定期試験でのカンニングが見つかったことで教師数名から叱責された後、自死を選んだ学生の両親が「カンニングは卑怯者のすることである」と指導した学校を提訴したというニュースを見ました。


まず何がどうであっても、そのような事で命を落とすことになったということは、残念であるとしか言いようがありません。


訴訟した両親の行動についても、教師の指導についても、生徒のカンニング行為についても、色々な意見があります。私個人としては、カンニングは悪いと思いますが、指導の内容は確かに行き過ぎていると感じます。


この訴訟の行方を見守りたいですが、その結果はとても大きな意味を持つと思います。勝手な予想をすることは控えるべきかも知れませんが、今の時代の流れでゆくと学校側が敗訴するかも、という気がします。


両親の育て方、生徒本人の考え方、学校の指導の不適切さ、テストに追い詰められていたのかもしれない教育環境、短絡的といわれる判断…


自死を選ぶことになった「理由」が何処にあるのかについては上のように色々と多く考えられますが、それでは「責任の所在」は何処にあるのかという時にどのような考え方をするのかという、時代時代で私たちが共有する常識感覚が、変わろうとしているのかも知れません。


たとえこの訴訟で両親側が勝訴しなくても、現在という時期が、価値観がかなり大きく変わろうとしている時代であるということは確かだと感じます。


一概に何が正しくて何が間違っているかとは言えませんし、正しさは時代の流れの中で変化してゆくものだと思いますが、ものの考え方・常識といったものが大きく変わってゆく時期にあるのだということだけは実感します。


ただ一つ思うのは、責任を一つだけに求めてそれ以外の所には何かを改める余地はないのだという、「正しさの論理」に陥りがちだということは、昔から変わらないことなのかもしれない、ということです。