年とる1日前(//∀//)
明日から加齢臭がプラス①される( ̄~ ̄;)
と同時に親父の命日でもある
当日は祝ってくれる人達がいるから前日に親父をよく思う様にウェイトを置いてたりします
まぁ暗いブログじゃないから

親父はナカナカ粋で、余命宣告を根性で乗り切って俺の誕生日に祝言をくれてから他界しました
俺は親父が他界した日から、誕生日の前日には死を、当日には生について考える環境を与えられました
そんな俺はたまに思いマス(インスパイア元はナイショ)
そもそも人は何の根拠もなくコノ世に投げ出されていて、
しかも他人に代行してもらうことも出来ない固有の死を引き受けなくてはなりません。
この事に気付いた時に人間は不安になるという…
しかも現代を見る限り人間は、
大地に根ざす事も無く、
自然への畏怖を感じる事も無く、
死から遠ざけられたテクノロジーの世に投げ出されています。
なんとなく不安になるのは当たり前と言う事カナ…
日常に埋没して堕落し、
死を忘れ、
良心を忘れてはイケナイと思う
強くあれとは思わないっ
ただ、
不安は恐怖ではない、と。
親父は絶命に対する恐怖があったと思う
恐怖には特定の対象なり理由がある
ならば死は恐怖だと思う
近ければ尚。
『命を大切にする』
という考え方は、良心的でも倫理的でもないと思う。
『生きながらえる』だけでは倫理的では無い。
その前に死とは何か?っしょ?
犠牲的な死の観点が欠落もしくは脱落している。
俺の経験した家族の死は犠牲的なケースでは無かったと思う。
でも
親父が祝言を伝えたいと思ってくれた時に親父は『私』では無く、家長として『公』の意識が強かったのじゃぁないか
自分の人生の充実の為に殉じることはあると教えられた気がしています。
ならば俺は親父の死から学んだモノがあり、安心して胸を張って不安に生きれるっ(≧▼≦)
っていう話なんだけど…
色んなテーマが混ざったブログになったケド個人の考え方なので意見は受け付けませんm(__)m
ちなみに病んでもいません(@゚▽゚@)
ゆーなら少しおセンチなカンジ(´ψψ`)
と同時に親父の命日でもある
当日は祝ってくれる人達がいるから前日に親父をよく思う様にウェイトを置いてたりします

まぁ暗いブログじゃないから


親父はナカナカ粋で、余命宣告を根性で乗り切って俺の誕生日に祝言をくれてから他界しました
俺は親父が他界した日から、誕生日の前日には死を、当日には生について考える環境を与えられました

そんな俺はたまに思いマス(インスパイア元はナイショ)
そもそも人は何の根拠もなくコノ世に投げ出されていて、
しかも他人に代行してもらうことも出来ない固有の死を引き受けなくてはなりません。
この事に気付いた時に人間は不安になるという…
しかも現代を見る限り人間は、
大地に根ざす事も無く、
自然への畏怖を感じる事も無く、
死から遠ざけられたテクノロジーの世に投げ出されています。
なんとなく不安になるのは当たり前と言う事カナ…
日常に埋没して堕落し、
死を忘れ、
良心を忘れてはイケナイと思う

強くあれとは思わないっ
ただ、
不安は恐怖ではない、と。
親父は絶命に対する恐怖があったと思う
恐怖には特定の対象なり理由がある
ならば死は恐怖だと思う
近ければ尚。
『命を大切にする』
という考え方は、良心的でも倫理的でもないと思う。
『生きながらえる』だけでは倫理的では無い。
その前に死とは何か?っしょ?
犠牲的な死の観点が欠落もしくは脱落している。
俺の経験した家族の死は犠牲的なケースでは無かったと思う。
でも
親父が祝言を伝えたいと思ってくれた時に親父は『私』では無く、家長として『公』の意識が強かったのじゃぁないか

自分の人生の充実の為に殉じることはあると教えられた気がしています。
ならば俺は親父の死から学んだモノがあり、安心して胸を張って不安に生きれるっ(≧▼≦)
っていう話なんだけど…
色んなテーマが混ざったブログになったケド個人の考え方なので意見は受け付けませんm(__)m
ちなみに病んでもいません(@゚▽゚@)
ゆーなら少しおセンチなカンジ(´ψψ`)




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