私は保守系のメディアを視聴することが多いのですが、LGBTQに関してよく目にすることが多いです。

利権絡みのLGBTQ政治活動や法案についてはまあ何とも言えないですが、男らしさ・女らしさの社会的な一律で無意味な押し付けが減ってゆくことや、男らしさ・女らしさを絶対視したり、逆に否定したりすることなく、むしろ自由な意志で大切にしたり、更には囚われることなく生きてゆける社会になってゆくことは望ましいと思います。

ちなみに私自身もLGBTQです。

ただ性自認や性の多様性を巡って、日本も世界も今とても混乱しているというふうに見えてしまいます。

これからの時代は、今まで以上に主観的な性別(=心の性別)と客観的な性別(=体の性別)を分けて考える必要があるとどうしても感じてしまいます。しっかり二本立てで捉え、しかもその2つの側面の互いの違いを明確にすべきだと。

そして、どういう場合に主観的な性別が基準にされるべきなのか、どういう場合に客観的な性別が基準にされるべきなのかについて、社会的にこれから合意がなされてゆくべきで、実際になされてゆくでしょうが、それはおかしな内容のものではなく、合理的なものでなくてはならないと思います。

例えば公共のトイレやお風呂は、体が関することなので客観的な性別を基準にすべきなのは自明な事でしょう。

または競技スポーツで、体が男性で心が女性のアスリートが一般の女性選手たちの中で優勝しても、私はあまり感銘を受けません。心と体を混同してしまっているからです。主観的な世界と客観的な世界が混同されているからです。

個人の中で主観的な性別と客観的な性別が一致していようといなかろうと、そういう場合では、客観的な性別(=体の性別)に従うべきだと思います。

確かに心と体には(客観的な側面と主観的な側面には)同一性が生じるというのがいわゆる「マジョリティ」であり、そうでないケースを尊重するというのがいまの流れなわけですが、同一性が生じている場合にもいない場合にも、異なる側面を分けて考えること、そして混同しないことが、本当の多様性やマイノリティ(そして勿論マジョリティ)の人権のためにも、今はなりより大切と思うわけです。



追記:

自分で記事を読み返して読まれる方に誤解を生じるおそれを感じましたので、少し書き加えます。

まず、心と体の同一性が生じないのがLGBTQという意味ではありませんので、誤解のないようお願い致します。

同一性が生じる場合と生じない場合では、生じる場合がマジョリティで生じない場合がマイノリティという意味です。

いまの世界で問題となっていること、なり得ることが、性自認や同一性に関わることなので、こういう書き方になりました。

性自認や同一性ということは、LGBTQ全体を見れば、単純なものではなく、多様です。

そして当たり前ですが、LGBTQについては性自認や同一性だけでなく、他の多くの要素が関わります。

念の為。