フィギュアスケートDays vol.10
続き
都築先生のインタビュー
写真で読めるとは思いますが、
記録用に文字も起こしておきます。
他言語に翻訳される方はご自由にどうぞ。
ただ、Twitterなどへの一部持ち出しはしないでください。
廃刊となった雑誌ですが、
都築先生の言葉が切り取られてしまうのは
悲しいので。
羽生くんのスピンについて
触れているところがあります。
世界に通用する選手を育てる日本のメソッドを!
都築章一郎コーチインタビュー
世界中の選手が
まだ2〜3種類の3回転しか跳んでいなかった時代、
5種類の3回転に夢を賭けた男がいた。
佐野稔選手とともに
日本に初めて世界のメダルをもたらした
都築章一郎コーチ。
海外との技術交流や
日本ペアの指導者として
常に新しいフィールドを開拓し続けている。
世界初、5種類の3回転
「私はフィギアスケートを始めたのが遅くて、
高校1年生でした。
まだ室内のスケート場は限られた所にしかなく、
プロのコーチもほとんどいなかった時代です。
東京に出てくれば
稲田悦子先生などがいらっしゃいましたが、
そういう先生のレッスンを受けるのは
並大抵のことではなかった。
特に地方ではね。
ほとんど我流で練習しました。
日本大学に入学したのが20歳くらいの頃で、
当時、日大にはフィギュア部がなかったんです。
スピードスケートには五輪選手もいて
盛んだったんですが、フィギュアは私が1期生。
部を作って選手兼監督兼コーチという立場で
やらせていただきました。
とにかく昔のフィギュアスケートは
お金がかかってね、
良い家庭のお坊ちゃんお嬢さんがやる
スポーツでした。
競技会というより発表会というような雰囲気で、
世界と比較したときにはまだレベルが低かった。
私はそれをなんとかしたくて、
日本でも世界に通用するスケーターが育たないかと、
そういう夢を持っていました。
当時、山梨に日大の合宿所がありました。
そこで練習をしていた時に出会ったのが、
佐野稔です。
まだ5歳位でしたが、田舎の子供でしたから、
他のフィギュアスケートをやっている子たちとは
違いました」
佐野選手が東京に来たり、
都築コーチが山梨に行ったり、
日本人初のメダルに通じる二人三脚が始まった。
2人は、全種類の3回転ジャンプ習得を目標に練習した。
「まだ、日本では3回転など
ほとんど跳んでいなかった時代。
一番大変だったのは、情報がなかったことです。
世界で2〜3種類の例はありましたが、
私自身もやったことがない、確信的な根拠もない。
想像の中で跳ばなくちゃいけないジャンプも
ありました。
当時、こんな小さな子に
精神的・肉体的な刺激を与えるのは無茶すぎる、
と言う批判もありましてね。
今思うと佐野本人も親御さんも、
よく私を信頼してくれました。
そうでなければ、
耐えることのできない試練だったと思います」
佐野選手が
3回転ジャンプに挑戦し始めたのは8〜9歳の頃。
全日本チャンピオンになった
高校1年生の時(72年)には、
5種類の3回転が完成していた。
「オリンピックには1回しか出場できなくて
(76年・インスブルック)、9番。
でも初めてでよくやったと思います。
77年、東京の世界選手権、
フリーで世界初の5種類の3回転を決めて、
5.9、5.9…と言う高い得点をもらいましてね。
フリーは1位、総合で3位。
日本で初めてのメダルを取った。
あの頃は本当に手探りというか、
『どうしてもそれをやりたいんだ』
という強い欲望のようなものがあって、
その可能性にかけた日々、私の青春時代でした。
その後、世界のレベルも上がり、
すぐにその3回転5種類に追随してきました。
日本でも、
五十嵐文男や松村充など優秀な選手が出てきて、
五十嵐は世界4位まで行きましたが、
その中には私がその育てたベースがあったと
思っています」
ソ連で受けた衝撃
都築コーチが佐野選手と共に歩んできた
様々な道のりの中で、
日本のフィギュアスケートにも
大きな影響を与えた1つの出会いがあったという。
「佐野や長久保裕&長沢琴枝組を連れて、
ソ連の国際大会に出たことがあるんです。
札幌オリンピックのための強化の一環でした。
そこで、あまりの大きな差に
ショックを受けました。
技術の面でも、演技の面でも、環境の面でも。
それがロシアとの交流の始まりです」
その時、ソ連のスケート連盟から紹介された
スタニスラフ・ ジュークコーチ
(ゴルデーワ&グリンコフ組などを育てた名コーチ)
をはじめ、
川口悠子選手が師事している
タマラ・モスクビナコーチ、
伊藤みどり選手の振付けをした
ビクトル・ルイシキンコーチなどが、
その後都築コーチの招聘で
日本にやってくることになる。
「ソ連のコーチたちを呼んで、
日本全国を回って講習会を開いたんです。
それまで日本のスケート関係者は
アメリカ、カナダ一辺倒で、
みんな私のやることを笑っていました。
でも、
来日した先生たちの演技や出している結果を見て、
徐々に変わっていったんです。
そのうちに、
日本中の選手やコーチたちが
みんな参加するようになりました。
伊藤みどりなども参加していましたよ。
ソ連のコーチたちがよく口にした言葉は、
『メソッド』。
すごくプライドの高い国ですからね、
私たちの『メソッド』はこうだ、
これをやらなくちゃうまくならない、
とよく言われました。
でも、その要求を日本で全て満たすのは
無理なんですよ。
当時のソ連は、
国が選手やコーチの生活を保証していて、
好きなようにリンクを使い、
自分で立てた通りのトレーニングを
行っていました。
でも日本はそうではありません。
佐野の時は、
外国のコーチを全く頼んでいませんでした。
コンパルソリーだけ
佐野信夫コーチに協力してもらって、
振付も私がやったりしました。
でも、ソ連では振付師、医者、心理学者まで、
スタッフを集めることができる。
たくさんの優秀なスタッフが作ったプログラムは
奥が深いんです。
それに、子供の時からメソッドに沿った
トレーニングを毎日してきた選手は、
振り付けが生かせる体に訓練されています。
大人になってから振付師に預けても、
小手先の事はできますが、
振付けを生かせないことも多いのです」
一方、ジャンプに関しては意外にも
ソ連から学ぶ事はさほどなかったと言う。
「ジャンプについては日本の方が上だろうと
思っていました。
佐野の時代から、それを根づかせてきたと。
よく、日本人選手がロシアに練習に行くと、
氷の上での練習時間が少ないというのですが、
他の訓練がすごく多いんですよ。
ロシア人はそれを1日、学校にも行かずにやる。
日本の子は学校もあるし、
氷上の練習時間も長いです。
それでも良い選手が出てくるのは、
日本人が勤勉でジャンプが上手だから」
81年、都築コーチは千葉県新松戸の
ダイエーレジャーランドに設立された
スケート学校のスケート部長兼支配人に就任する。
そこで、日本の環境でも、
何とかソ連の育成に近いものができないかと、
試行錯誤を重ねた。
そうした試みは、
今は指導に当たっている
長久保コーチ、無良隆志コーチ、
そして彼らに教えられて育った
多くの優秀な日本選手に受け継がれている。
「日本でロシア式の『メソッド』が通用するか
というとそうではなく、
日本人は日本人の『メソッド』を
持たなければいけない。
ジャンプにはそれがあるが、
振付けや他の部分にはまだありません。
私はダイエーのリンクで
そのシステムを作ろうとしてきました。
荒川静香や本田武史
(両選手は長久保コーチに師事)も、
そのダイエーの『メソッド』で育った
子供たちです。
荒川はニコライ・モロゾフやタチアナ・タラソワ
というロシアのコーチに出会った時に、
彼女が持っていた技術が
初めて生かされたのだと思っています。
仙台の泉のリンクにいた羽生結弦にも、
子供の時から正確で美しいスピンを回るように
と教えてきました。
日本式では、男子スケーターは荒々しく男っぽく、
というのがそれまでの教え方でしたが、
小さい頃から美しくと教えることで、
恥ずかしがらずにできるようになるのです」
ソ連が崩壊した後も
都築コーチとロシア人コーチたちとの交流は続いた。
今日では、海外で練習する日本選手も多く、
中にはロシアに拠点を置く選手もいる。
だが、
今から15年以上前、初めてロシアに渡ったのは、
アイスダンサーだった都築コーチのお嬢さん、
都築奈加子選手(現コーチ)だ。
「まだ高校生の時分ですから、
家内も一緒についていきました。
当時ナタリア・リニチュクコーチのところで
パートナーを決めることになって、
2人候補がいたんですが、
そのうちの1人がニコライ・モロゾフ
だったんですよ。
結局もう1人の方が当時実績があったので、
もう1人に決めたんですが。
奈加子の留学では、
私も技術だけでなく、
フィギュアスケートは文化であることなど、
多くの影響を受けました。
当時、
日本にはまだフィギュアスケートは文化ではなく
レジャーだと思われていました」
日本から世界に通用するペアを!
佐野選手や五十嵐選手など、
多くの名シングルスケーターを育てた
都築コーチだが、
カップル競技でも数々の日本代表を育てている。
特にペアでは、
現在はアメリカ代表として活躍する井上玲奈選手、
元ロシアチャンピオンの川口悠子選手など、
ほとんどの日本人選手が都築コーチの教え子だ。
「初めて長久保&長沢組がペア代表として
札幌オリンピックに出た時は、
もう大変だったんですよ。
開催国で出場資格があったものですから、
シングルの2人を組ませたんです。
長久保は背が高かったですからね。
でも当時はペアの練習として
何をしたらいいかなんてわからないわけですよ。
それで手足を強くするために
女の子をリフトしたまま浅間山に登らせたり、
いろんなことをしました。
でも、シングルの選手を強化する意味でも、
ペアのトレーニングが役立つ事はあるんです。
無良にも井上にも、
そういうつもりでペアをやらせました。
シングルに加えてペアをやることで
練習時間も多くなり、
筋力トレーニングもするようになる。
それに、
シングルだとごまかせてしまうジャンプの練習も、
ペアでは完全な着氷ができないと危険なんです。
だから完全な技術を習得しようとする。
ペアを経験したことは、
みんな決して後悔していないと思います。
日本にはペアが1組しかいないと
よく言われますが、
世界に通用するペアを1組でも作ろうと
しているんです。
岡部由紀子&無良隆志組が
世界選手権で12位になった(80年)時は、
まだペアの練習を始めて3年ぐらいでした。
でも日本では、12位では評価されません。
だから、選手がペアという種目を選んでくれない。
それに、
どうしても氷代(リンクの貸切り代)がかかる。
1組しかいないからと、1時間3〜4万円も
かかる貸切り代を選手が負担していたら、
週に2〜3回の練習しかできません」
そんな環境の中、ダイエーリンクでは、
あえて低料金でペアの選手に練習させたことも
あったという。
「幸い、ダイエー創業者の中内(功)さんが、
オリンピック選手を作れと言うことで、
上から命令してくれて、
会社も評価してくれたので、
そういうことができたんです。
川崎由紀子とペアを組んだ
アレクセイ・ティホノフを日本に呼んだ時も、
私の家に下宿させて、私が雇う形で給料を払って、
家内が法務省にかけあって
日本の国籍を取れないかと奔走したりと
いろんなことがありました。
それでも、
日本から世界に通用する選手を
出したかったんです。
ティホノフは良い子でね、
人をまっすぐ見る、
人を傷つけないようにする子でした。
たぶん日本に来なければ、
アマチュア競技は続けられなかったと思います。
ソ連崩壊後の厳しい時代でしたから。
3年ぐらい日本でやりましたが、
その後、ロシアに帰って
ロシア人のパートナー(マリア・ペトロワ)と
世界チャンピオンになりました(2000年)」
ソ連・ロシアからさまざまな形で影響を受け、
吸収しながら、一方でまだフィギュアスケートが
根づいていなかった中国選手たちへの
技術指導なども行った。
「中国の選手が日本に来たり、
中国で講習会を開いたり。
シュー・ シェン&ホンボー・ツァオ組などを育てた
ビン・ ヤオコーチも
当時は選手として参加していましたね。
中国のペアがその後あれだけ強くなったのは、
国のバックアップがあったからでしょう。
昔はソ連に国の保証がありましたが、
今は中国がそうです。
現在のペアの日本代表高橋成美も、
以前は中国のナショナルメンバーでした。
そういう環境がないと、
なかなかペアは育たないのかもしれません。
私がシングル強化の一環としてペアを教えるのも、
日本ではペアが育ちにくいからです。
ペアに目標をしぼると、
選手自身が辛くなってくる。
他にやっている人もいない、
危険だと言う人もいる……。
その中で続けるのは
強い意志がないと難しいですから。
それでも、
アメリカに行った井上も、
ロシアで行った川口も、
それぞれスロートリプルアクセルや、
スロー4回転サルコーなど、
夢を持って続けてくれている。
とても良いことだなぁと思いますね」
これだけ日本出身の選手が活躍すれば、
日本にもペアが根づいてくるのでは?
と思うが、
そう簡単ではないと都築コーチは言う。
「たとえ井上や川口が帰ってきても、
日本には生かす環境がないんですよ。
アイスダンスをやったうちの奈加子もそうです。
せっかく技術と経験を持っているのに、
生かせないとみんな海外に逃げてしまう。
私の人生の中で、
ロシアのスケーターやコーチとの出会いが、
どれだけ器を大きくしてくれたか。
子供も家内も連れてそこで生活し、
どんなことがあってどれだけの貴重な経験をしたか。
頑張っているけれど、
伝えられるものは微々たるものです。
それを生かせる環境が欲しいと、
切に思います。
私が前理事長を務めていた
インストラクター協会には、
今現在も200名以上のコーチがいます。
でも、そのコーチたちがみんな、
世界に通用する選手を育てる環境を作れるか
というと難しいでしょう。
もっと組織的な積み重ねがないと、
いつまでもたまたま才能を持った選手が
出てくるのを待つしかありません。
でも、少なくとも、
ダイエーのリンクで育ったコーチたちには、
それがあると思っています」
都築コーチは、現在、14年ソチ五輪に向けた
五輪プロジェクトリーダーとして、
神奈川スケートリンクで、
スケートを始めたばかりの幼い子供たちを教えている。
すでに技術を持った選手より、
スケートを始めたばかりの子供たちを
教えるのが好きだと言うのには、
今までに確立してきた『メソッド』を
多くの子供たちに、
という思いが込められているのだろう。
すでに多くの教え子がコーチとなり、
都築コーチの『メソッド』を受け継ぐ選手、
直接指導していなくても、
その教えを土壌として育った子供たちが、
今も世界中で活躍している。⛸
スピンを綺麗にと言われて、
きれいなスピン=音楽に合わせて
スピンの回転をコントロールして
レベルも取るスピンと理解して実践する
羽生くん
本当に宇宙人だと思う…
羽生くんの演技が観られて
本当に幸せです。
願わくば、
4A
どうか怪我なく実現できますように。




