前回、唯月ふうかさんの大ファンだと告白したので、彼女の魅力についてひとつ。

 前半は、私がふうかさんを“発見”した個人的な思い出になっていますが、まあブログなんでよろしく。

 

 きっかけは、2年前(2017年)のミュージカル『レ・ミゼラブル』でした。ご存知の方も多いと思いますが、チケット販売開始時点で、役者の出演予定が発表されていて、お目当ての人の出演日時を選んでチケットを買える仕組みになっています。で、この時点では、エポニーヌ役として初出演のふうかさんについては写真とプロフィール(生年月日と舞台歴など)しか分かりませんでした。当時、彼女のことは全く知らず、「なになに、まだ二十歳? で、舞台経験はピーターパン?ガキ向けのミュージカルやんか。デスノートTHE MUSICAL?漫画やん。やっぱりガキ向け?それにホリプロタレントスカウトキャラバン特別賞って、こりゃアイドル枠かいな。まあ、歌唱力には期待できないな」と思って、実はふうかさんの日時は避けて、チケットを買いました(同じ理由で、生田絵梨花さんのコゼットも避けました)。正直、唯月ふうかという名前すらも記憶しませんでした。

 ところが! なんとチケットを買い間違えていたのです(昼公演と夜公演を間違えた)。さあ来週行くぞ、というタイミングでこの間違いに気が付いた時はショックで、チケットを何とか取り直せないかと思ったけど時既に遅し。自分が買った公演の出演者を見ると、エポニーヌが、あのよく知らんアイドルっぽい娘やん!ちょっとがっかりしました。

 でもこの時には、製作発表時の歌唱披露映像が公開されていました。ふうかさんはエポニーヌとして「心は愛にあふれて」(コゼットとマリウスのデュエットに、最後少しだけ絡む)と「ワン・デイ・モア」を披露していました。これを見て(聴いて)、「あれ?とってもいいやん。これはもしかして掘り出し物かも」と思い、一転、ちょっとだけ期待して本番の日を迎えました。

 

 で、実際に聴いてみると、自分の持っているエポニーヌのイメージにぴったり合っている上に、音程はいいし、表現力はあるし、素晴らしかったのです。唯月ふうかという名前が心に刻み込まれました。

 

 またふうかさんの出る舞台を見たいな~、と思っていたところ、レミゼ後すぐに(レミゼ地方公演と被る日程で)、「デスノート THE MUSICAL」の再演に出ることが分かりました。でも、「デスノートねえ。漫画が原作やろ?映画版をちらっとTVで見たことあるくらいしか知らんしな~。ちゃっちいミュージカルちゃうかな?ネット映像でちょっとだけ見れる、唯月ふうかの歌はそれこそアイドル歌手みたいやし・・・」と思って、聴きに行きませんでした(この判断を今とっても後悔しています。聴きに行けばよかった~。ちなみに、ふうかさんの役はミサミサというアイドル歌手の設定で、だから正しくアイドル曲を歌っていたのです)。

 

 ふうかさんが次に出演したのはその年の年末、『屋根の上のヴァイオリン弾き』。五姉妹の三女・チャヴァ役でした。私は見たこと無いけど有名な定番ミュージカルだし、次女・ホーデル役は神田沙也加さん(アナ雪のアナ役以来、気に入っている)だし、こりゃ行かない手はない、ということで、聴きに行った訳です。

 作品全体は楽しめましたが、問題は、このミュージカルは歌付きストレート・プレイと言った方がいいんじゃないか、と思うくらい歌の部分があまり多くなく、チャヴァが歌うのは、たった1曲!(しかも、2人の姉と3人で歌う曲)。ふうかさんの歌をもっと聴きたい私には欲求不満が溜まりました。

 同時にこの時自覚したのが、私はなにより、唯月ふうかの歌が好きだ、ということです。彼女の演技がヘタとかダメだ、ということは全く無く、演技に不満はないのです。声も顔も可愛いし。でも、歌わない場面は心に刺さってこない。グッと来るのはいつも、歌を聴いているときだな、と。

 

 その後ふうかさんが出演した『舞子はレディ』は主演なので聴きに行きたかったけど、福岡でしか演らないので断念。『夢の裂け目』は、出演に気が付いたときには時既に遅く、チケット完売。

 

 なので次にふうかさんを聴きに行けたのは、昨年(2018年)10月のミュージカル『生きる』でした。このミュージカルは、黒澤明監督の映画『生きる』をミュージカル化する、という大胆な試みで、宮本亜門演出、主人公が鹿賀丈史、市村正親という大御所のダブル・キャストという意欲的な初演でした。深刻なヒューマン・ドラマだけどミュージカルはコメディ・タッチの作りで、なかなか楽しめる作品です。

 唯月ふうかさんは、鹿賀丈史版では主人公の部下のOL(小田切とよ)、市村正親版では主人公の息子の妻(渡辺一枝)という、交互二役の出演でした(ちなみに、歌手のMay’nさんが真逆の二役を演じました)。私が行ったのは鹿賀丈史版です。

 このミュージカルでも、ふうかさんの歌はいいな~、と再確認しました。声が映えるし、音程がいいので安心して楽しめる。私が見たとき彼女が歌ったのは2曲、うち1曲(ワクワクを探そう)はソロナンバーで、もう1曲(夢はつかみとるもの)は主婦たちと一緒に歌う曲ながら、ふうかさんのソロ部分が多い曲でした。それでもたった2曲。『屋根の上のヴァイオリン弾き』よりはマシだけど、まだ欲求不満が残りました。

 この時は演技も良かったんです。ふうかさん演じるOL役は、何より天真爛漫さが求められる役どころで彼女にぴったりだし、楽しい演技でした。でも後日WOWOWで見た市村正親版の映像と合わせて見ると、OLと若奥さんのどちらも同じ『唯月ふうか』に見えて、ちょっとだけがっかりしたのも確か(May'nさんの方が、本職が歌手で舞台は初めてなのに、演技に感心しました。かつらや衣装、化粧の影響もあるでしょうが、二役で全く別人に、しかも『歌手May'n』とはまた違う人に見えた)。

 おまけの話ですが、「ワクワクを探そう」という曲は、製作発表時の歌唱披露映像を見ることが出来ます。でも本番では、歌詞が全然違いました。初演なので練習しながら歌詞もどんどん変わっていった、と聞きましたが、それがよく分かります。

 

 そういう訳で、もっと唯月ふうかさんの歌を聴きたいな~と思ったのだけど、彼女は今、舞台中心に活躍していることもあり、映像や音源があまり残っていません。そうすると気になってくるのが、聴きに行かなかった「デスノート THE MUSICAL」です。調べてみると、ふうかさんが歌った曲はどうやらもっと多い。そこで思い切って、このミュージカルのCD2015年初演時のライブ録音)を買いました。

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 で、聴いてみると、これがいい! 作品としても素晴らしい出来だし、ふうかさん演じる弥海砂(あまねみさ・・・ミサミサ)はソロナンバーが3曲、デュエットが1曲、一部に参加する曲が2曲あって、たっぷり。また曲がいいんだわ。

 単に曲が多いだけでなく、ふうかさんの歌の表現力を存分に堪能できます。例えば3曲のソロナンバーをみると、最初の曲(恋する覚悟)は、アイドル歌手としての持ち歌で、ノリノリの曲。2曲目(秘密のメッセージ)もアイドル歌手としての新曲ながら、しっとりした曲調で、かつ、ストーリー上重要なメッセージを込めている。最後の曲(命の価値)は、警察に逮捕・拘束されて、取り調べを受けている時に、思いを吐露する曲。というように、場面設定が全く異なりますが、そうすると、歌い方が全然違う。特に「命の価値」は、声色からしてそれまでとは全く異なり、その表現力に感心しました。それで、すっかり唯月ふうかファンになった、という訳です。

 

 ふうかさんの歌の魅力はどこにあるのでしょうか?

 まず、音程がとても良い。細かいところも含めて、ズレた、と感じる場面が殆どありません。それからとても良く通る声を持っています。全くこもらない。ミュージカルだとマイク付きで歌うのが普通ですが、マイク無しでもかなりよく聴こえるのじゃないかな。

でもこれだけだと、音楽として美しくても、感情があまり伝わらない歌唱になってもおかしくありません。ところがふうかさんは、メロディに、場面に応じた感情を乗せるのがとても上手なのです。

 ふうかさんの歌を(映像などを含めて)よく聴くと、息を強く吐き出す時が多いことに気が付きます。中国語でいう有気音(韓国語でいう激音)をもっと強くした、というか、強く吐く息の音がしょっちゅう聴こえる。そして、吐き出す息の強さを、声色の使い分けや自然なクレッシェンド・デクレッシェンドと合わせ、感情表現にうまく利用しているように思います。

 また、この強い息が、舞台で日本語歌詞を明瞭に聴かせる効果も生んでいるのではないでしょうか(息のおかげかどうか正確には分かりませんが、ふうかさんの日本語歌詞はいつもはっきり聴きとれます)。

 ちなみに、ふうかさんの声について、ハスキーとする評をときどき見ます。私は彼女の声をハスキーとは全く感じないのですが、もしかすると、この強い息の音が、人によって、ハスキーという感想につながるのかもしれないな、と思います。

 

 ふうかさんの音程がとても良いと書きましたが、私が聴いた限りで一ヶ所だけ、歌唱と音符のズレが少し目立つところがあります。「デスノート THE MUSICAL」の最後のソロナンバー「命の価値」の中の一部分です。でもその部分は、警察に何日も拘束され取り調べを受けて、肉体的にも精神的にも限界になる中、声を絞り出すように、蚊の鳴くような声で、思いを歌う部分。音程が奇麗に合いすぎると、その苦しさが伝わらないとして、かなり意識的にズラしているように感じます。そのあと絶叫的なまでに声を上げて曲を終えますが、その部分の音程は完璧。音程のズレが却ってふうかさんの豊かな表現力を感じさせ、大好きな歌唱のひとつです(聴いていると、感情移入して辛くなるのですけどね)。

 

 なにより歌が良いのだったら、普通の歌手として活躍すれば良いのでは、と思いきや、このように、ストーリー上の場面に応じた感情表現が得意なのだから、演劇系が合っている、ということでもあります。すると、彼女の魅力が一番発揮するのは、レミゼのように全編歌のミュージカルになると思います(本音のところ、ミス・サイゴンのキム役をやらないかな~と、密かに期待していました。でもまだ出演しないようで、残念です)。

 

 ふうかさんがエポニーヌを歌った音源は、先に書いた、2017年製作発表時の短い歌唱披露(本番よりずっと前の歌唱!)しか無く、残念に思っていたのですが、615日にBS-TBSの「Sound Inn "S”」で「オン・マイ・オウン」を披露されるとの由、楽しみです。

 

 また来年2月の祝祭音楽劇『天保十二年のシェイクスピア』に、ヒロインお光/おさちの二役で出演することが発表されました。

https://www.tohostage.com/tempo/

これもとても楽しみですが、この作品は元々ストレート・プレイのようなので、どれくらい歌ってくれるのだろう? そこがちょっと不安です。

 

(おしまい)

 ミュージカル『レ・ミゼラブル』は今まで何回か見たことがありますが、今年は初めて、同一シーズンに3回見ました(4/26マチネ、5/2マチネ、5/22ソワレ)。このうち5/2は事前にチケットを取っておらず、ダメ元で当日券を狙ったら、奇跡的に取れたので、ラッキーでした(どうやら当日券は14枚で、私は整理番号12番。ギリギリでした)。更に、後から書くように、5/2のパフォーマンスは素晴らしく、身体が震えるほど感動したので、本当に幸運だったと思います。

 

 全般的に思ったことは、基本的に同一演出とはいえ、年によって結構変わるんですね~。伴奏のオーケストレーションも聴きなれない部分があちこちにあるし、「一日の終わりに」では、女性が歌っていた筈の対旋律が男性に割り当てられているし。「夢やぶれて」では、メロディが始まる前の語りのような部分が完全無伴奏で、本当に語りになっていました。それから1832年パリのシーンで、ジャン・バルジャンに最初に気が付くのがテナルディエでなくマダムの方だったり。

 歌詞も、特に経過的な部分で、「こんな歌詞だったかな~」と思うところが数多くありました。全般的には、物語の流れが分かりやすくなったように思います。まあ、直近聴いた2017年版を細かく覚えている訳ではないので、2年前との比較、という意味でどのように変化したのかはよく分かりませんが、そこそこ変わっているのだと思います。

 

 それから、3回の座席は当然違うのですが、席によって聴こえ方が結構違うな~、ということも発見でした。特に、4/262階のB席だったのですが、強く歌うサビの部分はともかく、弱く歌う箇所が全般に平板に聴こえて、いまいちでした。また4/26のパフォーマンスは全体的にセカセカとしていて、歌を連ねるコンサートのようにも聴こえました。ストーリー上の心情があまり伝わってこない感があったのです。指揮のせいなのか、座席のせいなのか、よく分かりませんが、複合的な理由があるのでしょう。ともかく、この後で役者さんごとの感想を書きますが、4/26に聴いた人は、その意味で過小評価になっているかもしれません。

 4月26日

 

5月2日

 

5月22日

 

 さて3回も見に行くと、同じ役をいろいろな役者さんで聴けたので、比較できるのが楽しみですね。特に今回は結果的に、ジャン・バルジャンとジャベールはそれぞれ、トリプル・キャストを全員1回ずつ聴けました。

 

 ジャン・バルジャンは、吉原光夫さんが圧巻でした。出てきた瞬間からその歌声に引き込まれ、全編、穴というか、ネガティブに感じる部分が殆ど無い。敢えて敢えていうと、「彼を帰して」の最後の伸ばしが、ちょっと苦しそうだったかな。2017年に聴いたジャン・バルジャンも吉原さんで、その力強い歌に圧倒されましたが、今回は、特にファンテーヌと絡んで以降、声にやさしさが増したように思います。とはいえ、弱くなった訳ではないのが、すごいところです。

 福井晶一さんは、特に穴は無かったのですが、何故か、私の心にはあまり響いてきませんでした(福井さんを聴いたのは4/26なので、他の席だったら違った感触があったかもしれません)。ただ、下水道から出てきてジャベールと対峙する場面は、凄味がありました。この場面は、誰よりも福井さんの声と演技が圧倒的でした。

 佐藤隆紀さん(シュガーさん)は、基本的に優しい声の人ですね。出獄直後の場面では迫力に欠けるきらいがあるのですが、そこはメロディを崩してセリフ的な歌い方を多用することによって、解決されていました。またこの場面は、素顔のシュガーさんを全く感じさせない化粧で、造形面でもうまくカバーされていたと思います。シュガーさんを聴いたのは東京公演も終盤にかかる時(5/22)で、そのせいか後半、ところどころ声がかすれていたのが少し残念でした。とはいえ評判の「彼を帰して」は表現をとても工夫されていて、良かったです。この曲に限っていえば(また声の調子が良かったら)、吉原さんよりも素晴らしいかもしれません。

 

 ジャベールは、川口竜也さんが最高でした。吉原バルジャンとの組み合わせで聴いたこともあり、冒頭からすごいことすごいこと。他の人は「ここいいな~」という部分と「あれ?」という部分が混在しているのですが、川口さんは吉原さん同様、ほぼ穴がありません。長年ジャベール役をされていることもあり、現時点では、川口さんのジャベールを標準として、他の役者さんはそれにどう自分の味を加えるか、というような感じなのではないでしょうか? 川口さんで敢えて言えば、「星よ」でもう少し強弱の陰影があった方がよかったかな~、とは思います。でも「自殺」は圧巻でした。

 伊礼彼方さんは、川口さんとは逆に、素晴らしい部分といまいちな部分がはっきり分かれたように思いました。最初の方は、育ちが良い感じが残っていて、ジャベールが持つ厳しさが不足している感がありました。しかし1832年パリの場面になってから、俄然力強く歌うようになり、一挙に引き込まれました。「星よ」は考え抜かれた強弱表現で、素晴らしかったです。この歌に限れば、川口さんより良かったです。ところで、バリケードが陥落してから、伴奏のみを背景にジャベールが暗闇の中ジャン・バルジャンを探しに来る場面がありますが、この場面、伊礼ジャベールは(ある意味命の恩人の)ジャン・バルジャンの生死を知りたいのであって、もはや逮捕しようとは考えていないように、私には感じられました。だから下水道から出てきたジャン・バルジャンと対峙する場面でも、本音では端から逮捕を考えていない感じ(ちなみに川口さんは、歌詞通り、この対峙の最中に逮捕しない決断をしたように感じました)。なので伊礼さんの「自殺」は、最初から心は決着済で、死ぬことを決心しているかのよう。歌詞に心の混乱を示しているので時系列的にはおかしな感じにもなりますが、「自殺」の歌詞がバリケードからの解放後ここに至るまでの心情を歌った、と考えれば納得できます。新鮮な役作りでした。

 上原理生さんは、最も法を信じ、頑固なまでに冷徹に職務を遂行する役作りに思えました。そしてバリケードから解放されてからは、混乱して狂気さえ漂わせるジャベールでした。伊礼さんとはある意味真逆かもしれません。ただ、おそらく座席(4/26)のせいで、歌があまり印象に残っていません。少し残念だったのは、下水道から出るジャン・バルジャンと対峙する場面で、逮捕しないという決断が唐突で、気持ちの変化があまりよく分からなかったことです。

 ところで、この下水道出口の場面ですが、ジャン・バルジャンを逮捕せずに、立ち去るように言う歌詞が、3人でそれぞれ違うように記憶しています。川口さんは「行け!」とだけ、伊礼さんは「よし、行け!」、上原さんは「わかった!」。人によって歌詞を変える、ということもあるのですかね~。私の記憶間違い?

 

 ファンテーヌは初登場の濱田めぐみさんに期待していたのですが、期待にたがわずというか、イメージとはちょっと違った形で、素晴らしいファンテーヌを聴くことができました。歌は勿論べらぼうに上手いのですが、彼女が本来持つ力強さを少し封印し、儚いファンテーヌ像を出されたように思います。濱めぐさんの「夢やぶれて」は、TVで素晴らしい歌唱を披露された映像があり、youtubeで聴くことも出来ますが、あれはコンサート的な歌い方なのでしょうか、舞台上の「夢やぶれて」は全然違う歌い方でした。もっと歌詞に寄り添って、儚く儚く(でも決して弱弱しくはないのですよ)。

濱めぐさんのファンテーヌは何より、死にに行く場面が凄かったです。ベッドの上からまず右(舞台方向)を向いて、蚊の鳴くような声で、コゼットに呼びかけます。コゼットの幻影が見えているのですね。その後ジャン・バルジャンが来て、最後はジャン・バルジャンの腕の中で息を引き取るのですが、普通は前を向いてガクッと首を垂れる。でも濱めぐさんは、ここで右、つまりコゼット(の幻影)がいる方向を向くのです。そして目を開けたまま、首を垂れる。最後までコゼットを見て、コゼットに心を残しながら息を引き取る演技が、感動的でした。

 実はファンテーヌという役は、日本では私にとって鬼門で、かつてソウルで見た韓国語版レミゼの、ファンテーヌ役チョン・ナヨンさんの熱唱(「夢やぶれて」はyoutubeで聴くことができます)を聴いて以来、誰のファンテーヌを聴いても物足りなく感じたものです。濱めぐさんのファンテーヌはチョン・ナヨンさんとはアプローチが全く違うので、比較は出来ないのですが、そういう物足りなさは全く無く、嬉しかったです。

 ところで、日本人のファンテーヌ(ネットで聴けるものに限る)の中では、1994年の絵馬優子さんの「夢やぶれて」がいいですね~。演技も、「コゼットの幻影が見えた」という感想を見たことがあるので、濱めぐさんと同じような演技をしたのではないでしょうか?この人は1994年しか出ていないようだし、今は歌の先生をされているようですが、何故ミュージカル歌手として続けられなかったんだろ?

 

 エポニーヌは、唯月ふうかさんしか聴いていません。他の人(特に昆夏美さん)も関心はあるのですが、なにせ私が唯月ふうかさんの大ファンで、ふうかエポ一択でチケットを取っているので、仕方ありません。

 ふうかさんの歌はやっぱり素晴らしいです。この文の最初に、座席による聴こえ方の違いについて書いたけど、彼女はどの席でも関係なし、どんな場面でも耳にすと~んと入って来ます。ふうかさんには出待ちをしてサインを頂いたので、普段の姿を間近で見ましたが、小柄で、腕も脚も本当に細くて、とても華奢な女性なのです。あの身体でどうしてこんな力強い歌声が出せるのか、不思議で仕方ありません。

 ミュージカルでは、感情表現を優先して、部分的にメロディを崩して語りのように歌う場合がわりとありますよね。ふうかさんは、それを殆どしません。常にメロディを歌い、また音程が抜群に良い。そのくせ、メロディの上に、感情をとても上手に盛り込むのです。だから短い経過的な歌からソロナンバーまで、耳は常に満足。

「オン・マイ・オウン」は、主メロディが出てくる前の(シャンソンで言うクープレの)部分から、感情に溢れ、心惹かれました。主メロディに入っても、最初のまだ静かに歌う部分が素晴らしい。盛り上がった部分で、あの島田歌穂さんが初めて一音上げたところだけは、2017年に聴いた時も含め最初の3回は「丁寧な歌い方だな~。もっと張り上げて欲しいな~」と思う感もありましたが、5/22に聴いたときは、ここも迫力があり、最高でした。また「オン・マイ・オウン」は、クープレが終わる時、“目覚める”の“る”と同時にぴったり伴奏が始まらないと興ざめなのですが、今回聴いた3回とも、ぴったしでした(これは指揮者の功績かもしれませんが)。

それから特に5/2は、「恵みの雨」(死の場面)が素晴らしかった。この歌は、胸に傷を受けて死にそうな場面ながら、途中でどうしても朗々と歌いたくなるメロディがあります。ここは1フレーズ目を歌い上げ、2フレーズ目で小さく途切れがちに変える歌い方をする人が多いのですが、ふうかさんは一貫して、常に弱弱しく途切れがちな歌い方で、苦しく、死にそうな感じが強く伝わりました。またこの歌では、マリウス役の海宝直人さんも素晴らしかった。過去の録音を聴くと、死にそうな歌い方は島田歌穂さんも素晴らしいのだけど、か細い声のエポニーヌに対してマリウスの声が大き過ぎて、デュエットとしてのバランスがあまり良くない。でも今回、海宝さんはふうかさんに合わせて、重唱部分をとても密やかに歌いました。音楽的バランスは良いし、場面としてもエポニーヌの耳元で囁いている、という設定に納得感もあり、とても良かったです。ただ5/22では、同じアプローチながら、座席のせいか二人とも少し大きめに聴こえました。

 ふうかさんの演技はどうでしょう。エポニーヌはテナルディエの娘であり、平気で悪事を働く側面もあるのですが、ふうかさんが一生懸命演じておられるのは分かったものの、笑顔が素敵な彼女からはあまり、すれっからしさは伝わってきませんでした。なのでどこまでも、健気で、いじらしいエポニーヌ、という印象が強く残ります。「恵みの雨」の場面は、歌だけでなく演技もとても良かった。マリウスに必死でしがみつき、そして抱きかかえられ、その間ずっと笑顔なのです。しかも満面の笑み、というのではなく、どこかに憂いが残る笑顔。身体は苦しいけど、(好きな人に抱かれて)心は幸せ、という心情がむちゃくちゃ伝わってきて、涙をそそられます。最後はマリウスに顔を近づけ、口がマリウスに届く直前に、ガクッと死ぬ。最後にせめてキスくらいさせてあげたかった。こんな場面を3回も見せられた日にゃあ、悲しくって悲しくって(同じ場面なのを承知で勝手に見に行ってるんですけどね)。この場面は毎回、涙が止まりませんでした。

 エポニーヌもファンテーヌ同様、ソウルで聴いたパク・ジヨンさんがお気に入りでしたが、私的には、どちらか選べと言われれば、もはやふうかさんですね(とはいえパク・ジヨンさんも魅力的ですよ~)。

 

 私は最後の場面にある、ファンテーヌとエポニーヌの重唱が、短いながらとても美しくて、レミゼの中でも大好きな部分なのですが、濱めぐさんとふうかさんの組み合わせにはとても期待していました。この2人の重唱は、「デスノート THE MUSICAL」のCDで、とてつもなく美しい長3度を聴いていましたから。で、期待に違わずとても良かったです。すぐ終わってしまうのが本当に惜しい。また5/22には、どうもお二人でメロディを交換したようでした。これにはびっくりしましたが、声質から考えて、ふうかさん上濱めぐさん下の方が確かに合っているかもしれません。素敵でした。(この後ふうかさんからサインをもらったのだから、その時直接、メロディ交換について聞けばよかったと、少し後悔。)

 

 コゼットは生田絵梨花さんで1回、小南満佑子さんで2回見ました。熊谷彩春さんはとても評判が良いので見たかったのですが、残念ながら聴く機会がありませんでした。

 生田さんは音程も良く、透き通った奇麗な歌でしたが、案外声が細いんですね~。単独の場面はともかく、ふうかエポと重なる場面などではちょっと弱く聴こえたかな。演技では、「プリュメ街」から「心は愛にあふれて」にかけて、マリウスを思う場面の、満面の笑顔が良かった。恋愛初期の、あのウキウキする感じが良く伝わってきました。同じ場面でも、ジャン・バルジャンと対峙する時は、不貞腐れではいないにせよ、つまんなさそうで。それに結婚直前になると、マリウスと話す時でも、もっと落ち着いた笑顔。状況ごとの表情が、いかにもありそうで、良かったです。ところで生田さんは、娼婦役も発見できました。大股開きで粗野な演技はアイドルとは思えず、さすがの役者魂ですね(唯月ふうかさんは、女工役は見つけたけど、3回も見たのに娼婦姿はついぞ発見できなかった。いったいどこにいたのだろう?)。

 小南さんは、高音で時に音を外したり苦しそうなところもありましたが、総じて軽やかで奇麗な声で、感じのよいコゼットでした。特に良かったのが最後の場面。5/2には、“生きて、パパ。別れは早すぎる”と歌った後に、“ね!💛”という言葉を入れたのがとても可愛らしかった(4/26には気が付かなかったので、アドリブかもしれません)。それからジャン・バルジャンが“私は父じゃない”と歌うと、即座に顔をくしゃくしゃにして、何度も何度も、強く顔を横に振ります。「そのことは知っているわ。でも違うの、パパはパパ。私のパパなのよ!」とでも言いたい気持ちが一瞬にして伝わってきて、ジャン・バルジャンの死の悲しみが一層募りました。これから、いろいろな役者さんの、この場面のコゼットの表現を見るのが楽しみです。

 閑話休題。生田さん出演の時は、男性客比率が高いとは聞いていましたが、本当でしたね。特に、若い男性二人連れというのは、他の回ではあまり見かけない観客筋だと思います。休憩中にそんな若者二人組の「・・・生田絵梨花よりかわいいじゃん。歌もいいし。」「そりゃエポニーヌはヒロインだからね」みたいな会話を漏れ聞くと、唯月ふうかファンのじいさんは心の中で「そやろそやろ」とニマニマするのでした。

 

 マリウスはやはりと言うべきか、海宝直人さんが素晴らしかったです。歌は上手だし、安定していて。エポニーヌの時に少し触れましたが、相手に合わせて歌う力も、出来て当然のようでいながら、なかなか出来るものではないでしょう。で、マリウスという役は、良い演技であればある程、ムカつく奴になりますな。エポニーヌの悲しい悲しい死を見届けた後、それほど時間が経っていないタイミングで、エポニーヌの遺品(帽子)を腰に挟んだまま(!)、コゼットに対する思いを歌った時にゃあ、半ば本気で腹がたちました(笑)。

 

 テナルディエという役は、じっくり見ると本当に難しい役ですね。「宿屋の主人の歌」からコミカルなイメージがあるけど、他の場面では平気で悪事を働く、醜く怖い側面もなければいけません。今回最初(4/26)に聴いたのは斎藤司さんでした。歌は上手だ(少なくともレミゼのプリンシパルとして遜色ない)し、漫才的なアドリブを封印しつつも、コミカルな場面では十分練った演技をされました。とはいえこの時点では、そんな演技も観客と少しかみ合っていない感があったし、何より邪悪なテナルディエが全く伝わってこなかった(本人もインタビュー記事で、悪の部分で苦労していると告白されていました)。しかし最後の5/22に聴いた時ははっきりと進歩し、斎藤さんなりのテナルディエ像を確立されたように思えました。簡単に言えば、小賢しいだけの実は小心者の小悪党、要は小物、チンピラです。コミカルな演技にも磨きがかかり、小物感に溢れた演技は見事でした。

 でもKENTAROさんのテナルディエ(5/2)は、「こりゃ勝負にならん」と思うくらいに凄味があった。斎藤さんとはある意味真逆のテナルディエで、本当はとても切れる頭の良い男が、生きるために、必要に応じてコミカルになりまた邪悪になるように“演技”している(KENTAROの演技ではなく、テナルディエの演技)、そんな感じでした。生まれる時代や境遇が違ったら、なんらかの分野(悪の分野かもしれませんが)で必ずや大物になっただろう、というテナルディエ。斎藤テナルディエならKENTAROテナルディエの使いっぱしりがせいぜい、という人生が目に見えるようです(斎藤司がKENTAROに使われる、という意味ではないですよ)。

 

 マダム・テナルディエは、長年、森公美子さんが演じてこられ、“デブキャラ”(敢えてこう書きます)としてのマダム像を確立されたように思います。それだけに、太っていない役者さんにとっては、どのような、“デブキャラ”でないマダム・テナルディエ像を作るのか、という課題がチャレンジだと思います。

 なお、デブキャラとしてのマダム・テナルディエは日本版の専売特許ではなく、グローバルにあるひとつの形だと思います。韓国語版のパク・ジュンミョンさんもデブキャラですが、正直、森クミさん(私は2017年に見ています)より凄かった。森クミさんは笑顔が素敵な人なんで、どこかに“いい人”感が残るのですが、パク・ジュンミョンさんのマダム・テナルディエは本当に意地悪な、ヤなおばさん感満載だったので(素顔のパク・ジュンミョンさんはきっといい人なんでしょうけど。なおやたら韓国語版を褒めていますが、女性プリンシパルは本当に、総じて素晴らしかったのです)。

 さて今年のマダム・テナルディエですが、初出演の朴ロ美さんが、デブキャラでないマダム・テナルディエ像を見事に打ち立てられたと思います。声優出身なせいかいろいろな声色をお持ちで、場面に応じて声を自在に使い分け、コミカルで意地悪で邪悪でもある、また色気もある素晴らしいマダム・テナルディエでした(宿屋をジャン・バルジャンが訪れた場面で、色仕掛けのマダム・テナルディエに戸惑うシュガー・バルジャンが可愛らしかった)。朴さんにはこれからもマダム・テナルディエを続けて欲しいな~。

 鈴木ほのかさんは、コゼットやファンテーヌを演じた人とは思えない体当たり演技で、2017年に噂を聞いた、ダミ声が苦しそう、という感じも無く良かったのですが、衣装でかなり太った造形にしていたし、デブキャラから脱却も出来ず、成りきることも出来ず、ちょっと中途半端な感じがありました。

 ところで、5/22の公演では、ジャン・バルジャンに大金を貰って大喜びした斎藤テナルディエと朴マダムが、はっきりと、SEX突入を示唆する演技をしたのにはびっくりした。他の組み合わせでもやっているのだろうか?

 

 アンジョルラスは、小野田龍之介さんの歌が素晴らしかった。伸びやかで、また力強くもあり。小野田さんの歌を聴いた後では、正直、上山竜治さんは物足りなく感じました。でも上山さんは、造形がいいですね。きりりとした眉で、革命を起こそうという学生リーダーにぴったりの雰囲気がありました。

 

 今回は、もともと音楽から入った私に、役作りの面白さ、芝居の素晴らしさを印象付けたシリーズでした。

5/2は、素晴らしいプリンシプルが揃った回で、本当に感動しました。この日の舞台、映像かせめて音源として、公開されないかな~。やっぱり無理かな~。

 

最後におまけの話。何度か韓国版に触れましたが、その2015-16年公演のプロモーション映像をyoutubeで見ることができるので、時々見ています。すると、2019年日本版との、ちょっとした演出の違いが発見できて面白い。

「宿屋の主人の歌」の最後のほう、マダム・テナルディエが“ケツにぶち込め”と歌う場面がありますが、韓国版では、本当に酒瓶をテナルディエのおしりにつき刺そうとします。面白いので日本版でも取り入れてくれないかな。

逆に日本版の方がいい、と思うのは、「ワン・デイ・モア」の最後。日本版では学生たちやエポニーヌが右腕を高々と挙げますが、韓国版ではあまり統一されていません。全く腕を挙げずきりっと前を向くエポニーヌも格好いいのですが、全体の造形は、形が揃った日本版の方が格好いいように思います。

ところで、韓国版のエポニーヌは、いつも指ぬき手袋をしているのです。日本では、少なくとも2019ふうかエポは、手袋などしていなかった。あの手袋は、どういう意味があるのだろう?

 

(おしまい)

 「オリンピックにおけるナショナリズム喚起の仕組は本当に自明の理か」という疑問もあり得ます。僕は、「オリンピックで自国選手を応援するのは日本だけではない」と書きました(「オリンピックとナショナリズム2016(6)」)。この辺りは、世界各国の報道をウェブでチェックすれば、少なくともメダル大国については、どこでも自国選手中心の報道である事を比較的容易に確認できます。しかしオリンピックというのは実際、参加国の約六割近くの国はメダルを全く取れないもので(リオデジャネイロ大会の場合、参加国・地域数206に対して、ひとつでもメダルを取った国・地域の数は87)、そのような国の人達が、どのような目でオリンピックを見ているのか、必ずしも自明ではありません。もしかしたら、ナショナリスティックにではなく、純粋に世界最高のスポーツを見る、という関心の持ち方である可能性は否定出来ません。

 

 この点に関連して以前、メダル0ではありませんが、国力・人口を考えると不思議なほど目立たない国であるインド(リオデジャネイロ大会のメダルは銀11・・・中国その他のBRICs諸国と比較してみましょう)について、少しだけ調べました。インドという国は、国内で使われている言語も様々で共通語といえばかっての支配者言語である英語、宗教もヒンドゥー教徒だけでなくイスラム教徒も少なからず住んでいて複雑、という国で、オリンピックを利用して統一的“国民”意識を覚醒出来れば政府にとって都合が良い国であるように見えます。しかしその割には、オリンピックであまり活躍せず(つまり選手育成に国が力を入れていない)、またBRICs四か国で唯一、オリンピックの開催予定すらない国です。それで、「もしかしてインドはオリンピックに興味が無いのかな」と思って簡単に調べてみたのです。

 

 インドがオリンピックで目立たない背景としては、伝統的に知育中心で体育に重きを置かない文化であるとか、インドで人気のあるスポーツ(クリケットとか、カバディ等)がオリンピックで採用されていない(ホッケーは採用されていますが)等がありそうです。とはいえ一時期、2020年や2014年の大会の誘致に乗り出した時期もあったようで、インドは決して反オリンピックだったり無関心、という訳でもなさそうです。機が熟していない、という事でしょうか。

 

 総合的に考えて、オリンピックからナショナリズムの要素が排除されるとは考えにくく、もしナショナリズムが排除されれば、オリンピックが“オリンピック”で無くなってしまう、とすら言っていいように思います。もし今後、ナショナリズムが排除されるとすれば、オリンピックの側からではなく、ナショナリズムの側、というか、現代世界標準となっている「国民国家(Nation-State)」という国家の仕組みの方が崩れていく時期ではなかろうか、というのが、僕なりの結論です。

 

 ナショナリズム云々より前に、オリンピックの開催自体が危ぶまれるような事態が先に起こるかもしれません。開催コストの問題があるからです。

 

既に書いた(「オリンピックとナショナリズム2016(21)」)ように、1984年ロサンゼルス大会により、開催コストの問題は“商業化”という方法によってひとつの解決を見ました。しかし最近の動きを見ていると、再度、開催コストが様々な面で大きなネックとして浮かび上がってきています。

 

2020年の東京オリンピック開催にかかる巨額なコスト負担の問題は、私たちにも既に馴染み深い話題になっていますよね。

 

冬季オリンピックでは既に、コストがネックになって、立候補する都市が少なくなってきています。2022年大会に最終的に立候補したのは、北京とアルマトイ(カザフスタン)だけでした(欧州や米大陸の国が開催に意欲的だったら、2018年平昌、2020年東京、2022年北京という、東アジア3回連続開催は実現しなかったでしょう)。

 

2024年夏季大会の立候補都市も、パリ、ローマ、ブダペスト、ロサンゼルスと、ブダペストを除き過去に開催実績のある都市ばかりです。今後、夏季大会でも、立候補する都市が見つからなくなる、という懸念が生じつつあるのではないでしょうか。

 

今度は、どのような解決策を見出すのでしょうか?

 

(おしまい)

 このシリーズの最後に、オリンピックにおけるナショナリズムの今後について、少し考えてみたいと思います(書いてみると案外長くなったので、二回に分けます)。

 

 ナショナリズムに対するある種の嫌悪感からか、オリンピックからナショナリズムを排除すべし、というような主張は割と見られます。4年前のロンドン・オリンンピック後にも、例えば日本経済新聞の小林省太論説委員が、日経紙上にそのような主張をされていました(2012819日付朝刊)。

 

 また、オリンピックからナショナリズムは消えつつあるのでは、という意見もあります。例えば、8年前の北京オリンピックが終わったころに、山田昌弘先生(中央大学教授)は、僕が書いてきたような「国民国家の幻想を強化する」オリンピックを前提とした上で、スポーツ界のグローバル化(ケニア代表のマラソン金メダリストが日本語でインタビューを受ける、野球では日本で活躍する韓国選手のホームランにより日本が敗北する、日本のコーチに率いられた中国シンクロナイズド・スイミングチームに日本が敗北する、等)により、そのような幻想性の弱化を指摘されました。

 

 しかし今まで書いてきたように、ナショナリズムはオリンピックの仕組の中にべったりと組み込まれており、しかもそれが強化されてきた歴史だったといえます。それにこの状況は、おそらくクーベルタン男爵の意思に沿っているでしょう。彼が今のオリンピックを見たら、「なんでこんなに女が出てるねん!」とか、「成り上がりの労働者階級の連中が多いやんけ!」というような文句は言うかもしれませんが(まあ、クーベルタンが関西弁をしゃべるとは思いませんけど・・・)、ナショナリズムの部分については、文句は言わないんじゃないかな?

 

 「オリンピックの一方の柱であったアマチュアリズムは崩れ去ったではないか」と言う人もいます。しかし戦後のアマチュア主義には、ソ連等のステートアマの存在により、西側諸国がハンディキャップを負うという、かなり明白な矛盾がありました。アマチュア条項の廃止はそのような背景を踏まえたものです。しかしナショナリズムに関しては、気分的な嫌悪感はともかく、現在の仕組で損をしている人がいるでしょうか?積極的に、ナショナリズムを排除すべきとする理由は、案外見当たりません。

 

(この項続く)

 今まで書いてきたように、近代オリンピックは当初より、決して国家と無関係な“純粋なスポーツの祭典”ではなく、様々な側面で“国家”意識が内包されていた、といえます。その背景について、今まで書いてきたところのポイントをまとめてみます。

 

 まずクーベルタンが、基本的にはナショナリスト(彼の定義では“愛国主義者”)でした。メダリストの国旗掲揚等は彼のアイデアです。また当初より、国ごとに組織したNOCを基盤にしたオリンピック活動を目指しており(当初数回の参加が個人又はチーム単位であったのは、世界的なNOCの設立が間に合わなかったからに過ぎません)、例えNOCが国家と無関係だと主張しても、選手は“国家代表”としての色彩を帯びる事となった、といえます。

 

 更に「“国家”単位ではなくNOC単位」という方式自体、ナショナリズムを喚起する方向に働いた面もあるように思います。1912年ストックホルム大会におけるオーストリア・ハンガリー帝国下のハンガリーの参加や、最近の中国と台湾の並立参加体制がその例です。

 

 またイベントとしてのアイデアの範を万国博覧会に取った事も見逃せません。開会式における入場行進や、国旗掲揚と国歌斉唱、国家元首による開会宣言などの儀式は、万国博覧会を基にしています。1851年のロンドン博に始まる万国博覧会はそもそも、開催国も参加国も、内外に国威を指し示す、という性格を備えているので、万博を真似れば、国威発揚の要素が含まれるのは必然的です。なお万博に倣った為に、開催するのは“国”ではなくて“都市”であるという、ナショナリズム的にはちょっとイレギュラーな要素が入ってしまった、と思われます。

 

 第1回アテネ大会が、ギリシャの国民的(ないし国家的)事業の色彩を帯びて開催され、統一的国民高揚を伴って成功した、という事実も重要です。第2回、第3回の失敗の後、再復活の為にアテネ大会に範を取ろうとした、という事はあり得ると思います。国家元首による開会宣言の復活はその一例ではないでしょうか。

 

 戦前は、このようなナショナリズム喚起の仕組みが埋め込まれる中、オリンピックは、国家よりは寧ろ“国民”側のナショナリズム意識覚醒と共に、ナショナリズムとの関連を強めていった、と考えられます。

 

しかしなにより、戦後のソ連の参戦が、ナショナリズム喚起装置としてのオリンピックの完成に大きく影響した、と見ています。

 

ソ連の参戦の意味は、まずそれまでのオリンピックが持っていた、“ブルジョアの大会”という階級制を払拭した事。これはその後ソ連等がステートアマを参加させ、アマチュア規定を廃止に追い込んだ事も含まれます。また、「オリンピックを国民国家体制に都合の良い統一的国民発揚の装置として位置づけ、国家がそれを利用してきたのではないか」という僕が立てた仮説に、ソ連の動きは合致しています。ナショナリズムの意味を“民族”から“国民”にシフトさせつつ、これ以降、国家(政府)がナショナリズムとも関連させてオリンピックに関与する場面が増えたように思います。旧東側諸国や中国はもとより、1980年モスクワ大会における、アメリカ主導の参加ボイコットも、その観点から解釈出来るのではないでしょうか。

 

現在では、オリンピックの中にナショナリズム喚起の仕組みが、離れがたく埋め込まれたように感じます。一方、このナショナリズムを焚き付ける性質を持っていたからこそ、オリンピックが100年以上も生きながらえ、現在の隆盛をもたらしたようにも思えるのです。歴史に「たら、れば」は禁物ですが、もし1864年の会議で当初提案通り、第1回大会がパリで(しかも万博の一部として、アテネの成功体験無く)開催されていれば、もしNOCの設立が進まず、個人又はチーム単位の参加が継続していれば(純粋なスポーツの祭典、という観点からは、ある意味その方が自然です)、果たしてオリンピックは今日まで生きながらえ、隆盛を保ったでしょうか? 興味深い問題ではありませんか?

 

(この項続く)