この世界は夢なんだ。
だから、何をしたって構わない。
どうせ、何をしたって意味がない。
すり替えのような言葉はよく聞かれることだけれど
だから、どうせ、何をしたって、の中には、
強烈に世界をリアルと信じる自我の熱が感じられる。
私には罪がある。
私には他者を傷つけることが可能だ。
この物語は幻想なんかじゃない。
という、無意識に隠された信念。
明け渡すならば、兄さんはきっと、
罪は不可能であり、あなたには攻撃することもされることも不可能だ。
だってあなたは、神のひとり子なのだから。
この世界は夢なんだよ。と言うだろう。
でも、それは自我には一番聞きたくて聞きたく無い言葉だ。
それを受け容れるなら、
「全ての兄弟に罪が無い」事になり、
兄弟を傷つけてもいい正当な理由が無くなってしまう。
全ての兄弟、に自分自身も含まれることを受け容れるなら、
個としての自分も
特別なストーリーも、泡ぶくみたいに消えてしまう。
カリキュラムをかえ、キャラクターをかえ、シナリオを分け合って、
私も 兄弟も 誰も彼もが同じ事をしている。
誰もが同じ。みんな同じ。自我は一者だから当然だ。
責任は私に
全部 こころの中にある。
*
コースを学び始めてからどうも定期的におかしな時期がくる。
ものすごい恐ろしい凶悪犯罪とか、
そういった事件を延々と遡って調べていたりするのだ。
以前なら考えられないことだけど、コースを始めてから時々起きる。
それでここ数日、とある事件についての記事をネットで読んで、
あまりに酷くて吐きそうになりながら、でもやっぱり延々と見ていて。
今朝になってもそれが思い出された瞬間、
ふっと、犯人を殺してやりたい衝動にかられてびっくりした。
それでもそのまま黙って見たままでいると、
自我はより苦しませて懺悔させたいと言いつつ、最終的には、
より苦しませるのも面倒ということで、
灯油をぶっかけて火をつけよう。という結論に至っておった。すごい。
すごい憎悪。
でもそこで、さぁ赦そうか、と兄さんに言われる。
ちょっと 赦すとか考えられない、と思った。
あまりに酷い事件だったので。
果たしてこれを、本当の意味で赦しなんて。
どうしても、被害者が自分だったら、という考えが出てしまい、
自分だったら、、と考えるほどに腹が立つ。
なんとか勝てないか、
負けたく無い。絶対に負けたくない、屈したくない、という強い思い。
私は身体の自由が奪われることに異常なほど怒りと恐れを感じる。
負けたく無い、と言ってるのは誰?
負けたく無い、本当の相手は誰?
そんなアレコレをただただ現し続けて
今、出るだけ、出してしまうと
最終的には、
この「事件」も「加害者」も「被害者」も
確かに、全部、私の中の残虐性が生み出した幻影なのだ、
他のお芝居と何ら変わりなく。。
たとえば、「あの店員ちょっと態度悪いよね!フン!」みたいなお芝居や
「職場のアイツが!」というお芝居と、同じ
同じ残虐性なのだ。というところに行き着いて
出来ることは、やっぱり、赦しをするだけ。
こういう時期を通るたびに、もう本当にやめたい、赦しをしよう。とますます思う。
*
残虐な事件、っていうのは
被害者が女性であることが多い。どうしても、力で対抗出来なかったり、
立場が弱かったり、いろんな背景があって、遥か昔からそうだろう。
私はどうもそういう事に怒りを感じて掴みやすい設定らしい。
瞬時にぐぐっとバケツに頭を突っ込んでゆくのが自分でもわかる。
昔から、そうだなぁ、とは自覚していたけれど。
人によっては、幼い子供が被害者となったりすることや、政治的な事だったりするのかも
そういう部分と、向き合う時がきているのかもなぁ、と最近感じる。
*
愛はひとつで際限がない。
それなのに、
人は愛を取り合う。
あの愛はあの人のもの。こっちの愛はこの人のもの。
私のぶんはどこ?
溶けて消えてそこへ戻れば、愛はぜんぶだ。
だけど、自我はそれでは嫌なのだ。
「私」が愛されることが重要で、
肉体である「あのひと」からもたらされる事が大事で、
「私」からの愛を受け取って欲しいと願い、
それはもう本当に、魅力的な引力をもつ。苦しみさえも。
楽しいのだ。
相手が異性でも同性でも、同じ。
「特別に好き」も「特別に嫌い」も、同じ。
愛していて、大切で、大好き であればあるほど、
自我と自我で掴みあいたい。という引きがすごい。
これずっとやっていたい。やめたくない。とまで思う瞬間があり、
ほぇぇぇぇぇ、となった。なるほどなぁ。
*
白光の中に、兄さんと私しかいないのだ。
本当には、誰もいないのだけど
兄さんは「愛しているよ」と言うけれど、
「私」は「それじゃ嫌」と言うのだ。
「私」を私として、特別に、愛して欲しいのに、
兄さんには「私」としての「私」は見えないから
何とかしてそっちが降参して譲歩してくれればいいのに、と
逆ギレするたびに、白光を覆い隠して映像が現れる。
引きちぎり、分離を繰り返し、たくさんたくさんに分かれる。
降参するのは私の方だ。
もうおしまい。
聖霊はいたるところに「声」を置く。
「it's over」
降参できないとか言いながら、
その「声」に喜びで震えながら涙を流している。
*
いろんなこと。。。強烈な印象を残して、赦しに向かわされるようなこと。。を
たくさんのレッスン、たくさんの映像で見続けている。昨年の秋ぐらいからずっと。
スライムにでもなって、兄さんにギュウギュウ揉まれているかのようだ。
ヒーヒー言いつつ 淡々と赦しをしていると
全ては、そのような強い印象を感じないほど日常的なものごとの中に、
同じものが そこにある。と、
そういう、当たり前のことに改めて気づかずにはいられない。
あまりにも日常でスルーしてきたことに、しっかり丁寧に向き合っていこう。
*
音 に携わるシナリオが、私にはあって。それも幸いなのだなと思う。
そのシナリオでする事になっとる行為自体が
「静けさに耳を傾けること」であり、
「音に向き合うことは神との関係性を正すこと」
というのが、一番最初に届けられた言葉だった。
それを本当の意味で理解し出したのは、コースを学んでから。
もうこのままコースだけ実践していれば他に何もしなくていいや、という
「私」の考えとは裏腹に、1、2年かけて あからさまに
振り出しに戻る動きがあり、より深くなっていく流れになって
気づけば以前よりいっそう、無心に無心に、静寂に耳を傾けている。
耳を傾けるということは、普段は隠されている自分の恐れの振動も
まっすぐ聞いてしまうということで
何だ、コースの訓練を、元々させられてたんか、と思ったりする。
というか、何をしていても、全部同じ。全部がそういうこと。
ありがたいなぁ。
だからこの先に
音ではなく、また何か他のものがやってきたとしても、
もう 兄さんに任せよう。という感覚が当たり前モードになってきている。
私には何もわからないのだから。
*
私を引き上げて 運んで
兄弟のように
母のように
愛して下さい
いつも傍にいてくれますか?
私を解き放って
抱きしめて下さい
愛して 糧を与えて下さい
キスと 自由を与えて下さい
抱き上げて 連れていって下さい
いつもそばにいるよと言って下さい
私もいつも
あなたのそばにいます
決して私はあなたと離れることは無い
あなたは 私のこころの中にいるのだから