目からウロコの自然治癒力

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学校では教えない感動する日本史「塙保己一」②

こうして保己一は、晴れて国学者・萩原宗固の門人として、学者への道を歩み出すこととなりました。さらに保己一は、宗固の紹介で川島貴林(たかしげ)、山岡浚明(まつあけ)といった当代一流の学者たちに師事し、文学・医学・律令・神道など、幅広く学んでいったのです。

 

 そして約束の三年が経ちました。雨富は、保己一の努力を認め、今まで以上に保己一を支えるべく、陰になり日なたになり、物心両面でできうる限りの支援をしました。

 盲人の保木一が学問を深めていくためには、死ぬまで読み手を抱えておかなければなりません。そのためには、金銭を得ることが必要です。雨富は、保己一の官位を上げるために伴う多額の出費を厭(いと)いませんでした。

 さらに、身体の弱い保己一を心配する雨富は、旅をすれば丈夫になるだろうと考え、保己一二十一歳の春に、実父とともに伊勢神宮から京都・大阪を旅することを勧め、その旅費も負担しました。今まで書物だけで聞き知っていた地を、自分の足で歩き理解を深めた経験が、保己一の感性を目覚めさせてくれたのでしょうか。およそ二カ月に及ぶ旅行から戻った保己一は、雨富の期待通りに丈夫な身体となり、以後、学問への集中力が高まっていったのです。

 それから三年後、保己一は、江戸期を通じて第一等の国学者で、優れた教育者でもあった賀茂真淵に入門、「六国史(りっこくし)」などを学びました。入門してわずか半年ほどで真淵は亡くなりましたが、ごく短い期間でも、大国学者の真淵に直接学ぶことができ、さらに師のもとで素晴らしい研究仲間に出合えたことは、保己一にとってかけがえのない経験となりました。

 

⦿自らの使命を知る

 三十歳の正月のことです。保己一は十五年世話になった雨富検校の家を出て、旗本の高井実員(さねかず)の屋敷に住まうことになりました。

 高井家と保己一は、不思議な縁で結ばれた間柄でした。保己一が学問に精進し始めて間もない頃、『栄花物語』四十巻を保己一に与えてくれたのが、実員の奥方だったのです。はじめての蔵書となった『栄花物語』を、保己一は生涯大切にし、奥方への感謝を忘れませんでした。

 奥方にとっても、十数年ぶりに再会した保己一が、学者として立派に独り立ちしていたので。喜びもひとしおだったでしょう。

 高井家に移っても、保己一の学問第一の暮らしは変わりませんでした。粗末な食事に冬でも足袋無しで過ごして、少しでも蓄えができると書物を購入するという日々を送っていました。

 ただ、周囲の反応は、少しずつ変化していきました。保己一の学者としての名声が高まるにつれ、来客は増え、弟子入りを希望する者まで現れるようになりました。

 そんな時、保己一に転機が訪れます。保己一の噂を聞いた大名家から、藩で秘蔵している書物が正統な典籍かどうか調べて欲しいと、一種の鑑定を依頼されるようになったのです。あちこちに埋もれていた書物が、次々に保己一のもとに集まってきました。

 こうした状況になって、はじめて保己一は天命に気付くのです。彼は、村田晴海の『和学大概』に、次のように書かれていたことを思い出しました。

 「すべて学問をするには古(いにしえ)からの日本の国体を知らねばならない。国体を知るには古書の研究が必要であるが、そうしたことを好む人々が少ないために古書が失われて、百年もたったら全く跡形もなくなってしまうだろう。これは太平の世の恥である。誰かこれを研究して後の世に残したなら、それこそ国の宝となるでろう」

 保己一の心に、使命感がわき上がってきました。古書や古本の保存研究こそ、まだ誰も足を踏み入れたことない事業であり、前人未到のこの事業こそが、自分の為すべき仕事ではないか、と。

 寺院や神社の文庫に入れられたり、大名の書庫に入ったまま、多くの人の目に触れられることもなく失われていく書物や手紙。これらを一冊の本にまとめ、新たに版を起こして出版すれば、大いに後世の人々の役に立つはずです。そして、これほど保己一にうってつけの仕事もないでしょう。

 天命とは、探し求めて手に入れるものではなく、目の前のことに全力で取り組んでいくうちに、やがて扉が開き、導かれるものかもしれません。いずれにしても、保己一のように、人が喜んでくれることの中に、自分が好きなこと、自分の才能を生かせる道を見つけられた人は、幸せですね。

 

 この後、保己一は天命に従い、古書や古本の保存研究に邁進していくことになるのです。彼は叢書の名前を『群書類従』と決め、安永八(1779)年、三十四歳の時に編纂をはじめました。当然、保己一ひとりでは手に負えませんから、門人たちの協力のもと進めていきます。

 『群書類従』では、価値ある古書の群れを系統的に位置づけ、「神祇(しんぎ)」「帝王」「補任(ぶにん)」「系譜」など二十五部に分類しています。例えば物語部には『伊勢物語』「 竹取の翁の物語」、日記部には『和泉式部日記』『紫式部日記』、紀行部には『とさにっき』『さらしな日記』、そして雑部には『枕草子』『方丈記』から聖徳太子の『十七箇条憲法』まで、私たちが古典古文として習う多くの書物が収められています。

 

⦿地道な努力

 『群書類従』の収録文献数は、千二百七十種以上。これだけの文献を集めるのに、保己一はじめ門人たちは、血のにじむような苦労をしました。

 例えば、平安初期にまとめられた『日本後紀』。行方知れずになっていた四十巻の一部が、京都にあるらしいと伝え聞いた保己一は、門人の稲山行教(ゆきのり)を京都に派遣します。行教は京都中を探し回って、ようやく三条西家にとびとびの十巻があることを突き止めました。けれども、当時は秘本・珍本の類は「他見をを許さず」といって、容易に見せたり筆写させたりしません。

 そこで行教は策を練り、三条西家の家司(けいし)と酒友達になりました。親しくつきあううちに、家に泊めてもらえるようになり、そういう晩には、書物を夜の間借りて読むことを許されました。彼は泊まりに行くたびに、夜通し秘かに『日本後紀』を書き写し、ついに三条西家にあった十巻全部を写しとったということです。

 『日本後紀』は、『日本書紀』に始まる我が国の六つの代表的な国史「六国史」の一つですが、保己一の志とこの門人の熱意がなかったら、現在のような形で伝わらなかったかもしれません。

 

 そのようにして集めた文献について、保己一と門人たちが原本・写本の綿密な吟味、厳正な行訂を加えた上で、印刷していくわけですが、現代のような便利な機械はありませんから、すべて版木で行います。専門の職人が、一枚の板に二十字×十行を一ページとして、左右二ページを逆向きに彫っていきます(これが四百字詰めの原稿用紙の基となったといわれています)。彫った後の文字の修正は、その部分をえぐり取り、別の木片に彫りなおしたものを埋め木するのです。版木に墨をしみ込ませ、二回目の墨をぬった上に和紙をのせ、竹の皮で滑りをよくしたバレンという用具でこすって、印刷していきます。

 保己一らは、出版に向け気の遠くなるような地道な作業を重ねていきました。そしてついに天明六(1786)年二月、構想から七年、保己一は鎌倉の説話集である『今物語』を刊行し、上々の評判を得ると、この『今物語』を見本版として、『群書類従』の広告文を作り、予約の募集を始めたのです。

 この頃から、保己一の活躍の場は大きな広がりを見せます。『今物語』の刊行と相前後し、水戸藩の彰考館に招かれて、『源平盛衰記』の校訂、続いて『大日本史』の校正に携わりました。

 さらにその後、保己一は、幕府から座中取締役に任用されます。これは、座の特権を濫用する盲人社会の倫理粛清を目指しもので、保己一でなければ果たし得ない大改革が、彼自身の手に委ねられたのです。

 

⦿苦難を乗り越えて

 

 こうして、多忙を極めながらも、活気に満ちた日々を送る保己一。そんな彼に、突然、悪夢が襲いかかります。寛政四(1792)年七月、麻布あたるから出火した火の手が広がり、番長にあった保己一の自宅が全焼したのです。

 風の様子から危険を察知した保己一は、早めに門人たちに避難を命じたので、みな無事でした。けれども、「群書類従」の出版のさなか、家の中には、今まで苦労して集めた書物