昭和笑話

昭和笑話

昭和終盤のノスタルジックなあれこれを偲ぶ

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自分でリクエストしたのか、母が買ってくれたのかは忘れたが、

私の娘たちに日本から送ってもらい、今でも手元にある1冊だ。

私自身も子どもの頃に読んだ覚えがあったが、昭和51年(当時2歳)の発行であった。

 

最近さすがに絵本は読み聞かせていないので、

ニュースを見て、懐かしく思い出した。(ヤフーはよく消えてしまうので、エキサイトも転載)

この絵本に端を発しているTV番組「はじめてのおつかい」についてだ。

 

 

 

日本から送ってもらい、大人になって読み返して、一番びっくりしたのは、

「黒めがねのおじさん」が「たばこ」と商店に買いに行くところ!

 

 

2002年の健康増進法公布以来、路上や社内など喫煙の場所がかなり制限されるようになったが、

それ以前にはそれを取り締まる法はなく、なんでもありだった!

 

私の家でも祖父母と父が喫煙者だったが、小さい子どもがいるなんてのはお構いなしで、

たばこをお使いで買いに行くこともあった。

思い返すと、小学校の教室で担任の先生がデスクで吸っていた。

今考えると、「ありえない!」ことだ。

 

私の住むドイツでも、昔のTV番組を振り返ると、トークショー内などでも普通に喫煙している。

今は映画などでも喫煙シーンは制限されているらしいし(アメリカだけ??)、

煙草自体に「タバコはガンになる!」とか「死ぬ!」とか書いてある。

 

そんな時代と対比すると、昭和50年代、絵本の中でおじさんがタバコを買いに来るのが

奇異に映ったのだ。

きっと、今の時代なら、パンとかスタミナドリンクとか、当たり障りないものになるだろう。

 

他にも掃除機や魔法瓶、鍋、車の形がレトロだ!

タオルの模様、テーブルクロスの色柄、人形の顔、何もかも懐かしい。

今ではマイバッグが推奨されているが、当時は紙袋だった。

商店のパンの置き方、瓶でバラ売りのお菓子も今から考えると、衛生的とも言い難い。

 

さて、作者の筒井頼子氏は、絵を担当する林明子氏とのコンビで名作を数多く残している。

我が家にあるだけでも、表題作のほかに「あさえとちいさいいもうと」、「とんことり」がある。

 

大きな事件は起こらない。

日常のほんとちょっとした、しかし子どもにとっては衝撃があるだろう出来事を優しい視点で綴る。

 

主人公みいちゃんは5歳で初めて買い物に行っている。

自分のことを思い返すと、確かにそれくらいで買い物に出された気もする。

我が家は当時喫茶店を営んでいて、ちょっと近所の肉屋さんまでハムを、パン屋さんまでパンを、

と買いに行った記憶がある。

パンは1本(3斤分)なので、軽いけれど、かなりかさばった。

 

そんな自分の思い出もあって、長女が5歳のとき、おつかいに出した。

とは言っても、遊んでいた公園で「お腹がすいた」というので、

直前に行ったばかりの公園の裏のパン屋で「好きな物を買ってきていいよ」と言ったのだ。

「行かない」というかと思いきや、よっぽど腹が減っていたのか、

コインを握りしめて、出陣した。


パン屋さん自体は、比較的交通量の多い、制限速度50キロの道に面していて、

道を横断する必要はないが、5歳の子ども一人で歩かせたいところではない。

交通事故の問題より、むしろ誘拐などの方に懸念もある。

 

よって、TV番組のスタッフ同様、私も3才の次女の手をひいて見つからないように後ろを着いていった。距離にして、100メートル強だ。

 

 

方向感覚はいい子なので、道に迷うという心配はなかったが、

引っ込み思案なので、見知らなぬ大人に声をかけられるかは疑問だった。

日本のパン屋さんのように、トレーに取っていき、レジで会計をし、

一言も発さなくて済むのではなく、カウンターでほしいものを言わなくてはならない。

 

気付かれることなく、店の前まで行き、外で待っていた。

もし手ぶらで出てきたら、一人で来れたことだけでも褒めようと思って・・・・

混んでいたのか、娘に勇気が必要だったのか、数分はかかった。

待つ方にとっては長い時間だった。

 

やがて、紙袋を手に長女が出てきた。

私の顔を見つけると、満面の笑顔になって。

今、思い出しても視界がうるむ。

やり遂げた!というあの顔が忘れらない。

 

今でも、ふとした拍子に「私は5歳のときに一人で買い物に行った!」と

誇らしく言うときがある。

どちらかというと、消極的なタイプなので、

これからもそのときの自信を胸に刻んでいてほしいと思う。

 

ニュースを読むと、番組の存続やあり方には異論があるようだし、

現代の事情というのも痛いほどわかるものの、

林明子氏の書く世界同様、子どもにとっては世界がいっぺんするほどの出来事を

幼少時に体験するのは、決して悪いことではないと思う。

失敗(事故を防ぐ)をしないために、大人が事前に外堀を埋めてあげる必要はあるとしても。

 

 

顔ほどの大きさのプレッツェルを買った長女。

半分、次女にあげた。

確か1.2ユーロ(150円)ほどであったと思う。

ちゃんとおつりも間違えていなかった。

自分で買ったプレッツェルは、何よりもおいしかったことだろう。

私の母方の祖父母は都内で洋菓子店を営んでいてた。

私の家からも徒歩15分ほどだった。

 

祖父は山形市の出身であったが、三男(確か)には教育は要らないと言われ、

上の学校に行かせてもらえず、上京して森永製菓で働いていたと祖母に聞いた記憶がある。

私は全く付き合いはないが、長男が山形市に残り、次男以下はみな東京にいるはずだ。

 

飲食の関係の仕事をしていたから、戦争に行ったときも、

前線ではなく、炊事兵(と呼ばれていたのかどうかは知らない)にまわされ、

人を殺さないで済んだと祖母が話していた。

 

戦争から戻り、また製菓関係の仕事をして、自分の洋菓子店を開業した。

(戦前が別のところで、戦後が森永だったか、記憶が曖昧)

 

母の話では、当時は冷蔵庫は一般的ではないから、

生クリームではなくバタークリームを使ったケーキだったそうだ。

ケーキはまだ珍しく、あちこちの店におろしていたという。

 

母はそんな最盛期に子ども時分を迎え、

雨が降ると、丁稚さんが学校まで傘を持ってきたという、乳母日傘の生活だったらしい。

 

昭和62年(1987年)に鉄筋コンクリートに立て替えてしまったが、それまでは木造2階建て。

商店街と呼ぶには、ちょっと大き過ぎるバス通りに面し、1階が店。

手前にケーキのショーケースがあり、奥が喫茶コーナーになっていた。

 

<昭和50年9月の祭礼で。後述の従姉と私、父>

 

店の右脇には住まいに上がる急な階段があり、

(母はこの階段から落ちたと、額に縫い傷がある)

左手には人が一人通れるほどの屋根付きの通路があって、

店の裏口(ショーケースと喫茶のカウンターの間辺りに出る)と工場(こうば)に回れた。

 

店にはたいてい家業を継いだ伯母か祖母がいて、祖父は工場にいることが多かった。

工場に行くと、「おう、来たか」という。

口数の少ない人だった。

 

しばらく見ていると、「切れ端、食べるか」とショートケーキの切れ端をくれる。

上部を平たくするためにカットしたものだ。

「生とカスタード、どっちがいい」とクリームも載せてくれる。

店のケーキより、祖父がくれるケーキの端っこの方が断然おいしかった。

(そのあと上へ行って、祖母の出してくれるおやつも食べる食いしん坊の私)

 

工場の奥には六畳ほどの和室があって、以前は従業員が複数名住み込みで働いていたと聞いたが、

私が知っている店は、すでに家族営業のちんまりしたものだった。

 

店の近所にフジテレビがあって、

お笑い番組で投げ合うケーキ(パイ?)の製作を頼まれたことがあるらしい。

食べないものを作るつもりはないと、祖父は断ったそうだ。

祖父は断っても、きっとどこかの店がやったのだろう。

 

戦後、食べるものに困っていた時代から一転、

高度経済成長期にはそんなバカげた文化も流行った。

今なら、「食べ物を無駄にするな」とクレームが入るだろう。

 

正月には、店の上の住まいに母のきょうだいが集まって、新年会をしたものだった。

伯母がいつもくじびきやらお菓子やらを準備してくれ、

いとこたちとジュースを混ぜて、何が一番おいしいか研究したりと楽しい思い出しかない。

 

その新年会で子どもたちは、出し物をしなくてはならなかった。

大抵は歌を歌った。

ある年、3つ年上の従姉が、

「明日の新年会で歌うから、覚えてきて」

と私にレコードを渡した。

新年会は、通常3日か4日に行われたが、正月で暇だったのか、

遊びに行ったときのことだろう。


初めて聞く曲だったが、水色のポータブルのレコードプレイヤーで必死に何度も聞いた。

従姉は怒らせると怖い。

二段ベッドの下で「ちゃんと覚えないと、〇ちゃんに怒られる!」と聞いていた覚えがある。

それが「待つわ」であった。

 

 

 

 

今調べると、「待つわ」は、昭和58年(1982年)7月にリリースされ、

その年の紅白歌合戦にも出場したという。

そうであれば、 必死で練習したのは昭和58年早々のことだったのだろう。

 

もっと幼かった(保育園児のころ)のイメージだったが、小学校2年生だったようだ。

従姉は5年生。確かに歌謡曲にも通じていく年齢だ。

 

その場になって、歌いながら、こう、横ステップも踏めと言われたが、

練習の成果もあり、うまく歌えたと思う。

従姉はハモったりしたんだろうか、記憶にあまりない。

今でも歌詞を覚えているが、内容はかなりどろどろした、

今考えれば小学生が歌うようなものではなかったようにも感じる。

 

新年会での歌というと、忘れられないのが、「花笠音頭」だ。

同居していた父方の祖母に教えてもらったのだろう、私は幼少のころからこの歌が歌えた。

ふるさとの歌だから、じいちゃん(母方の祖父のこと/父方の祖父は「おじいちゃん」)が喜ぶよ、

と周りに言われ、毎年のように歌っていた。

 

目を細めて手拍子をしてくれていたように思う。

 

 
私が渡独する前に挨拶に行ったときに、
「おれの葬式にはわざわざ帰ってこなくていいぞ」
と言われたのが忘れられない。
 
葬式ではなく、元気なうちに帰省しようと思えた。
その考えは、老境に入った両親にも当てはまる。
コロナ禍で帰省はままならないが、葬式ではなく、元気でいるうちに会いたい。
 
長女が生後半年の折に帰省し、祖父にも見てもらうことができた。
祖父のことを思い出すと、工場で食べたケーキの切れ端と、花笠がセットで心に浮かんでくる。

昨日、妹の入学式の写真を見て、校章と名札のことを懐かしく思い出しました。

 

<入学式>

 

私も入学式のときに、新しいスーツに校章と名札をつけてもらったときの高揚感を覚えています。

1年生になった!という誇らしい気持ちでした。

 

私たちの学校では、校章バッチの下に敷くフェルトの色が学年ごとに分かれていました。

1年生が赤、2年生が黄色、3年生が緑、4年生がオレンジ、5年生が水色、6年生が紫。

今でもすらすら言える! 子どもの頃に覚えたことってなかなか忘れません。

新しい学年の新しい色、いつもうれしかったです。
 

記憶があやふやなんだけど、進級すると(春休み中に??)、

近所の文房具屋(いずみやさん!)にフェルトを買いに行ったと思います。

うーん、それとも教室で配布だったかなあ。

新学期には、フェルトなしで校章だけ入れて持っていったような気もします。

「白は7年生」とかって冗談を言いながら。

校章のねじの部分をぐりぐりとフェルトに押し付けて、穴を開けるんだけど、

うまくしないと真ん中にならないのです。

 

<4年生>

 

それとは別に名札がありました。

これも学年ごとに色が異なり、校章のフェルトと同じ色。

 

新学年の初日に教室で担任から配布され、中学年くらいまでは持ち帰って、

おうちの人に書いてもらい、高学年になると自分で書いたような気がする。

 

いとこが通っていた隣の小学校は、校章と名札が一体になった形で、

自分たちの学校のスタイルを見慣れた私には奇異に映ったものでした。

でも、私たちの学校の方式だとピンの穴がいっぱいあくんだよねw

 

学校に行く前に、校章と名札をつけていき、帰ったら取るんだけど、

たまに洋服につけたまま洗っちゃう子(というか親? 取り忘れたその子が悪い?)がいて、

名札の中はただの紙だから、字が滲んだり、下手をするとぐちゃぐちゃになっちゃうことがありましたw

そういうときは、前述のいずみやさんで中身の紙だけ買えたような記憶があります。

 

2年生のあるとき、学期の途中で担任のO先生が、

「今日から名札は学校に置いて帰ります」

と言いました。

 

理由は、近隣の学校で、見知らぬ人に名前を呼ばれて、

そのまま誘拐されそうになった子がいたからということでした。

多分、「〇〇ちゃん、お母さんに迎えに行ってって頼まれた」みたいなことだったのでしょう。

昭和57年、1982年のことです。

 

<2年生。12月には名札をしていない! 校章もひっくり返してるし>

 

子ども心に、すごくショックな出来事でした。

未遂だった(と少なくとも先生は言った)けど、

そんなニュースみたいな(小2なら、そんなニュースも見てないな!)出来事が、

実際に身の回りで起こるなんて信じられませんでした。

 

ショックだったから、そのことをよく覚えているんだろうなあ。

翌日だったか数日後だったか、お手製の木枠の名札入れができていて、

登校したらそこから名札を取ってつけ、下校前に外して帰るという新しいルールができました。

真新しい木のざらっとした質感まで覚えるなあ。。。

 

前は、校章や名札をつけ忘れて来ちゃった子が笑われたものだけど、

今度は、外すのを忘れて帰る子が笑われるようになりましたw

 

あ、それで、「あ!」といって、その場で外してズボンのポケットに入れて、

そのまま忘れた結果、洗濯機で洗われちゃうということだったかもしれない!

 

ちなみにいとこの学校の校章名札一体型の学校では、

下校時にひっくり返すというルールになったと思います。

 

ただ、上の4年次の遠足の写真もこの3年生の遠足の写真も名札をしています。

引率の養護教諭や校長や教頭、カメラマンへの配慮ではないかと推測される。

団体行動中であれば、そういう事故は起きないと思われたのでしょう。

 

<3年生の遠足/私、4年の遠足と同じトレーナー着てるw ピンクのリボン、お気に入りだった!>

 

そもそも名札の目的は、名前を憶えていない担任以外の先生が

校内で児童を認識しやすいようにということだったのだと思います。

内部だけの理由でしょう。

でも、校章は外部に対しても「この学校の児童生徒です」という証です。

社章も同じく!

それは誇りであったはずです。

 

ところが、最近は会社を出たら社章を外すとか、そもそも社章がない会社も多いのかも。

現代では、それは「誇ること」ではなく、

自分のプライベートな部分として「隠したい」ことになってしまっている。

 

名札だって、「私は〇〇です!」と示すもの。

宣伝して歩く必要はないけど、自分の名前だって誇りじゃないかと思います。

 

自分を誇るのではなく、隠さなくては身に危険がせまる現代社会をなんだかさみしく思い、

古きよき昭和(小2まで!)を懐かしく、子育て中の母親としては羨ましくも思います。

 

しかし、私の住むドイツには、子どもの名札はありません。

接客をする店でも、名札が「従業員」とだけのところも。

博物館に行って、外部の人と接するときは、白いシールに名前を書いて貼ります。

 

「 戦後、新聞に「学校の名札」が登場したのは1970年代はじめで、登校する子どもたちに名札をつけさせることを批判的に伝えた記事だったということです。
小国教授
『学校での名札の再登場は、いわゆる『管理教育』が浸透し始めた時期と重なります。子どもの数が多くなったため、子どもの行動を把握して、場合によっては『周りが見ているぞ』と、子どもの非行を抑止する目的もあったのかもしれません。それが”慣習”として現代にも続いている可能性はあると思います』」

 

この記事の教授のコメントを読むと、名札は確かに「管理教育」のツール。

ユダヤ人にダビデの星をつけさせたナチと同じです。

そう考えれば、確かに名札や校章、社章自体が廃止されてもよいのかもしれません。。。

 

 

<さらに>

この記事は2015年と新しい。

私たちの学校は東京のど真ん中だったので、地方とは較差があったと思います。
 

ブログトップの写真に、何を使おうかなと昔の写真をあれこれ見直しました。

この写真は、両親が「終活する。処分するから要るならご自由に」と言った写真をスキャンしたもので、

私のPCに入れてあります。

 

データ化された写真は便利でこういうときにささっと見直すことができます。

もし、アルバムに貼ってあるものだったら、取り出すのが面倒に思うかもw

 

今は肖像権の問題があるから、風景がいいかなと思って探しましたが、ない!

私がスキャンしたときに省いたのもあるのかもしれないけど、

当時はフィルムだから、今みたいにとりあえずでバシャバシャ撮らなかったかも!

 

自分や家族ならいいかもしれないけど、横長というのが難しい。

服装とかが見えるのもいいし、個人が特定されないような粗さで、

たくさん人が写っているのもいいかと思ったけど、それもなかなかない。

 

まあ、これならと思ったのが今使っているものです。

ちなみに、使った写真は1985年の小学校の運動会。

私が6年生、4つ下の妹が2年生で、これは2年生がメインです。

テーマに合うように「しょうり」を「しょうわ」に加工してみたりしましたw

 

そして、この「お花紙」が昭和っぽいと思う!

私が小学生の頃は、何か行事がある、というとこのお花紙の出番で、

クラス総出でお花を折ったもんでした。

入学式も運動会も、展覧会やら学芸会も。

 

(これは妹の入学で、昭和60年度とあります。自分のはタテカン前はなかった!)

入学式2

 

中学では作った記憶がないから、世代的なものなのかもしれないけど、

どなたか今でも小学校で花を作るものなのか教えてくださいw

 

さて、このお花紙、子どもたちと花を作ろうと、

帰国の折に、百円均一ショップで購入しましたことがあります。

 

当時は自分で買おうと思ったことがないから、全く分からないけど、

きっと売っているとしたら、文房具屋さんで、もっと高かったのではないかと思います。

 

自分たちで遊びで作るときは、ティッシュペーパーを使いました。

でも、ちり紙はもっと破れやすいから、難しかった覚えがあります。

 

今では、前述の百円ショップなどなどあちこちで買えるようですね。

色も赤、白、ピンクくらいしかなかったのが、パステルカラーや寒色系もあるんだ!

 

調べてみると、「お花紙」は「京花紙」とも呼ばれることがあるようで、

「京花紙」は「コウゾ原料としたきわめて薄い手すき和紙。婦人用の高級懐紙

主産地は福岡県,佐賀県など。現在,化学パルプ

またはこれにコウゾ繊維を配合した機械ずきのものが多いが,

品質は前記のものに劣り,弱い。→薄葉紙」とありました。

 

 

確かに私が中高生の頃(昭和の終わりから平成の初め)は、

油取り紙が流行っていて、中でも京都のものがいいと言われていました!

(今でも油取り紙ってあるの? 現代日本の様子はよく分かりません)

 

全く同じものではないかもしれないけど、確かにお懐紙の薄さと花紙の薄いのに強いところは同じ!

通販で買える「花紙」にも国産をうたっているものが多かったので、

同じように九州で作られているのかも。

 

ともあれ、折ったあとに蛇腹を開くと、ふわっと開花する様子は子ども心にもわくわくするもので、

それがたくさん使われると、「華やか!」と思ったものでした。

今考えると、とってもキッチュというか安っぽい飾りなんだけど、それが昭和っぽい!

 

これを左右の中指にはめて、保育園の運動会のお遊戯も踊ったような。

懐かしく思い出して、また作ってみたくなりました!

 

作り方を見つけましたので、ご紹介しておきます。

 

花を作る以外にも、溶かしたり、粘土に混ぜたり、

今は使い方も工夫されているようです!

 

 

今年2022年は寅年。

年女の私に、まもなく5回目の寅がまわってこようとしています。

 

娘たちは今年中学1年生と5年生。

彼女たちを見ていて、私がこの頃は…と思い出すことが多くなりました。

昔を懐かしむなんて、多分年を取ったのでしょう。

 

先日、京都大学の川上浩司 教授が書いた

「『不便』の価値を見つめ直す」を読みました。

「不便」にもよさがあるという視点から、

新しい工業デザインなどを考えようとしている人です。

 

 

本文の例でいえば、タクシーは徒歩より便利ではあるけれど、

歩いていけば、思わぬ出会いがあったり、景色を楽しめたり、

健康を増進したり、というのが「不便のよさ」、すなわち「不便益」だというのです。

 

自分でも例を考えてみました。

例えば、「電子メール」や「LINE」は便利だけど、

手紙では自筆のぬくもりが感じられます。

わざわざ筆を動かして、わざわざ切手を買いにいって、ポストに入れるというのは、

手間がかかる分、書き手の心まで伝わるような気がします。

 

私がティーンエイジャーの頃は、雑誌に「ペンパル募集コーナー」がありました。

英語を勉強するために、海外にペンパルを作るという人もいました。

 

料金がかからないように、特別に薄いレターセットがあって、

海を越えて、手紙が渡っていくのです。

これをロマンと呼ばずになんとする!

 

もちろん、今でも見知らぬ人と出会うチャンスはあるでしょう。

でも、犯罪につながる危険性があったり、

LINEのようなチャットでは、テンポが速すぎて、ストレスになったりと、

「お手紙交換」のような牧歌的な雰囲気がありません。

 

また、チャットではさしずめスタンプや絵文字で個性を表すんでしょうが、

昔は字の形に流行りすたりがあったり(丸文字、マンガ文字とか!)、

字がうまい人は尊敬されたり、字そのものに人格が表れていたものです。

 

海外に住んでいるので、特にインターネットの恩恵に与ってはいるものの、

「昔はよかったなあ」なんてつい思ってしまう。

 

Z世代の娘たちを見ると、なんだか可哀想だなと思います。

そう言って、二つ上の夫とどの世代が一番幸せかと聞くと、

自分の親世代だという答えでした。

 

夫は旧東ドイツ出身で、親世代はまさに東ドイツどっぷり時代ではあるのだけど、

それでもそれが一番いい、羨ましいと彼は言います。

 

そういわれると、私たちの親世代は、戦後の大変なときに生まれてはいるけど、

平和になり、経済的にもどんどん恵まれていくときです。

 

「いい時代だったな、昭和」と数日思い返しているうちに、

同世代の人と共感したり、上の世代の人からもっと話を聞いたり、

娘たちや、その世代の人たちにも知ってもらえたいいなと思うようになりました。

 

そんなわけで、昭和懐古、昭和慕情をあれこれ書きつらねていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。