長崎県北松浦郡生月町
(現 平戸市生月町)


産まれたのは、平成3年1月6日

産まれた時間は、不明。
祖父の漁船で産まれたから、それどころでは無かった。

海上で産まれたので、名前に海をもらった。


カトリック山田幼稚園
幼稚園の頃は、マイペースで先生を困らせていた。
鼓笛隊では大太鼓担当だった。



生月小学校
小学生の頃は、割と活発だったのかな。
1年生から空手を始めました。
小学校卒業まで、健康の為にやってましたね。
実績は何もありません。
世知原の大会終了後のビンゴ大会?で、自然薯と大根が当たったのが最高の実績。
鼓笛隊では中太鼓だった。
5年生くらいから、伝統的な勇魚捕り唄開始。
最初は歌い手。6年の時には和太鼓担当。



生月中学校
中学生の頃は、内気で塞ぎがちだったかも。
目立つのが嫌いではあった。
ただ唯一プロレス好きな友達と、プロレスごっこはしてた。プロレス好きは自分と幸平だけ。
1年生から柔道を開始。
吉井か江迎の地区大会で3位。
バク宙は出来ていた。
勇魚捕り唄では和太鼓担当。





鹿町工業高校
高校生の頃は、そんなに目立たない存在。
土木技術科第1期生。
鹿工は本当に厳しい学校だった。
挨拶、礼節、集団行動、安全確認、上下関係 etc...
特に時間厳守にはうるさかった。
必ず10分前行動の1分前に集合。
11分前行動に近い。
寮生活は3年間。楽しいけど殆ど自由はなかったね。
1、2年生の頃は、先輩の洗濯物やったり、先輩よりも先にお風呂入れなかったり。etc...
100人超が住む寮だから規律は厳しい。
寮母さん達のご飯は美味しかった。
白米もたくさん食べた。休みの日のカレーも美味しかったなぁ。
あ、高校でも柔道続けてたよ。
顧問は世界的に有名な竹下忠良先生。
3年生の時は九州チャンピオンの木下先生。
土木技術科の恩師は、長崎県では有名だと思うんですが毛利公浩先生、そして担任の久田重毅先生だった。


3年生の夏に大日本プロレスへ履歴書を送り、
関本さんからの留守電で書類審査合格を知り、12月の大日本プロレス博多スターレーン大会で体力テストに挑み、ボロボロになって何も出来ず不合格だと思ったら、やる気あるから合格!とその場で言われた時は本当に嬉しかった。
翌日先生方に報告。
プロレス入団を反対していた毛利先生が1番喜んでくれた。
心配だったんだよなぁ、先生。
毛利先生、ありがとうございました。



まぁ高校のキツかった話しは尽きないくらいあるし、
クソ楽しかった話しも尽きないね。
でもこの高校生活、寮生活のお陰で、プロレス界の縦社会にも直ぐに順応出来た。
本当に実りある高校生活だった〜。




自動車学校は、佐世保の自動車学校での合宿免許。
色んな人に出会えたね。
ここで知り合えた人とは、今でも繋がりあるよ。
もちろんスムーズに卒業しました。
本番も1発合格!
楽しい2週間だった。




大日本プロレス入団〜
は今度書きまーす。





流石に綴るの飽きてきた!笑


後半へ続く〜!!!
(いつになる事やら。。笑)