私のネットワーク

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6月22日摩文仁の慰霊祭に行く時大変な雨風で車の前が見えない位でした。丘の上に着いた時先に来られた方たちも車の中で待機されてました、私は1時のお祭りには晴れるからと思って皆に大丈夫荷物上げて下さいといいました、

皆さん車をでて一せいに運び出しました

花屋さんも赤と白の薔薇100本ずつをオアシスと共に慰霊碑の前に運んで下さいました、亡くなった夫が   好きだった薔薇を30年来慰霊碑の周りに飾っています、昔は沖縄に薔薇が無くて東京から運んで居ました、今年も綺麗に飾れました。
全て準備が終わった時、
嘘の様に雲が切れて陽がさして護国神社の宮司さんも来られて、毎年助けて下さる自衛隊の方たちも天幕や椅子をセットしてくださり、1時から式典を始められました、式の終わる2時迄の間雨は降りませんでした、慰霊碑に祭られている600名余の方々も喜んで下さっての事でしよう。

この勇魂の碑を建立して45年経ちますが、6月22日には一度も雨に振られた事は有りません

私の 夫(お兄ちやん)の魂の守りと信じています。


 12歳の私と20歳の夫との5年間の幸せな年月私に取って彼はずーーっと(お兄ちやん)でした。


それから67年経った今も彼は25才のお兄ちやんのままです、私はいつの間にか後期高齢者になって

いますけれどーー!。

今年の慰霊祭を皆さんの御蔭で無事済ますことが出来ました、又来年も二人で来ることが出来ます様に

頑張りたいと思います。今の夫も来年は93歳足の方が危なく成っていますが命有る限り沖縄には行くと

謂つています。お兄ちやんのおまもりでゆけるとおもってます。

沖縄の自然は美しく今は沢山の観光客が訪れる処になって、あまり産業のない 県としては嬉しい事と思います。

 

私が1966年に初めて沖縄に行った時は未だ米軍の占領下でお金は1ドル-360円日本から持出せる

のも500ドル迄でした、 それに渡航するのにはパスポートが必要でした、    沖縄は交通機関がなくて 
全て車でした、日本車の古いのがタクシーで走っていました,  摩文仁の帰り那覇迄の途中糸満のあたりで車の前に子供が飛び出して来るので吃驚したら、夜の8時頃でしたが運転手が言うのに車を止めてお客にものを強請るのでウッカリ止められないとのことでした、子供の服装は酷く足は裸足でした、 終戦後2 0年経って居るのに幹線道路も舗装されていなくて、砂利道でした。沖縄の本土復帰は7年後でした。    

 

現在も米軍基地の7割が有り、日常的に町中で米兵を見かけるのはやはり異常だと思います。  

6月は67年前沖縄戦が 戦われ軍民20万の人たちが亡くなって、32軍が敗戦となった月です。


私の夫も陸大を卒業して一月に32軍の参謀として沖縄に赴任し四月に米軍が上陸して来て三カ月で南端の摩文仁まで下がって自然壕に司令部をおいて戦ったのですが、戦死しました25歳と3カ月の命でし

た。沖縄の人たちも沢山亡くなりました。今私はその壕の上に32軍の慰霊碑を建てて42年間毎年6月22日勇魂の碑となずけた慰霊碑の前で遺族と生き延びた戦友の方々とお会いしお祭りをしてきました。
しかし歳月は一緒に碑を建てお祭りをしてきた人々を 皆旅立たせて仕舞いました、私も其の内居なくなりますので、60年祭の前に皆様と御測りして、沖縄護国神社に永代供養をお願いしました。
これで後々迄勇魂の碑をお祭りする事が出来ますので一安心です。

沖縄には戦後建立された慰霊碑が200余り有るそうですが、それぞれ後を見る方達がなくて、草に埋もれて放置されている現状で,県の方でも困って居るそうです、日本人は欧米人に比べ執着心が無くてあっさりしていると言われますが、  前沖縄県知事の大田さんも沖縄の子供達が余りに沖縄戦の事を知らないので教えなくては成らないとおっしやっておられました、後につずく者ノあるのを信じて戦死して逝った人々を裏切っては、日本人として申し分けの無い事と思います、今の平和で豊かな日々を送れるのも彼等の犠牲の御蔭なのです,そのことを忘れないで欲しいと私の様な戦争で大事な人を失った者は痛切に

思います。