赦しをするときに、

 

「よく見るといいよ、」とか

「直視する必要あるよね」とかコース兄弟とよく会話に出ますが

 

時々、「見るって何を?」と聞かれることがあり、

するとどうも言葉で上手く説明出来ないのでしたが

 

なぜかなんとなく、今書いてみようと思ったので書いてみます。

(自分用メモです)

 

 

 

 

 

よくみる

 

=更によく考える ×

=更によく物語を追いかける ×

=「なぜ?」と問いかけ続ける ×

(なぜ私は、なぜあの人は、なぜあの時、、)

 

 

 

。。。× って書いたけど、、

一般的なセラピーや心理療法では、

「見る」「掘り下げる」「自己探求」「内観」という方向性の「見る」って事かなと思うし、

それはそれで確かに有効な事もありますが

 

コースのスケールはそういう事を遥かに超えているので

(そもそも人間の話じゃない、私たち人間じゃないので、笑)

「赦し」の話で出てくる「よく見る」はこれらの事では無いです。

 

 

 

 

じゃあ、何を「よく見る」のか?っていうと

 

自我の闇を直視する、とか そんな風に表現されますが

 

 

 

。。。

 

 

 

 

 

 

思考しない、物語を追求して「謎解き」をしない、

 

ならば

平安が崩れた→ソッコー赦しで聖霊に明け渡すだけだよね!

 

。。。となると、確かにそう!なのですが、

場合によっては

 

 

Aという事象が原因で嫌な気分だ、

よし、赦しをしよう。さっさと聖霊に渡してしまおう!

 

てな感じ?になりやすいと思います。

 

 

 

 

例えがあってるかわからないですが

顕在意識が知覚した感覚(嫌な気分)が

 

「3ぐぬぬ(3エゴ)

 

だったとすると、

 

「3ぐぬぬ程度の赦し」しか必要を感じません。

 

 

 

もちろん、序列の差は無いので

「3ぐぬぬ程度の赦し」なんてものはありません。

 

 

でも、

顕在意識が知覚している「3ぐぬぬ」は、

あくまでもウジャリ豆の中に原因を見ているので

 

 

Aという事象のせいで→嫌な気分→3ぐぬぬ。

 

これって

自我的に(この世的に)辻褄があっているので、

「こんな事があったから当然よね」という風に感じる筈です。

 

 

だから「3ぐぬぬ程度の赦し」になり、

赦しも上滑りになります。

 

それはつまり、どこかでまだ、

平安よりも

「私は正しい、私は間違ってない」を掴んでいる=自我を選択したまま赦しをする

という事に繋がります。

 

「この件について赦しをする」と思う時、

「原因」を外に見ています。

 

(「この件」についての赦し、というのは無くって、

あるのは「この件」をキッカケに現れてくれた常に同じ1つの赦し)

 

 

「3ぐぬぬ」の赦しをする!ということは、

 

無限の、全一の 神の愛を引き千切って、

「3ラブ♡」だけ受け取る!と言っているのと同じじゃないでしょか。

それは、無理です。愛は神で、神は全一なので分離は不可能です。

 

 

 

 

 

 

 

これは、とても普通に、ごく自然に起きる自我の力動で

私たちは長い長い時間をかけて

 

ネガティブな感情はよくない、

物事に上手に対処出来るのがエライ、良いこと、

一人で出来るのがエライ、と学んでいるし

 

何よりも

そもそも自我の目的は

「神の子が外に原因を見続けてウジャリ豆に釘付けになり、

決断の主体のパワーを思い出さず眠り続けること」なので

 

最初は普通に、するするーっと

「仮面の奥の闇」は回避しているものだと思います。

そうなって当然の中毒患者な訳です。

 

 

中毒患者である私たちは無意識のうちに、

自我としては辻褄のあう(これが起きたらこれぐらい腹がたって当然でしょ、と自分の正しさを主張できる、というような)

自我が「被害者の仮面」「無垢なる仮面」を保てる範囲内だけ、聖霊に差し出す。

あとは渡さずに隠しておく。

という事をするんです。

 

 

 

よく見る、というのは

 

抑圧せず

聖霊に包み隠さず全てを渡す。という事ではないだろうか

 

(ノートに全て書き出すという作業もこれと同じ)

 

無意識のうちに、

 

「ここまでは聖霊に渡すけど、あとは隠してとっておこう」とするのは、

 

自分だけは絶対に救ってもらえないし、

救われたくない。

 

という気持ちが 個である私たち全員にあるからです。

 

 

 

(罪は実在する。だから私は罰せられる。。!)

 

(罪は実在する。私は間違ってない!

 私は確かに神に勝って、個別の特別な存在だ!)

 

 

 

この無意識の叫びはとても強力な防衛を作動します。

だから聖霊と一緒に見る必要があります。

いつでも永久に 圧倒的な愛で私たちを包んでいて、

罪は幻想であり、あなたは聖なる神の子だよ〜!と知っているので深刻さも無い

あたたかな聖霊を 招く必要があるのです。

 

 

 

 

「3ぐぬぬ」の嫌な感じ。だとしたら

聖霊と一緒に、それを見ます。

 

汚物を急いで捨てるように

「これ要らない!」と聖霊に渡すのではなく

 

「あーこれ赦しするヤツか、、」と

横目で見ながらスルー(抑圧)するのではなく

 

((私もよくある))

 

 

 

 

そうではなく、

聖霊と共に、しっかりと 静かに見ます。

 

 

抑圧せずにそれを出すに任せ、

自我と一体化せずに見つめる、ということは可能です。

 

 

するとだんだん、その時々の段階に応じて、

受け入れ可能なぶんだけ、

 

「外にAという原因や理由を見つける事で放出させていた3ぐぬぬ」

 

げげっ。実は1億ぐぬぬだった!!!

 

てな感じに 少しずつなっていきます。

 

 

テキトウに具体的に書いてみると、

 

 

「うちのダンナときたらいつもこうだよ、、ちっ。

ま、もう慣れっこだし。私にも悪い部分てあるだろうしね。

私は私の楽しみあるし、イラつくのも損だし。

だから別にどうってことない。2ぐぬぬ ぐらいかな。

友達に軽く愚痴って、オヤツ食べたらもうごきげーん」

 

 

たとえばこんな感じの「ちっ」だと思っていたものが、

 

ちゃんと見たら火焔放射器もって家屋もろともダンナを焼き殺している。とか

馬乗りでメッタ刺しにしている。とか

 

どう考えても、起きたことと釣り合いもとれず

まったく辻褄のあわない、言い訳不可能な1億ぐぬぬ のメラメラがそこにはある、と見えて来ます。

 

 

(何らかのイメージを見る必要があると言っているのでは無いです。

それは「胸がギュッと苦しい」「吐き気がする、息が出来ない」という何らかの体感覚かもしれないし

言葉や叫びかもしれないし、「やっぱりよくわからない!」と思ってもそれを悩んだりせず

「直視する事を私は選びます。見せて下さい」と聖霊に祈るといいと思います)

 

 

もっとよく見つめるなら、

殺している相手は自分自身であり、

 

もっとちゃんと見れば、

殺している相手は自分自身の聖性であり、

殺している相手は神なのだ

 

神と戦っていたのだ

 

という事が少しずつ見えてきます。

 

 

 

神と戦ってる、なんてピンと来ないとしても、

 

辻褄も釣り合いも支離滅裂なとんでもないモノをそこに見る瞬間、

もはや原因を外に見る事は出来ないです。

 

 

そしてここを見てく事が実践であって、

そこを直視しない限りは、

いつまでたっても

 

「Aが起きたから3ぐぬぬ程度の赦しが必要だ」

 

「Bが起きたから20ぐぬぬの赦しか」

 

という風になって、自我がコントロールしたまま。

忘却のベールの向こうも隠されたまま。

という事になりやすいようです。

 

 

 


自我の闇を直視するんだよ、と言われると
少し恐いような、嫌な気分になる筈ですが
(それを見ない為に頑張ってきたのだから当然)

見れば、マジでこれやばい、赦しした方がいい。赦しが出来てよかった。
ってなります。

「これ3ぐぬぬ」「これは20ぐぬぬ」で止まってしまうと、
赦しをしてても 「私は間違ってない」方に信があるために、
赦す事が損のような感じがすると思います。







こういう表現はもしかしたらちょっと違うかもしれないし
とても微妙なところだなぁと思うけれど。。

今のところ、私の感じるところでは、

罪は無いんだよね、だから赦しするんだよね、
というのは確かにそうなのだけど、

「私は罪人だ」とホントの本気で絶望しないと、
私たちは自分の「正しさ」や「無垢なる仮面」から手を離そうとはしなくって

(その時々に受け入れ可能なMAXまで)
ホントの本気で打ちのめされ、

「私は罪人です。どうか憐れんで下さい」と俯いて震えながら告白する時
そのときやっと、
「罪は無いのだよ」という主の声が まっすぐ素直に 熱く胸に響き、
少しずつ少しずつ、愛に開いていく。
その繰り返しなんだと感じています。

 

 

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。

 

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

 

わたしは正しい人を招くためではなく、

 

罪人を招くためにきたのです。」

 

(マルコの福音書)

 

 

 

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もちろんだからといって

「ヨシ!がんばるぞ!直視する!」と「私が」頑張る必要も無く、

「うまく出来ない」と自分を責める必要も無いし、

 

たとえ破壊の為の赦しがずっと続いたとしても、、聖霊がちゃんと導いて下さるので安心だし

 

一番大切なのは 信頼してお任せする ことなんだと思います。

 

 

。。。それが一番、難しいトコでもあるかもですが

^^;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お盆休みはレッスン時期でもあるかも。

全ての兄弟姉妹が、心安らかで笑顔でありますように☆

 

「私の心の動揺は、私が考える理由によるものであることは

決してありません」