記憶に残っていて、今にも彼女がにこやかに現れそうで、胸に迫ってたまらなく、そこにも私の居場所はなかった。


 

 私は茶室の離れの部屋で素描画をどう掲げるか思案した。できることなら三人を描いた全てを掲げたい。それらに囲まれてひっそりと暮らしたいのだ。


 私は自分の手では不可能と悟り、また若専務の手を煩わすことにした。若専務は年配の大工さんを連れてやってきて、この部屋に相応しい掲示方法を相談してくれた。


 


 森林組合のOB氏は約束通り石材一つとハンマーやノミや防塵用のメガネなどを届けてくれた。そして、施工場所が林の中だと知って、彼はそこを下見してウーンと腕組みした。そして


『ここまでの運搬はみんなに任せんさい。』

と買って出てくれた。


 翌日早速露天風呂同好の面々が集まってきてくれた。彼らは久しぶりの私の変貌に少なからず驚きの体だった。


『話にゃ聞いとったが……。』


『ま、元気でなによりよ……。』


『あまり偉うなってわしらを遠ざけんでつかあさいよ。』


『そうそう、今まで通りに付き合うてくれんさいの。』


 ひとしきり私の白髪の髭面や長く伸び放題の白い頭髪を点検して面々がたどり着いた結論は


『これもええのう!』


『このままでいきんさいや。』


『切らん方が風格があるの。』


『元インテリ、今仙人か、オーナーはどう転んでもこの地区の話題の主じゃて。仲良くしてつかあさいの。』



 やがて面々は作業に取りかかった。しかし、急がない。石材の下に持参したコロ材を敷くともう一休みだ。


『オーナーは美術館の館長だったそうですの。道理でインテリじゃ。公民館の館長とは格違いじゃ。』


『ああ、あの館長は俗物じゃ。面倒見はええがの。』


 ひとしきり無駄口をたたくと作業の続きに取りかかる。ロープで石材を縛る作業だ。丸太のコロ材の上をロープで引くのだとわかった。


 それから三時間以上の気の長い作業だった。なにせすぐに休息になるのだから。私は石材が通り過ぎたあとのコロ材を運び上げては石材の前に敷く仕事をした。


 ダラ坂上がりの遊歩道の所々には土砂流出防止の擬木が横に埋めてある。それを越すのが一苦労だった。


 私は作業を手伝いながら、辺りの雑木林がすっかり秋の装いをはじめているのに気づいていた。

                                            ~続く~

 まだ館長にはこのフロッピーのことは知らせてないと聞いて、私はすぐに館長の在宅を確かめると車に乗ろうとした。


 しかし、それは人夫氏に阻止された。「そんな姿を地区内にさらすのは良くない。」というのだ。私は久しぶりに洋服の袖に手を通してお寺に駆けつけた。



 館長夫妻はフロッピーを読んで言葉がなかった。ややあって館長は言った。


『そのフロッピーの彼女の切ない気持ちを供養しましょうや、彼女の思いの丈が書き込まれていますからの。これは彼女そのものじゃ。』


 館長はそのフロッピーを仏前に置いて読経してくれた。読経を終えると館長は言った。


『それにしても彼女は最後にいい人にめぐり遇うて幸せに逝ったと思いますよ。オーナーに巡り会わなかったら寂しすぎる最後だったはずじゃからの。』


『大好きな人に長い間添い寝までしてもろうて、そして看取ってもろうて彼女は嬉しかったに違いありません。オーナーはほんまにいい功徳をなさいました。』


 それから館長は私を彼女が眠る墓の前に連れて行ってくれた。館長のお寺の所有する墓場だ。そこに真新しい墓が建っていた。全ては人夫氏と館長が相談して決めてくれていた。


 彼女の墓の前で私はまた涙に暮れた。そして一つの彼女への供養を思い立っていた。



 思い立つとすぐに着手したかった。私は館長夫妻にお礼を述べると、その足であの地蔵を作ってくれた森林組合のOB氏のお宅を訪ねた。


 OB氏は私を見ると大袈裟に驚いてみせた。


『仙人か化け物かと思やぁ、オーナーじゃないかいの。どうしとりなさった?』


 私はその後のことをかいつまんで説明して、今日の来意を告げた。


『講師の地蔵を自分で作ってみたいので、石材一つと道具一式をしばらく貸していただきたい。』

と。

 

 OB氏は目を丸くしていたが、


『ええでしょう。明日運んで上げましょう。それにしてもオーナーが居りなさらんかった間は灯が消えたみたいに寂しかったでの。そのうちにみんなで集まって慰労会を持ちますけ、元気出してつかあさい。』

と嬉しい言葉をかけてくれた。



 

 その夜、三人の話を聞いてログハウスの変貌を知った。講師がいなくなったことがこれほどにログハウスを変えるとは!


 コーヒールームには以前の賑わいはなかった。来るのは少数の定食の予約者だけだ。あの五軒の改造住居に逗留して温泉湯治を試す人のうち、自炊を嫌うもの、それに二階の予後療養者だ。


 コーヒーを求めて来る客は激減していた。全粒パンやレバーペーストなどの魅力が大きかったと知らされた。


 身を粉にして頑張っていた講師のことが偲ばれる事実だった。まさしく彼女がこのログハウスのコーヒールームの賑わいを支えていたと言っても過言ではなかったのだ。




 車庫の二階は全て病院が借り切っていると知らされた。あの老評論家は二年前からやってこないと。奥さんから入院させるという断りの知らせがあったらしい。これも寂しいことだった。


 二階には多いときには十数人の予後療養者が宿泊するという。意外に出入りが激しいと。マイクロバスでやってくるリフト利用の内湯入湯者といい、どうやら複数の病院が関わっているらしいと人夫氏は言った。

 

 確実に半療養温泉になってきていると思った。                   ~続く~

◎母さん、御免なさい、ご無沙汰しちゃって。私たちものすごく順調なのよ。だからご無沙汰しちゃった。便り無しは無事なの。


 あれからね、彼は「定休日は全部僕にください。」って迫ってきたの。全部くださいとは嬉しい限り、女冥利に尽きるって言うのかな。私、完全に彼に降参して,もうあれこれ勿体付けるのよしてしまったの。

 

 いいでしょ、母さん。




 それからは定休日はいつも彼とのデートです。彼、格好いいスポーツカーみたいな乗用車をデート用に入れてあちこち連れて行ってくれています。


 観光地や海辺を彼と腕を組んで歩いていると夢かと思います。つい先頃までの地獄の状況が嘘みたいです。


 あの辛かったころと今の幸せとが交互に脳裏に浮かんで、彼の腕の中にいるのに、涙が出そうになったりします。


 彼はホントにいい人みたいです。だんだんとわかってきました。一日中二人だけの車中や腕を組んだり手をつないだりしてあちこちしているのに、彼まだキスさえ求めてこないのです。


 なんだか物足りないけど実に安心です。彼得意のプレゼントもたくさん戴きました。喜んで頂くようにしています。だってそうすると彼ホントに嬉しそうなのです。




 秋の快晴の日などに彼とドライブに出て、彼に後ろから優しく抱擁されたりしながら水平線や遠い山並みの稜線などを眺めていると、全ての過去のしがらみから解放されたような喜びがわき上がります。


 私の人生で最も幸せな一瞬です。今が永遠であって欲しいと願ったりします。




 ログハウスでは彼を含めて五人が力を合わせて毎日を生きていくという充実した喜びがあります。初めてこういう喜びを知りました。


 家族同然の五人の中に私も含まれて、とても大切な役割を担って生きているの。これが本当の人生なのね。初めて知りました。母さん、私この生活を大切にするわ。



 

 母さん、もう私大丈夫です。彼が支えてくれてるから。彼と今のままでも文句は言いません。プラトニックでキスも何もなくとも彼さえいてくれたら生きていけます。


 彼にすがりついて生きていきます。今から私の本当の人生が始まるのです。彼との残された時間は短くてもこれからが本当の人生なの。大切にするわ。


 だから母さん、もうこの便り今回で終わりにします。そちらから見えるのでしょ、私たちのこと。どうかいつまでも見守ってください。


 父さん、母さん、長い間有り難う。

                                           

                                        ~今は幸せ過ぎる娘より~ 

                                                            

                                                         ~続く~ 

◎母さん、私またノロケさせてもらうけどいいですか。私,彼にデートに誘われたの。嬉しくてたまらなかったけど少々勿体ぶってOKしたの。


 彼デートなどぶきっちょなのよ。最初に映画に連れて行かれて、そして食事して、それから洋装店で冬と合いのコートをプレゼントされちゃった。


 その時気づいておかしかったけど、彼汗びっしょりなのよ。彼やっぱりいい人なのね。映画館の暗闇の中で私の手を握ることもなく、妻はもう許してくれています、と一生懸命弁解するのです。



 そしてね、ここからが一番お知らせしたいことなんだけど、彼、今後もこういう機会をずっと約束してくださいと迫るのよ。


 未だかつてない積極性なの。私、嬉しくてすぐにもOKしたかったけど、はしたないと見られてはいけないとぐっと我慢してワンクッション置かせて頂きました。


 母さん、とうとうここまで来ました。見守ってくださいね。幸せ薄き娘も五十歳になってやっと本当の幸せに巡り会えるのかもしれません。


◎一寸寂しい思いを聞いて、母さん!

 十月の終わりはSちゃんがログハウスから去る日でした。送り出す宴をいつもの所でいつものメンバーで持ちました。


 Sちゃんがこれまでの想いを述懐しました。またまたオーナーへの感謝の気持ちが色濃く滲んだとてもいい挨拶でした。


 翌日はお別れの日、Sちゃんがログハウスをお別れする日でもあり、私もそこをお別れする日だったのです。私は密かに彼の引き留めの言葉を待っていましたが、とうとうありませんでした。


 何か言いたそうな表情を見せただけで彼は私をそのまま送り出したのです。たとえ引き留められても簡単には「はい。」とは言えないでしょうけど…。


 それでも強引にかき口説かれたら、もしかしたら、彼になら「はい!」と言っちゃったかもしれないのに…。彼のおばかさん!女の気持ちのわからないお馬鹿さん!              ~続く~ 

◎母さん、また嬉しい報告があるの。彼が最高の茶会用の和服一式をプレゼントしてくださったのよ。私嬉しくって息が止まりそうだった。


 オーバーだと言わないでね。今は天涯孤独の幸せ薄き娘なのよ。たとえ彼に下心があるとしてもこれは素直に喜びたいのです。


◎また嬉しいお知らせです。彼が雑木林内にお茶室を建てたの。林の木々との調和が素晴らしいのよ。そこをお茶の講習に使えって彼は言うのです。 


 最高の出来栄えの建物をです。それに、このお茶室の披露の宴のあと私を幸せの絶頂に押し上げたことがあったの。


 宴のあと遅くまでギターや歌で盛り上がっていたら風が出てきたのね。で、急いでお開きにしてログハウスに引き上げる時のことなの。


 皆さん方より遅れて彼と二人で戸締まりして小道を辿ったのだけど、辺りは真っ暗でそれに木々がざわついて、私怖くて夢中で彼にすがりついて歩いたわ。


 彼とは初めてのことでしょ。それだけで痺れていたのに突然一段と強い風が来て、私震え上がって彼にしがみついたの。そしたら彼,私をしっかり抱きしめてくれたの。彼が頼もしかったわ。


 いつまでもこうして抱かれていたいという思いで、風が通りすぎても私厚かましくも手を緩めなかった。もうこのままどうなったっていいという思いだった。


 でも、彼の方からそって手を緩めたのよ。私、唇ぐらいはと期待してたのに拍子抜けでした。彼どういう気持ちなんでしょう。


 亡くなった奥さんへの想いがまだ断ち切れないのでしょうか。でも風が通りすぎたあとの静寂の中での抱擁は、短かったけど私の幸せの最高の時でした。



 このあともう一つ付録があるの。ログハウスに近づいたころ、彼「さっきのギター実は貴女のために取り寄せたものです。受け取ってください。」とストレートなの。


 嬉しかったわ。プレゼント攻勢はどうでもいいけど彼の気持ちが嬉しいの。ここでも私慌てて飛びつくのはよして一歩引きました。真冬に彼をあのギターで特訓するという条件で受けました。


 彼は誰も寄りつけない大雪の日に貴女と二人缶詰になって教えてもらいたいというの。二人だけで缶詰に!とは身震いするほど刺激的でした。母さん、御馳走様でしょ。           ~続く~ 

◎ログハウスに勤め始めて私は始終彼の熱い視線を浴びています。嬉しいような怖いような落ち着かない気持ちです。


 というのもいまだ彼の本性がもう一つ見抜けないからです。表面通り受け取っていいものかどうか。こんなにも猜疑心に悩まされるのも今までの私の男性経験があまりにも劣悪だったためでしょう。これは誰にも言えないことです。


◎ログハウスに温泉が出たそうです。温泉とは言っても温度はそう高くなく含有成分が温泉ということになるのだそうです。


 これでログハウスがあまり変わらねばいいがと願っています。私は今のままの雑木林の中のログハウスが好きです。


◎ログハウスは露天温泉開業に向けて大変な状況です。そこへなんとSちゃんが半年の自宅療養の許可が下りてログハウスにその期間滞在するということです。ほんとに驚くことです。


 そのSちゃんのためにその期間だけ私に四六時中ログハウスに寝起きして欲しいと彼に頭を下げられました。これも驚きでした。


 彼と同じ屋根の下に寝起きするという刺激的なことが始まるのです。でも、私を最も驚かせてことは、Sちゃんのために彼が頭を下げたということです。


 未だかつて経験したことのない感情を私は意識したの。いわゆるジェラシーです。正確に言えばジェラシーに似た感情です。彼っていう人は予想以上の人物かなって考えたりしました。私、まだ甘いでしょうか、母さん。


◎もう一つ私の心を痺れさせた彼の一言があるのです。Sちゃん夫婦の半年間使用するダブルベッドを買いに行ったときのことです。


 彼は私に「あとあと、貴女がずっと使用したいと思うような最高なものを選んでください。」と、宣うのよ。意味深長でしょ。


私痺れちゃった。取り方によれば遠回しなプロポーズとも取れるでしょ。私過剰反応かなあ。母さん、どう思いますか。                         ~続く~

◎また新しいことが進行しています。ログハウスへ私と人夫さんの奥さんとを一緒に雇い入れようというのです。


 しかも、私のために人夫さんのおうちの離れが貸してもらえるというのです。この離れの件は涙が出るほど嬉しいことです。


 今の居場所は義姉さんが亡くなってからは肩身が狭くて辛すぎますから。今回はぐっとこちらへ傾いています。いいでしょ、母さん。


◎私はそれでも今教えている受講生のことが気になっていました。受講生の中には私のことをとても大事にしてくださる方が多いの。


 館長さんがいろいろと打開策を考えてくださり、一度オーナーと直接会ってみたらと奨められとうとうそれに従うことにしました。


 お会いすると、いきなりホールにグランドピアノをを入れましょうと提案されたの。私の気がかりを知っていらっしゃったのね。


 スタインウエイは無理ですが…の彼の言葉につい私言ってはならないことを口にしてしまって…それで急転直下あの思い出のスタインウエイが戻ってくることになったの。


 父さん母さんに繋がる唯一の大切な思いであるものが近く手元に還ります。ほんとに嬉しいことです。


◎それにしても彼の決断の速かったことに驚きました。あのお顔に似合わぬ決断にもしかしたらの危惧も浮かびます。 


 私にはまだ見せない別の本性が潜んでいるのではないかと。ここまで来てもすっかり臆病風にとりつかれています。男ってわかりませんね、母さん。


◎母さん、私に大きな転機が訪れていると思うのです。一大決心をしてログハウスに勤め始めて住居が変わると、この世が変わったみたいに気持ちが晴れ晴れとして無性に心が弾むのです。


 最近体調は万全ではありません。疲れやすくいつもどこかが不調です。歳ですかね。でもログハウスでの心弾む毎日はそんなことを吹き飛ばしてくれます。


 彼の私に寄せる熱い気持ちも少しずつわかってきています。それを知りながら彼の住むログハウスへの勤務を受け入れたのはどういうことか、母さん、おわかりでしょう。私、だんだん後に引けなくなっている自分を自覚しています。                             ~続く~

◎携帯電話って便利で楽しいのよ。母さんの世代は知らないものでしょうね。Sちゃんとも度々気兼ねなくお話しできるし、オーナーからも近頃は度々かかるの。


 オーナーという人は案外シャイな人みたいです。携帯電話でのお話からそう感じたの。でも、こういう女たらしの手もあるかもしれませんから油断ならないのです。


 恥ずかしいけど母さんには告白するわ。私って若い頃、一寸危ない感じのいい男に弱かったのね。だからひどい目に遭うことになったと、今頃気づいています。


 今度のオーナーは危ない感じとは真反対の男性なの。危険な匂いがない分少々物足りないけど、安心かなと思います。それでも油断しません。本性がつかめるまでは…。


◎母さん、私とうとうオーナーから告白されちゃった。秘密にしていたという過去の一切を。まだ誰にも話してないことだそうです。


 彼(もう彼と呼んでもいいでしょ、母さん)は中国でのバス事故で家族や親戚全てを失ったのだそうです。私と同じ天涯孤独なの。だから時々寂しそうな表情を見せるんだわ。


 これで彼との距離が一段と近くなった実感がします。私の過去もお話するつもりです。でも、駄目な男達に慰め者にされた部分はカットします。


 話しても今の私からは想像できないでしょうけど。それほど今の私は地味でクールに変身できたと自負しています。


◎私の過去もお話ししました。お話ししてみて私の過去は自分でもあきれるほど我が儘一杯にしたいことをして浪費を繰り返してきたんだと気づきました。


 その罰が当たったのだとも気づきました。彼の告白と比べてホントに恥ずかしいです。母さん、親不孝許してね。                                           ~続く~