とうとうチュニジア滞在最終日。

 

 夕方頃には空港に行かないとならないので、最後は首都チュニスをぶらぶらすることにした。

時計台がランドマークのブルギバ通りは石畳と並木道に彩られたメインストリート。所々にオープンカフェが広がり、地元の老若男女が何をするわけでも無くそのパラソルの下に腰掛け、道行く人をただ眺めながら雑談している。トランジットのみで実際降りてはいないが、映像等で見るパリの風景に近い気がするのはフランス統治の影響以外にあるまい。そんな彼等の視界に遠い異国から来た僕達が映るや、コンニチハ、なんて声が飛ぶ。意外とコンニチハを知ってるんだなと、こちらもいい気になって挨拶を返そうかと思うと、次に続く言葉は「カラテ、アチョー!」だ。何十年経っても変わらない東アジア人へのイメージなのだろう。「ニーハオ」、「ジャッキー・チェン」、「コナン」、「ナカタ」、「オッパンガンナムスタイル」といった反応に困る声かけには悪いけど無視。コンニチハと言いながらその後に「シノワ? ジャポネ?」なんて聞かれるとガックリくる。アラブの国々が親日的なんて言われることもあるが、彼等が共有する反欧米感情の範疇外だという程度であって、日本自体の認識なんてこんなものなんだな、と感じざるを得ない。その一方で日本人を含む異国からの旅人に対してずば抜けて親切な所こそ彼等の魅力であり、親日かそうでないかの尺度はあまり意味を持たないのであろう。


 通りの一郭にはジャスミン革命の発生地点という看板が飾られている。

三年前、この通りは民主化を求めるデモ隊が埋め尽くした。元々は近郊都市で露天商をしていた青年が警察から酷い扱いを受け、抗議の焼身自殺をした事件がきっかけとなり、日頃の高圧的な国家権力や蔓延する腐敗に対する人々の怒りが爆発。チュニスで始まった抗議の声は瞬く間に全土に響き渡り、1987年のクーデター以来20年以上軍事独裁を続けてきたベンアリ政権は崩壊した。軍系企業だけが富を独占できる仕組みを作った上に、それら企業のトップを一族で支配するようになったこの大統領は、国民からはもちろん、頼みの軍からさえも見放される形となった。この流れが周辺国にも広がり、かの「アラブの春」へと発展していく。

 

 フセインやカダフィみたいに暴君を地で行くような露骨な独裁者が目立つものの、アラブ諸国のほとんどが大なり小なりの独裁国家。チュニジアと言うと欧米とも関係の良い観光立国といったイメージが先行しがちだが、こうした比較的緩い独裁と見られる国ほど国際社会は見逃し易い。ただアラブの中では比較的人々が声を上げ易い環境だったのは確かなのかも知れない。

 僕もこの一連の流れは好意的に注目していたが、正直ここまで事が進展するとは思っていなかった。とは言えまだまだベンアリ後の国作りを手探りで始めた段階に過ぎず、民主化には辿り着けていない。革命に立ち上がった人々は人数こそ多かったが、主導した小規模の学生グループがまとまった政治勢力として組織化することも無く、ベンアリ体制下で辛うじて活動していた野党や海外亡命組織等経緯の異なる民主化勢力間の結束も立ち遅れた。結果、総選挙に勝利して新政権を立ち上げたのは、アンナハダというイスラム原理主義政党だった。エジプトを中心に中東世界に広いネットワークを持つモスレム同胞団のチュニジア支部的な政党だ。同じくアラブの春で独裁を倒したエジプトでも革命後に威勢がいいのはイスラム勢力ばかり。単純に組織力ゆえか、まだまだ民主主義の概念が浸透していないためか。結局彼等が政権を取った後も生活苦や失業問題は改善せず、イスラム重視は進めど民主化は進まず、頻発するイスラム過激派のテロ(政治家暗殺)を抑えようという姿勢も見せないため国民の支持は失いつつある。ベンアリ政権を見限って民主派側になびいた元首相達が離散した学生達に代わって一つの勢力を作る動きがあるようだが、僕達のような通りすがりにできることは、少しずつでも民主化や国内の問題が良い方向に改善してほしいとただ願うことぐらいだ。

そもそもこのオープンカフェに集う人々が、戦いに勝利して自由と平和を満喫しているのか、それとも仕事が無くここで時を持て余しているだけなのかすらわからないのだから。