この世界は夢なんだ。

 

 

だから、何をしたって構わない。

どうせ、何をしたって意味がない。

 

すり替えのような言葉はよく聞かれることだけれど

 

だから、どうせ、何をしたって、の中には、

強烈に世界をリアルと信じる自我の熱が感じられる。

 

私には罪がある。

 

私には他者を傷つけることが可能だ。

この物語は幻想なんかじゃない。

という、無意識に隠された信念。

 

 

明け渡すならば、兄さんはきっと、

罪は不可能であり、あなたには攻撃することもされることも不可能だ。

だってあなたは、神のひとり子なのだから。

この世界は夢なんだよ。と言うだろう。

 

でも、それは自我には一番聞きたくて聞きたく無い言葉だ。

それを受け容れるなら、

「全ての兄弟に罪が無い」事になり、

兄弟を傷つけてもいい正当な理由が無くなってしまう。

全ての兄弟、に自分自身も含まれることを受け容れるなら、

個としての自分も

特別なストーリーも、泡ぶくみたいに消えてしまう。

 

カリキュラムをかえ、キャラクターをかえ、シナリオを分け合って、

私も 兄弟も 誰も彼もが同じ事をしている。

誰もが同じ。みんな同じ。自我は一者だから当然だ。

責任は私に

全部 こころの中にある。

 

 

 

 

 

 

 

コースを学び始めてからどうも定期的におかしな時期がくる。

ものすごい恐ろしい凶悪犯罪とか、

そういった事件を延々と遡って調べていたりするのだ。

以前なら考えられないことだけど、コースを始めてから時々起きる。

 

それでここ数日、とある事件についての記事をネットで読んで、

あまりに酷くて吐きそうになりながら、でもやっぱり延々と見ていて。

 

今朝になってもそれが思い出された瞬間、

ふっと、犯人を殺してやりたい衝動にかられてびっくりした。

それでもそのまま黙って見たままでいると、

自我はより苦しませて懺悔させたいと言いつつ、最終的には、

より苦しませるのも面倒ということで、

灯油をぶっかけて火をつけよう。という結論に至っておった。すごい。

すごい憎悪。

 

でもそこで、さぁ赦そうか、と兄さんに言われる。

 

ちょっと 赦すとか考えられない、と思った。

あまりに酷い事件だったので。

果たしてこれを、本当の意味で赦しなんて。

 

どうしても、被害者が自分だったら、という考えが出てしまい、

自分だったら、、と考えるほどに腹が立つ。

なんとか勝てないか、

負けたく無い。絶対に負けたくない、屈したくない、という強い思い。

私は身体の自由が奪われることに異常なほど怒りと恐れを感じる。

負けたく無い、と言ってるのは誰?

負けたく無い、本当の相手は誰?

 

 

そんなアレコレをただただ現し続けて

今、出るだけ、出してしまうと

最終的には、

この「事件」も「加害者」も「被害者」も

確かに、全部、私の中の残虐性が生み出した幻影なのだ、

他のお芝居と何ら変わりなく。。

たとえば、「あの店員ちょっと態度悪いよね!フン!」みたいなお芝居や

「職場のアイツが!」というお芝居と、同じ

同じ残虐性なのだ。というところに行き着いて

 

出来ることは、やっぱり、赦しをするだけ。

 

こういう時期を通るたびに、もう本当にやめたい、赦しをしよう。とますます思う。

 

 

 

 

残虐な事件、っていうのは

被害者が女性であることが多い。どうしても、力で対抗出来なかったり、

立場が弱かったり、いろんな背景があって、遥か昔からそうだろう。

私はどうもそういう事に怒りを感じて掴みやすい設定らしい。

瞬時にぐぐっとバケツに頭を突っ込んでゆくのが自分でもわかる。

昔から、そうだなぁ、とは自覚していたけれど。

人によっては、幼い子供が被害者となったりすることや、政治的な事だったりするのかも

 

そういう部分と、向き合う時がきているのかもなぁ、と最近感じる。

 

 

 

 

 

 

 

愛はひとつで際限がない。

 

それなのに、

 

人は愛を取り合う。

 

あの愛はあの人のもの。こっちの愛はこの人のもの。

私のぶんはどこ?

 

 

 

溶けて消えてそこへ戻れば、愛はぜんぶだ。

 

 

だけど、自我はそれでは嫌なのだ。

 

「私」が愛されることが重要で、

肉体である「あのひと」からもたらされる事が大事で、

「私」からの愛を受け取って欲しいと願い、

それはもう本当に、魅力的な引力をもつ。苦しみさえも。

楽しいのだ。

相手が異性でも同性でも、同じ。

「特別に好き」も「特別に嫌い」も、同じ。

 

 

愛していて、大切で、大好き であればあるほど、

自我と自我で掴みあいたい。という引きがすごい。

これずっとやっていたい。やめたくない。とまで思う瞬間があり、

ほぇぇぇぇぇ、となった。なるほどなぁ。

 

 

 

 

 

白光の中に、兄さんと私しかいないのだ。

本当には、誰もいないのだけど

 

 

 

兄さんは「愛しているよ」と言うけれど、

「私」は「それじゃ嫌」と言うのだ。

 

「私」を私として、特別に、愛して欲しいのに、

兄さんには「私」としての「私」は見えないから

何とかしてそっちが降参して譲歩してくれればいいのに、と

逆ギレするたびに、白光を覆い隠して映像が現れる。

引きちぎり、分離を繰り返し、たくさんたくさんに分かれる。

 

 

 

降参するのは私の方だ。

 

もうおしまい。

 

聖霊はいたるところに「声」を置く。

 

「it's over」

 

降参できないとか言いながら、

その「声」に喜びで震えながら涙を流している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いろんなこと。。。強烈な印象を残して、赦しに向かわされるようなこと。。を

たくさんのレッスン、たくさんの映像で見続けている。昨年の秋ぐらいからずっと。

スライムにでもなって、兄さんにギュウギュウ揉まれているかのようだ。

 

ヒーヒー言いつつ 淡々と赦しをしていると

全ては、そのような強い印象を感じないほど日常的なものごとの中に、

同じものが そこにある。と、

そういう、当たり前のことに改めて気づかずにはいられない。

あまりにも日常でスルーしてきたことに、しっかり丁寧に向き合っていこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音 に携わるシナリオが、私にはあって。それも幸いなのだなと思う。

そのシナリオでする事になっとる行為自体が

「静けさに耳を傾けること」であり、

「音に向き合うことは神との関係性を正すこと」

というのが、一番最初に届けられた言葉だった。

それを本当の意味で理解し出したのは、コースを学んでから。

 

もうこのままコースだけ実践していれば他に何もしなくていいや、という

「私」の考えとは裏腹に、1、2年かけて あからさまに

振り出しに戻る動きがあり、より深くなっていく流れになって

気づけば以前よりいっそう、無心に無心に、静寂に耳を傾けている。

 

耳を傾けるということは、普段は隠されている自分の恐れの振動も

まっすぐ聞いてしまうということで

何だ、コースの訓練を、元々させられてたんか、と思ったりする。

 

というか、何をしていても、全部同じ。全部がそういうこと。

ありがたいなぁ。

 

だからこの先に

音ではなく、また何か他のものがやってきたとしても、

もう 兄さんに任せよう。という感覚が当たり前モードになってきている。

 

私には何もわからないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私を引き上げて 運んで 

兄弟のように

母のように

愛して下さい

 

いつも傍にいてくれますか?

 

私を解き放って

抱きしめて下さい

 

愛して 糧を与えて下さい

キスと 自由を与えて下さい

 

抱き上げて 連れていって下さい

 

 

 

いつもそばにいるよと言って下さい

私もいつも
あなたのそばにいます





決して私はあなたと離れることは無い

あなたは 私のこころの中にいるのだから