ブラックニッカの空想図書館 -2ページ目

山之口貘さん その8

通常この手のは、5、6回で区切ってきましたが、ついに「その8」まで書くことになってしまいました!やれやれです。実はこれを書いているのは病室なんです。始終ベッドに寝ているわけではありませんが、なにしろ今回は自殺予防措置という入院目的でありまして、どうにも一人にはなることもできず、かといって家族があるわけでなし、資料をほとんどない状態で書かなければならないという事情もあって、かなり独断的になっているのでは、つい考え込んじゃまいす。それでも書かなけばと、独壇場と化した頭で、考えているのですが、前回の「私は詩人である」という貘さんの変わらぬスタイルと「笑い」は通底しているのではないかという私見を再考したいと思います。といっても、ぼくは学者ではありませんので、単なる一読者と一応詩人という立場から考えて見たいと思います。「私は詩人である」ということは不遜な言い方をするなら、日本に肩書きではない詩人は絶望的にいないと思っています。というのも詩人って何?ということに共通項は、ほとんどないからです。まあそこまで言っちゃうと現代詩人会やら日本詩人クラブなんか激怒しちゃうと思うのですが、それぞれの全国組織には規約がありまして、これがなかなか厳しいものなんですが、一番困るのが、詩集を出版していることとそれぞれの組織の詩人の推薦と会としての承認が必要なことです。これは同人誌にも一部当てはまります。おかしなことです。貘さんが「私は詩人である」ということにはその上にも下にも何もありません。ところが、ネット詩なんかにも「詩人って何?」という問いをかい潜り、「私は詩人である」ということにはなかなか出会うことは少ないのが実際でしょう。全国組織にもネット詩にも共通しているのは、大げさに言えば、貘さんを超える詩人がいないということです。ましてや彼の「笑い」を越え出ている詩が幾篇あるでしょうか?ということであり、リルケ風にいうならば、自分が詩人だと思ったら詩人なのです。詩人は詩人であることの痛みと重みに耐えながらも自分のリズムと言葉と格闘していくものです。貘さんは闘っていた素振りは全然見せていませんが、この場でも紹介した「曲り角」という詩は、昭和十八年三月二十日発行、第一書房刊「国民詩」第二輯という国策に沿ったアンソロジーに発表されたものです。ここにおいてでも貘さんは「私は詩人である」というスタイルを崩すどころか貘さんの悲しい「笑い」を貫徹している。

山之口貘さん その7

貘さんの詩には、「笑い」の特異性と特異な「笑い」が混在しているように思います。あまり適当な表現ではありませんが、そこには単なる反復を越えでるズレがあるようにぼくには思えるのです。概念的には同義反復のように見えてしまうのですが、そこにあるのは実質も全く違ったものが投影されているのではないか?とぼくは疑っています。金子光晴さんがいうように「私は詩人である」という根底はぶれていません。貘さんはいつも詩人なのです。おかしいといえばおかしな話です。詩人はいつでも詩人なのが当たり前だといえば当たり前なのですが、ところが数多の詩人は、大学の教師であったり、サラリーマンだったり、労働者や主婦だったりするのです。ところが、貘さんは汲取屋をしていても「私は詩人である」のです。実は、これって大変なことじゃないでしょうか?学者が私は学者である、といってもそこには違和感はありません。勿論、哲学者の高橋庄司さんは、戦後間もない頃には屑鉄屋をやっていたり、映画監督の今井正さんが焼芋屋を一時的にやっていたことはあります。しかし、それは戦後の混乱期だから、当たり前なことだったのであって、哲学者だから、あるいは映画監督だからということだったのではありません。しかし、貘さんは詩人であるからということを第一義的に考えていたと思うのです。どうして、そうなったのか?という疑問が残ります。その疑問と貘さんの「笑い」とが深く通底していることは間違いないところでしょう。中途半端ですが、詩の紹介して次回に考えたいと思います。





鏡のなかの彼にうちむかひ
残飯でもあるなら一口僕に、と言ひたがつてゐる僕なんですが
髭を剃りたまへ、と彼は言ふのです
清潔は清潔なんですが
じれつたい清潔です
僕は、と僕はと言ひかけて
僕も髭を剃らう、言ふてしまふた僕なんですが
言ひたいことが言ひたくて
僕は柄杓でバケツの水を飲んでしまふたのです


『思弁の苑』所収

山之口貘さん その6

貘さんの詩に特異的に見える「笑い」について代表的作品を概観してきましたが、貘さんの詩の特異性を「笑い」として、考えているのは、もちろんぼくだけではありません。大方の詩人もまた読者もそう考えていると思います。しかし、その特異性としての「笑い」がどこからくるものなのかに関しては、様々な説があります。いくつか紹介しておきたいと思います。貘さんと親しかった金子光晴さんは、「第一級の詩人」で「あるばかりではなくて汲取屋も兼ねてい」(「鼻のある結論」)るような自分の現実をさらけ出す(大要)と書いています。ここで指摘している「自分の現実」という表現はさらりと書かれていますが、その背景をぼくたちは想像しなければならないでしょう。それを裏付けるように草野心平さんは「その頃(『思弁の苑』刊行前)の彼はどんな仕事をしていたのかは分からなかったが、彼はいつも茶褐色の紙カバンを持っていた。その紙カバンには矢張茶褐色のテープがついていて、テープはパチンとカバンをおさえていた。中味は原稿用紙だけだった。出来上がった詩や推敲中の詩やザラの原稿用紙など、他には万年筆か鉛筆かだけはいっていた。……いつ会っても彼はその紙カバンを大事そうに持っていた。彼は自分の詩と一緒に電車にのり、一緒に歩き、一ゼンメシ屋ではその詩稿のカバンをヒザの上にのっけてメシを食った」(「山之口貘」)と書いています。また大江健三郎さんも貘さんの詩の特異性について書いていますが、長いので、ぼくなりに要約して紹介したいと思います。「日本人的な感受性の中に飼い慣らされてしまった」リズムと「琉歌」との関係に注目して貘さんの詩の広がりと日本の「短歌的抒情」の差異を強調されているように思います。他にも貘さんの一人娘の山口泉さんのものも紹介したいところですがスペースがありません。次回に機会があれば紹介したいと思います。


襤褸は寝てゐる


野良犬・野良猫・古下駄どもの
入れかはり立ちかはる
夜の底
まひるの空から舞ひ降りて
襤褸は寝てゐる
夜の底
見れば見るほどひろがるやう ひらたくなつて地球を抱いてゐる
襤褸は寝てゐる
鼾が光る
うるさい光
眩しい鼾
やがてそこいらぢゆうに眼がひらく
小石・紙屑・吸殻たち・神や仏の紳士も起きあがる
襤褸は寝てゐる夜の底
空にはいつぱい浮き世の花
大きな米粒ばかりの白い花。



『思弁の苑』所収

山之口貘さん その5

さて、今回は故高田渡さんの歌としても有名な「生活の柄」を取り上げたいと思います。貘さんの詩については、いくつかの参考文献がありますが、代表的なところでは角川書店の『現代詩講座』がありますが、ほとんど入手困難になっています。他に中央公論社の『日本の詩歌』20、弥生書房『山之口貘詩集』(金子光晴編)、『山之口貘全集』(思潮社 全四巻)、隠し玉として『詩人会議』1980.4号「特集 山之口貘」があります。『詩人会議』のバックナンバーはほとんど処分したのですが、黒田三郎の評論を書くために偶然保管していたものです。そこで高田渡さんは「山之口貘さんとボク」というような題で詩人会議から原稿を頼まれた というエッセイを書いています。詩人や詩とフォークシンガーとは、いろいろな出会いがあります。渡さんと「生活の柄」との出会いは、高校生の頃に詩を書いている教師から「君の詩は山之口貘とどこか通じるところがあるみたいだなあ…」と言われ、貘さんの詩集のコピーを貰ったことから始まるらしいのだが、コピーは二度ほど読まれて本棚の片隅で永く眠っていたらしい。反戦・反安保・大学闘争の挫折(挫折の評価は別にして)渡さんは、自分の頭でっかちを見直していた時に、貘さんの詩集のコピーと再会したと記しています。渡さんは丁度この頃「日本のいろんな詩人達と出会ったのもこの頃だった。他の詩人でございまーすーという方々と貘さんだけは違っていた」と記しています。渡さんは、貘さんの詩を「山之口貘の詩はいつも不敵に笑っている」と表しています。そして、いつか不敵な笑いが出来るようになりたいと思ったそうです。


生活の柄


歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構わず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあつたのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてはねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起こされてはねむれない
この生活の柄が夏むきなのか!
寝たかとおもふと冷気にからかはれて
秋は、浮浪人のままではねむれない。

『思弁の苑』所収

渡さんは、貘さんの詩を少し歌いやすいように変更していますが、貘さんの詩の内容は変わっていません。渡さんの「生活の柄」に興味ある方は、amazonにでも注文して下さい。
渡さんが感じた「不敵な笑い」をあなたは感じることができますか?どうしてそのように渡さんが感じたのか、考えてみませんか

山之口貘さん その4

貘さんのヒューモアについて、まだ十分に解明できていませんので、当分このテーマにそって貘さんの詩を紹介していくことになりそうです。というのもぼく自身、現代詩は面白くないという変な思いにとらわれているからです。現代詩といっても時期的には、1980年代以降というように限定してのことです。最近寄贈して頂く詩集を読むとどうして詩を書いているのだろう、と僭越にも思ってしまうことが多いのです。自分の作品を棚に上げて愚痴を言っても仕方がないのですが、実感としてそう思ってしまいます。もちろん、上手い詩がない訳ではありません。しかし、詩人が詩を創るというのは、決して自明なことではないのでないかとぼくは考えています。有名な詩人である谷川俊太郎氏が生命保険会社のために詩を創るということがありました。手元に谷川俊太郎氏の書いた詩がないので、詳細は書けませんが、タイトルは「愛する者のために」だったように思います。生命保険会社は人間の生命のことを考えて存在しているのではないことはこの社会が資本制社会である限り、当然のことです。あくまで資本の自己増殖の単なる一形態に過ぎません。それを知っているはずの詩人があたかも人間のために生命保険会社があるかのような詩を創って憚らないというのがぼくには信じられません。あるいは、「人間だもの」という単なる言葉の羅列がベストセラーになることの異常性(異常であることを異常と思えない異常性)などは、言語文化の(「現代詩の」衰退(このように言われ続けて久しいのですが)以外のなにものでもないでしょう。話が脱線してしまいましたが、貘さんの詩と比較してみると、そのことがよくわかるような気がするのはぼくだけでしょうか?ここで「結婚」という詩を紹介しておきます。


結婚


詩は僕を見ると
結婚々々と鳴きつゞけた
おもふうにその頃の僕ときたらはなはだしく結婚したくなつてゐた
言はゞ
雨に濡れた場合
風に吹かれた場合
死にたくなつた場合などゝこの世にいろいろの場合があつたにしても
そこに自分がゐる場合には
結婚のことを忘れることが出来なかつた
詩はいつもはつらつと
僕のゐる所至る所につきまとつて来て
結婚々々と鳴いてゐた
僕はとうとう結婚してしまつたが
詩はとんと鳴かなくなつた
いまでは詩とはちがつた物がゐて
時々僕の胸をかきむしつては
箪笥の陰にしやがんだりして
おかねが
おかねがと泣き出すんだ。

詩集『思弁の苑』

山之口貘さん その3

貘さんが琉球(沖縄)出身であることは前に書きました。このことは、当時の大日本帝国においては、在日朝鮮人と同様に被抑圧民族として、その出生地を隠さなけならないことでした。彼の全集は僅かに全四巻に過ぎませんが、その四巻に刻まれたエクリチュールには、一篇の詩に100枚200と推敲されたたゆまぬ執念と恥辱に堪えた魂が感じられるのではないでしょうか?差別されながらももっと大きなヒューモアを「読む」あるいは「読むべき」だとぼくは思ってしまいます。前回引用できなかった故安西均さんの文章を一部引用したいと思います。「バクさんは様々な職業を転々としたそうだか、敗戦をはさむ前後十年くらいは、職業紹介所の下級官吏の定職についていたというから、わたくしが知ったのはそのころというわけである。もちろん、そんな役所づとめの人だとは知りもしないし、たずねもしなかった。1943年(昭和十八年)という年の時代相を年表の助けを借りて振り返ってみると▼英米語の雑誌名禁止(二月)▼大二本言論報告会結成▼日本美術報告会結成。谷崎潤一郎『細雪』の雑誌連載、自粛中止(五月)▼大東亜文学者決戦会議(八月)出版社一九五社に整理。用紙難で新聞の新規購不能(十一月▼内閣情報局、約一千曲の英米楽曲演奏を禁止(十二月)そうした文化統制が矢継ぎ早である。こういう時代に職業紹介所という役所が、どんな業務を行っていたか、うまく想像できないことだ」(『詩人会議』1980・4)最後に安西さんは「やはりこの一篇が書かれた時代性も、一言証言しておきたかった」と記しています。その一篇として「曲り角」を紹介したいと思います。


曲り角


産めよ
殖やせよの時勢に副うた女房はいう
たべものなどにしてみても
好きなわさびを当分は食べないと言い
小魚なんぞは骨ごと食べてしまう
女房の言うこと
為すことには
私的な味がなくなって
おなかばかりが目立ってきた
あるとき
僕はながめていた
桜の木のある曲り角から
おおきなおなかが現れた
むろんそれは一目みて
産めよ殖やせよの見事な国策とわかったが
女房の姿とわかったのは
しばらく経ってからのことみたいで
おなかに遅れて悲しそうに
息を喘いで現れて来た
その眼
その鼻
見てわかった

(制作年月日不詳)
文化が一様に束ねられる、そこには視線そのものが知らずと極めて反自然的な且つ反理知的な、一言で言うなら非合理主義に統御されることでしょう。

山之口貘さん その2

山之口貘さんの詩にユーモアがあることは前回書きました。このユーモアがどこからくるのか、またそのことの意義について若干触れておきたいと思います。そのためには貘さんの故郷と時代背景を抜きにしては語れないように思います。貘さんは、現在の沖縄、当時の琉球に生まれ、当初絵画の勉強のために東京で学んでいましたが、結局絵画の勉強を諦めて故郷(琉球)に戻ります。しかし、銀行員だった父親が事業に失敗し、無一文になります。ここから、貘さんの貧乏が始まります。あらゆるところから借金しながら、という生活が始まりますが、貧乏を貧乏として描きながらそこには、ある種のユーモアがあることの不思議があります。どうしてなのでしょう?また琉球人は朝鮮人とともに差別されている存在でした。ここから考えられることは、単純な反骨精神(貘さんが中学を退学したのにはアナーキーズムの影響が少なからずあったことは否めませんが)ということだけでは説明がつかないと思います。説明がつかないからというわけでもないのですが、ここで『思弁の苑』から「ねずみ」という詩を紹介したいと思います。


ねずみ


生死の生をほっぽり出して
ねずみが一匹浮彫みたいに
往来のまんなかにもりあがってゐた
まもなくねずみはひらたくなった
いろんな
車輪が
すべって来ては
あいろんみたいにねずみをのした
ねずみはだんたんひらたくなった
ひらたくなるにしたがって
ねずみは
ねずみ一匹の
ねずみでもなければ一匹でもなくなった
その死の影すら消え果てた
ある日 往来に出て見るとひらたい物が一枚
陽にたゝかれて反ってゐた


この詩の書かれた時代背景について故安西均が若干書いていますので紹介したいのですが、スペースが不足していますので次回に回したいと思いますが、若干私見を述べると、この作品の「ねずみ」には貘さんの極めて象徴的な人間観が見てとれるのではないかと思います。日常身辺の細々とした詩が溢れる現在、決してこの詩はそのような小さな詩ではなく、「大きな詩」といっても過言ではないようにぼくは考えています。貘さんは詩人であることを自ら名乗っていた稀有の詩人でした。この貢続く

山口貘さん その1

山口貘さん、いや貘さんというのがやはり似合っている。貘さんの詩を初めて知ったのは、中学生の頃だったように思う。高田渡さん(やはり渡さんというのが似合っているなあ)の「生活の柄」を聴いたのが最初の出会いだったと思う。ラヂオから聴いた渡さんの歌は、決して美しいというものではなかった。でも、とても衝撃的だった。もちろんその詩が貘さんの詩であることは知らなかった。貘さんの詩を詩としていつ読んだのかは、どうしても思い出せない。たぶん高校生になってからだと思う。今、貘さんの詩(山之口貘全集第一巻全詩集(1975 思潮社刊)を読み返してみて、思うことを何回かに分けて書いてみようかなと思うようになっています。ぼくの原点の一つは、まさしくここにあるように思っています。つまり好きな詩人なのです。
おいおい貘さんの生涯についても紹介していきたいと思っていますが、とりあえずは、詩集『思弁の苑』から「自己紹介」という詩を紹介したいと思います。


自己紹介


ここに寄り集まった諸氏よ
先ほどから諸氏の位置に就いて考えてゐるうちに
考えてゐる僕の姿に僕は気がついたのであります


僕ですか?
これはまことに自惚れるやうですが
びんぼうなのであります。


どこといって難しい詩ではありませんが、とても貘さん的な詩だと思います。「諸氏」というのは、もちろん紳士淑女諸氏のことでしょう。「自惚れるやうですが」という詩行は、この「諸氏」と対をなしていることも読み取られることと思います。そして「びんぼうなのであります」というのは、止めの一撃的なアイロニーとなっていることもお分かりいただけかと思います。
貘さんは、決して自己を卑下しませんでした。卑下しているように見えてもそこには、風刺が織り込まれていたり、多くは、大らかな笑いがあります。おそらくこの「笑い」についてぼくは少し書き続けることになるでしょう。

雨が降っている

雨が降っている
しきりに
雨が降っている
ぼくは欠伸をしながら見ている
昨日もそうだったし
明日もそうだろう


いつからか
分からないが
ずっと
雨が降っている
どこからか分からないが
幾重にも重なり
絶望的に
雨が降っている


緩やかな傾斜にそっと流れる
黒い雨
嘆きが側溝に飲み込まれていく


いつか
狂おしく 行き場のない
雨が激しく降ったことがあった


黒い世界では
蒼い鳥が いま生まれたばかりの
死を抱えて
どこかへ飛ぼうとしている
ぼくは欠伸をしながら
この狂おしい世界を見ている


雨が暗い空にまた
ひとすじ 流れた

ぼくたち冷たい眠りに棲む者たち

ぼくたち冷たい眠りに棲む者たち
きみの美しい髪の
黒曜石に映る
月の上をぼくは歩く
悲しみの鐘の音の上をまっすぐに歩く
乾ききった感情の上を歩く
石壁を通り抜け
畑を横切り 誰もいない
広場の孤独のなかを歩く
きみのなかできみを探してぼくは歩く
飛ぶことを忘れた鳥たちが
きみの唇に遠い過去を伝えようとしている迷路をぼくは歩く
石から花へと伝えられなかった日々をぼくは歩く
石の時代から続く祈りのなかでぼくは歩く


きみの瞳のなかをただひたすらに
幻の黒い朝のなかをぼくは歩く
繰り返される悲劇の語に追いつくために歩く
白いバラが赤いバラに変わるなかをぼくは歩く
あるいはその事実の反事実性のなかをぼくは歩く
その境界は海のように揺らめいている
そして喜びと悲しみが汽水域のような記憶の上を
ぼくは歩く
魂が語りかける
夜は笑い
煉瓦の壁は赤く濡れている
白いバラは赤く染まったままだ


風景は銃声に先立ち
銃声は風景に先立っている
きみの頬を伝っている赤い風景
ぼくたち冷たい眠りに棲む者たち
測ることのできない距離
届くことのない語と語の間にある風景
ぼくひと時の安らぎを求め
赤い風景のなかに休らう
星々は眠りに刻んだ語を読ませる


一枚のポスターが白いバラを赤いバラに変えているとき
ロルカは5時を叫ぶ
キャパの眼は倒れ行く丘陵に立っている
彼はネガの世界に多くの人たちと眠っている
ハラの愛の歌は哀歌として歌われる
神々しい未来は彼らたちを見殺しにしている


そこはたえず過去化される現在
そこは瞳に生える一本の叫び声
そこは批判なき現在の寓話
そこは来ることの未来
そこは白いバラの茨に繋がれた学生たちの処刑場
そこは死体で埋め尽くされたスタジアム
そこは傷口に群がる蛆虫の街
そこはガザとファルージャの夜
そこは深い森とラーゲリの国
そこはゲットーと聖なる空の墓地
そこはソドムとゴモラの街
そこは最後の国


ぼくたち冷たい眠りに棲む者たちは歩く
幻の遠い朝に追いつくために
夥しい悲しみの記憶に追いつくために
路上の孤独の中を
深い森で
骨の中で
冷たい足音に追われながら