慶応義塾大学SFCの生活



~秋風遠藤野の巻~



 もともとSFCとは、他の学部に比較して実学志向が高く、いち早くビジネスの前戦に出れるという触れ込みであった。これは入学式の時、FBIで扇動訓練を受けた教授も確かにそう述べていた。しかし、バブルがはじけて数年、じわじわと日本経済の各所にその影響が出てきていた。



 そんな折、私たちSFC1期生は就職活動を余儀なくされるわけである。4年生になる直前の春休みから色々な就職斡旋を生業とする企業から段ボール詰で、分厚い業界案内や各企業の就職案内が届いた。



 その頃、私は実家近くのサウナでバイトをしており、そこで出来た地元の友人と遊び呆けていた。フリーター、大学生、会社員のバイトなど多くの人材がおり、彼らと飲んでいると学校の友人よりも新鮮な気分がした。その頃、初めて社会人の友人にスナック(:今で言うキャバクラ)に連れてってもらい、オヤジ路線まっしぐらへのレールも急ピッチで建設された。

 また、3年生の時に購入したバイク、BANDIT400Vを駆ってKと関東近辺のツーリングに明け暮れ、まさに我が世の春を謳歌していたのである。



 しかし、キャンパスには段々とスーツ姿の学生が増え始めた。ここで普通であれば少々慌てなければならないところであるが、我々は全く意に介さず何ら緊張感というものが無かった。

 だがGWの最中、まったり伝統の巨人・阪神戦を家で見ているとき、やおらオヤジが口を開いた。

「今年は就職が厳しいそうだから、俺の友人に会わせてやる」

「え、誰?」

「うちの会社のU氏だ。なんか色々なコネがあるらしいから、とにかく会え」



 私はコネを使うのは嫌だった。何故なら、以前ひどい目に会った事があるからである。サウナのバイトでバイク野郎Kの友人と称する者が、バイトを紹介して欲しいと言ってきた事がある。一応、人材難であったサウナである為、店長とそいつを引き合わせ後、採用が決定したが、そいつがとんでもないひょうろく玉であった。遅刻や無断欠席を繰り返し、最後には連絡無しにやめてしまったのである。


 ここまでならまだ、良い。しかし厚顔無恥というべきか、そいつは勤めた分の給料が欲しいとノコノコやって来たのである。その時、私が調度、カウンターでの受付業務をやっており、自動扉越しに奴の姿を見た時は唖然とした。


 しかも悪い事にその時、機嫌の悪いサウナ店長が事務室で当月の資金繰りの計算をやっていたのである。まあ、仕方ないと思い、その旨を話すと、サウナ店長は脱兎の如く事務室を飛び出し、

「てめぇ、どの面下げてここにきやがった!!??」

と所謂堅気の方からは絶対出せないような、暗黒のオーラに身を纏い、地獄から響くようなドスの利いた声で相手をひるませ、ドノバン・レーザー・ラドック(:全盛期タイソン相手に好戦した選手)の如きスイング気味のアッパーを閃光のように数発ボディに決めたのである。



 私は唖然とするとともに、サウナ店長がライト級であれば世界は無理にしろ、東洋太平洋くらいまではいけるのではないかと考えた。というのはうそであるが、とにかくこうしたことから、人材の推挙など余程の事が無い限りしない方が良いと身にしみて理解したいのである。




U氏との面会は、GW後に早速、銀座で実施された。U氏はオヤジが勤めていた百貨店でもかなりのやり手であるという。確かに見た感じ敏腕で、頭の回転も私の1億倍は早そうである。色々、仕事の話やら雑談をした後、その日にオヤジの元に私のスカウティング・レポートが届いた。


 それによるとまず、第一印象が非常に悪い。昭和初期の旧帝大生のような風貌を直すことから就職活動を始めた方が良いとのことであった。


 当時の私は、初めって会ったGUYに何故ここまでディスられなければならないかと憤懣やる方なく、「就職などしない」と宣言したものの、40年に渡り私の家で忠孝に励んできた執事セバスティヤンが、

「坊ちゃま、坊ちゃまのリクルート・スーツにアイロンをかけとうございます。これを私の最後のご奉公にしとうございます!」

と涙ながらに訴える為、私は渋々就職活動を行なう事になった。(←言わずもがな大嘘です。)


 現在、某民放のワイドショー番組で、亭主改造計画というコーナーがある。それをまさに地を行くものであり、眼鏡を今風にし、髪型もパーマを当て流れが出るようにし、何気で満更でもなかった。また、有隣堂という本屋に行き、したこま「面接の達人」など就職活動用マニュアルを買い込んだ。




 さすがにGWを過ぎた辺りから、キャンパスを歩く4年生の殆どは紺のスーツに身を包み、授業やゼミを受けていた。また、初年度ということで教授陣も気を使っているのか、あまり授業の出欠は取らなくなっていた。バイク野郎K、オージーS、幕末の志士の末裔マメ、その他色々友人達もリクルート・スーツを着込んでいた。皆、コンサバな紺色のスーツなので、いかにも緊張感を漂わせている。


 しかし、どうしても似合わないのが言うまでも無い、バイク野郎である。しかも、一応当時の学生のバイブルとなっていた面達も読んでいない様子であった。


 その頃はまだOB訪問⇒面接というパターンが確立されていた。最初はかませ犬ではないが、あまり希望していない業界のOB訪問を行なう事とした。某飲料メーカーや大手キャッシュカード会社OBを訪問し、色々話をした。


 最初はかなり人見知りする方なので、滅茶苦茶緊張したが、段々と慣れていった。幾社か面接につながるようになりヤンキースやレッドソックスばりに次のステージに進んでいった。


 面接時には、自己紹介・志望動機などにおいて理論武装が必要となる。私は徹底して政治学でかじった「日本国民は真の豊かさを享受していない理論」を私なりに解釈し、中国の孔子や孟子の格言、小噺を交え、当時の私にとって最強の理論を綿密に創り上げた。


 また、如何に勤勉であるかといった証左を見せるべく、でっちあげたネタを幾つか用意した。また、勉強ばかりでもなく、多趣味であることを強調する事も忘れなかった。これは、それ程労する事は無かった。


 私は肝心な事はろくすっぽ憶えないくせして、昔のボクシングのチャンピオンだとか、NFLアメフト選手名やら、試合内容やらをやたら良く憶えている。その為、多くの試験官のストライクゾーンを捉えるであろう話題にはかなりの自信があった。



 6月の中旬を過ぎると、ほぼ本命企業のみに絞られてくる。ミーハーであった私は、某大手ビール会社と某大手ゼネコンに狙いを絞った。ビール会社のほうは、U氏のご親戚の紹介で最大派閥の塾員に取り込み、ゼネコンの方は、オヤジが人事部長と内通の計を謀っていた。ことゼネコンはもう確定のお話を頂きながら、最終面接に向かった。


 私はかなり図に乗りやすい性格である。その為、巧くいっているときは、自分こそ真という心理が更に私の自信を深めるという悪循環を招く。

 ある面接では、某大手保険会社の課長を「叱った」ことがある。これは、君の理論はあくまでも理想論であり、現実の社会では通じないと喝破された為、そうした保守的な考えであるから、日本はこのバブル崩壊を招いただとか、あなた如き器のの人物が課長で納まるようではこの企業の将来は薄いと、細木数子も顔負けのある事ない事でっち上げた。もう他の学生達はこいつは狂人かというような顔をしていたが、私は通った。次の面接に。


 だが、もうその時はゼネコンに行くと思っていたので、こっちからその会社を切る(:断りを入れる。)という神も恐れぬ行動を取っていた。



 やはり、好事魔多しというか、アホな私はそのゼネコンでも同様に近いことをしたのである。役員達が10人くらい並ぶ中、私たち学生も10人並び、一人一人の紹介が始まった。正直、顔合わせといっても過言ではない。ただ、最初の名前を言う際に結構笑いをとった事から、私はまた図に乗り始めた。


 ここで、役員達にインパクトを与えておけば面白いと。そこで、真面目そうな一人の役員に喧嘩に近い議論を吹っかけ、見事天晴れ「日本国民は真の豊かさを享受していない理論VOL.8」で論破する事に成功した。その為、集団面接であるのに私とその役員だけが喋っていた。私は意気揚揚とその場を後にした。


 もう大学のディベートよりも「勝ち」の感覚が強かった。だが、ここは日本社会である上、会社という組織であるという最も重要な概念はアホの私の頭の中にはひとかけらも無かった。





 はたして、私が縁側で人工池に放った蛍を愛でながら、モエ・エ・シャンドンのヴィンテージで涼を取っていると、ゼネコンとビール会社から不合格の旨の通知が届いた。特にゼネコンではやはり、最終役員面接での私の尊大な振る舞いが、面白いという者と怪しからんという者に真っ二つに分かれたらしい。


 普通に応接してさえいれば、何の事は無い内定だったのであるが、やり過ぎた!という気持ちになった。また、ビール会社も大学の学部枠というものがあるらしく、総合政策学部では1名しか取れないという。そこで横柄な態度の私が落とされたらしい。



 そこからはかなりうざかった。一度途切れたモチベをまた高揚させ、またリクルート・スーツに身を包み、大手町・日本橋やらのヒート・アイランドを回遊することが要請された。7月1日から解禁となる、「公式の会社案内」からの就活である。実際のところ、有名企業・人気企業というのは6月下旬に内定が出されている。


 その為、出版関係~怪しげな財団法人まで回った。そこで、現在勤めている会社に引っかかり、現在に至る訳である。



 8月を超えても就職先が決まらない友人も多くいた。バイク野郎K、オージーSもそれに漏れなかった。バイク野郎Kには先見の明があり、今後は必ずコンピューター社会になると放言していた。


 そこでセガの親会社CSKだとか、まだ当時の学生の間では人気の無かったマイクロ・ソフトなどコンピューター関連会社を受けまくっていたが、惜しくもその風貌なのか全滅であった。その為、盛夏の中、せっせと面接希望会社に資料要求の葉書を出しており、悪筆で有名な私ですら駆りだされた。 



 また、オージーSも親父の道を進むべく、大手商社を受けまくっていたが何故か落とされた。友人なので贔屓目になってしまうかもしれないが、奴は何処に出しても、そのアグレッシブな性格とディベート能力、根性、英語を完全にコミュニケーションツールとする才があるため、非常に商社に向いた人材であると思うのであるが…。


 結局二人ともあまり希望していなかった大手企業に進んでいった。また、マメは如才なく超人気会社に進み、流石幕末の志士の末裔たるところを見せつけた。



 4年の秋学期にもなると、4年生は週1回~2回程度のゼミに顔を出せばよかった。これは普通に勉強してきた学生達である。しかし、尋常なまでに勉強しなかった私たちは1年生並に月曜から金曜、フルタイム、キャンパスにいることを余儀なくされた。


 私は1コマしか落とせず、バイク野郎Kに至っては1コマも落とすことが許されないという最悪の状況であった。キャンパス内のビュッフェで、二人頭を突き合わせ、単位取得方法が詳細に書いてあるSFCガイドを綿密に解読、何度も計算した事が昨日の如く思い出される。


 特に体育などとっくに取っておかなければならないものもあった。更には二人とも鬼門があり、私は幼少の頃から苦手であった「理数系」の会計学、Kは法学であった。体育は楽勝科目と思しき「自律神経コントロール法?」なるものを取り、目をつぶったまま手を上げ下げしたり、段々と手が暖かくなると念じたり、今もって意味不明なものであった。会計学も教科書の他、色々な参考書を買い込むなどした。また、出欠を取る授業で遅刻しそうな時は、ケビン・シュワンツの如きライディング・テクニックでBANDIT400Vを操り、実家からキャンパスまでの裏道を爆走した。

 
 このため、その付近のバイク少年達から、ガンズ・アンド・ローゼスの髑髏の黒Tシャツに、黒メットの凄い走り屋がいるという噂がまことしやかに囁かれていたと、地域の暴走族ピエロのヘッド、スネークが後日述懐している。この手の話はどこの大学でもあるらしく、会社の同僚も同じような事をやっていたと言う。彼の場合は、キャンパスが一般教養はAキャンパス、専門科目がBキャンパスとセパレイトしていた為、R246を1日何往復もしたという。しかも、1日だけ、どうしても3限と4限というニアバイな時間帯での講義が両キャンパスである為、その休み時間に友達から当時最も速いといわれていたカワサキのZZ-Rを借り、殆ど暴走族状態でキャンパス間を移動、天晴れ卒業したという。



 ただ、その頃になると居るのは下級生ばかりで、非常に淋しいものであった。ウサギは寂しいと死んでしまうらしいが、私も何度もキャンパスの池に身を落とそうかと思ったものである。晩秋特有の弱々しくも鮮やかな光が、白いキャンパスをオレンジ色に染めると非常に物悲しくなった。SFCは自然豊富で夜になると葉を落とした広葉樹の枝が、ひんやりと冷たい夜空に空虚に映しだされていた。多感な私はそうした風景を見て、そぞろ低吟をそそられたが、アホなので特に上手い言葉も見つからなかった。



 普通に勉強をしてきた4年生が、ろくすっぽキャンパスに来なくなり、東京方面ばかりで遊んでいるので、私は勤め先のサウナに入り浸った。この時のサウナは、バイトであればただで入ることが出来た。サウナは苦手だったので、風呂に入ったり、食堂で酒食を友人ともにし日本の今後を愁いたりするなど、やりたい放題であった。


 良く言われている話であるが、こうした水商売系の仕事をすることにより、非常に人間の機微だとかが勉強できる。色々な職種、年齢の方たちの話を聞くだけでも(注:サウナは法螺吹き系が多い。)、大学では学べないものまでカバーする事が可能である。


 お客様に限らず、働いている従業員も様々で、借金をこさえ大手電機メーカーに勤めながら夜と土日バイトをしているサラリーマン、某有名私立大学を出ながらリストラされたマッサージ師、小さい運輸会社の社長まで居た。勿論、皆人生観などは多種多様で、あと半年後には社会に出る私は深く考えさせられたものである。





 1月に入ると、いよいよ最後のテストを迎える事になった。中学時代から毎年、落第クライシスに悩まされた私にとっては、最後の総決算、天王山の戦いとも換言できる。参謀にはバイク野郎Kを据え、今回ばかりはコピーではない自分のノート、教科書を読破し万全の大勢でテスト時期を迎えた。もうその準備万端ぶりときたら、中国三国時代、蜀の諸葛亮を迎えた呉同然である。


 その結果、テスト・レポートはバリバリ手応えのあるものであった。結果、選択した10科目のうち見事7つがAに輝き、私は独りキャンパスで勝鬨を上げた。大体SFCでは、普通に勉強すれば4年間で40個位Aは取れるものである。


 しかし、私はそれまで3個しかAを取った事が無い。つまり、最後の学期でそれまでの2倍Aを取った訳であるが、あまり褒められる結果でない事は言うまでも無いだろう。


 対して、私のテスト参謀であったバイク野郎Kは無残、敗走を続けた。もともと1コマも落とせないと言うのに4個も落とし、最後の最後で落第が決定した。もうこれでは仕方がないだろう。落第が決定した時点で、内定の決まっていた会社に電話したところ、

「それじゃ、来年待ってるから。一つ席明けとくよ!」

との人事部長の回答を得たという。我々の就活も厳しいと思っていたが、その後は失われた10年、凄まじい就職氷河期となったことは衆目のとおりである。



 2月に入り、バイク野郎Kに奇禍が起こった。Kは関内にある高級クラブでバーテンのバイトをしていた。その帰りこともあろうか、バイクで居眠り運転をし、市営の自転車置き場に突っ込む事故を起こしたのである。しかもバイクでの居眠り運転は2回目で、1回目は商店街のタバコ屋のシャッターに突っ込んだと記憶している。1回目はシャッターがクッション代わりとなり事なきを得たが、今回は腎臓一個破損という重傷であった。


 正直、バイクで居眠りをするという行為は、私には信じ難いものであるが、ともかくオージーSと見舞いに行った。病院は川崎に程近く、凄まじく汚い、かつ藪医者チックな作りであった。病室は6人部屋でその一番窓際にKのベッドがあった。


 見た感じ、殆ど外傷といった物は見受けられなかったが、いつもトカゲのように元気に動き回るKも流石にぐったりしていた。まるで夏休みの終わりのカブト虫のようである。


 Kは私たちに他人からの見舞い品のミカンなどを田舎のお婆ちゃんのように勧めてくれたが、従前のKを知っている私たちは何となく食べる気にならなかった。まあ、自分で蒔いた種とはいえ、ここまで弱々しい動きのKを見るとやはり不憫な気持ちでいたたまれなかった。本当は、友人として色々諌めるつもりだったが、なぐさめる事しか出来ない。


 3月は卒業式シーズンである。一応、三田で行なわれ卒業証書を受け取ったり、学生IDカードを返却しなければならないのであるが、よりによって大寝坊し、郵便で卒業証書が届いた。最後の最後まで、全く私らしい所業とは言える。こうして私の10年間における慶応義塾での生活は幕をおろした。




 初年度のSFC学生の多くは、大手企業に就職を決めていた。帰国子女が多いことから外資系就職率も他学部と比べて高いほうであると思料される。ただ、決定的に違う点は大学院進学者の多さ、ベンチャー志望が高い点に尽きると思う。良くSFCの学生達は組織になじまないというマスコミ報道を聞くが、それは確かにあるだろう。


 こと日本の護送船団方式のような組織には、恐らく馴染めないだろう。やはり、多くの学生達は本気で勉強してきたという自負があり、かつ様々な分野での活動、その成功から自分に尋常でない自信を有しているからだ。(注:私を筆頭にした堕落した学生は除く。)そうしたプライドは確かに日本企業の上司にとっては鼻がつくのであろう。


 だが、結果はもう歴然としているのではないだろうか。日本いや世界の経済・社会構造の激変により、SFCの生徒のような真摯な態度、高い情報アンテナを張ることは今後も不可欠である。

 ただ、SFC生は己の考えが正しいものと考えるゆえ、机上の論理を振りかざし、実体験が圧倒的に少ないものもまた事実である。もちろん、現在の学生達が何を考えているかは私の知るところではないが。


                  (完)