翌朝、枕元のリモコンをピっと押すと、自動的にカーテンが開き、壁一杯の窓から眩しい光が差し込む。うへぇ~、何だかスゴイ所だなぁ、と思いながら遥か下に見える台中の街を見渡す。出だしこそゴージャスであったが、朝食はとりあえず昨日台北駅で買った食べ残しのパンである。ま、自室でゆっくり食事というのもいいもんだ。

 

 

 さて、今日からの台中観光は是非行ってみたい所があった。ホテルの前でタクシーを拾い、約20分で到着した郊外の集落は「虹の村」と呼ばれている。タクシーにはここで待ってもらい、早速村に足を踏み入れる。

 村の前にはちょっとした公園があるのだが、おびただしい数の観光客に埋め尽くされていてびっくり。村の見学を終えてヒマを持て余した観光客とその子供達が夢中になって遊んでいた。しーちゃんも遊ぼうとしたが、大人のトレーニング器具のような遊具だったり、滑り台の階段も急だったりでちょっと尻込みしていた。やはり公園の遊具一つ取っても日本と外国では違うみたいだ。とりあえず僕達の目的はここではない。不思議な村に入ってみよう。

 

 そこは元国民党兵士を中心に作られた村なのだが、そこに住む黄さんというプロの画家でもない男性が、自宅の壁にカラフルかつ独特な絵を描いているうちに、キャンパスはやがて周辺の家々へと広がり、いつしかここは「虹の村」と呼ばれるようになった。台湾映画の舞台になったこともあり、最近台中における人気観光スポットになりつつある。

 

 公園のすぐ目の前にある二、三軒の家の壁という壁は赤、青、緑、黄色等の原色で染め分けられ、その上には何やら不思議なキャラクターや動物の絵が所狭しと描かれている。幾何学模様を背景に猫や鳥ばかりがいたかと思うと、異形の人物(怪物?)、現代の子供、中国の古い神様、有名人の名前を冠しながらも全く似てない人物等々、それぞれ意味不明ながらも自己主張だけは伝わってくる。

 

大勢の観光客はそれぞれ何か気にかかる絵の前に立って記念撮影に勤しんでいる。特に現地では何か意味があるのか、単に縁起がいいからか、中国の神様の絵の前では撮影する人々が後を絶たない盛況ぶりだった。

 

一つ一つは決して上手な絵ではない。だがここまで徹底的に描いて、描いて、描きまくられると、その行為自体が誰にも真似できないアートと化しているように感じる。今や一人の男が作り上げた帝国と言っても過言ではない。そんな黄さん、村中の家にこれだけの絵を描く際、描かれたよその家の人はどう思っていたのだろうか。今や「虹爺さん」という愛称まで持つちょっとした有名人となっているが、昔はその辺どうだったのだろう。

家と家の間の小さな路地に入ると、突き当たりがやけに賑わっていた。そこはお土産売り場であり、売り子達の真ん中には、これら全ての絵の作者である虹爺さん本人が座っていた。テーブル一杯に壁画をデザインした絵葉書やら、Tシャツやら、ビーチサンダルやらが売られていた。これらに描かれている絵はどこかきれいきれいしていて、原作をデザイナーがアレンジしたような感じ。たまたま僕達が土産の物色でもしようかと人混みの中に近付いたその時だった。虹爺さんがニッコリ微笑みながら手元にあるカードを二枚しーちゃんに手渡してくれた。この混雑の中でたまたま目が合ったようだ。作者ご本人から直接カードを頂けたなんて、しーちゃんラッキーだったかも。古代の土偶か、岡本太郎の絵を彷彿させるような、顔のある太陽の絵が描かれたカードであった。他にも子供は一杯いたが、特にみんなに配っているわけではないようだった。爺さんの座る脇にあるカンパ箱に小銭を入れれば、爺さんと写真も撮れるようなので、記念に一緒に撮らせてもらった。この不思議な村や彼の作品についていろいろ聞きたい気持ちも最初はあったが、この混雑な状況下、撮った後にお礼を言うぐらいしかできなかった。

 

しかし村という割には爺さんの絵で彩られた家はものの二、三軒。意外と小規模だったなと思っていると、工事中立入禁止の札と金網で仕切られたエリアがあり、絵の村はその金網の向こうにも広がっているようだった。改修工事だからここから先は見ることができない。もっと散策ができるのかと思っていただけに少しがっかり。最近、台中市政府がこの村保存のための支援に踏み切ったらしい。改修工事もその一環なのだろう。

台湾に来て気付いたこと、意外と朝が遅い。お店や観光地はほとんど軒並み10時半から営業を始める。そんな中、いつでもオープンであるこの村は早朝から始まる観光ツアーにとっては貴重な場所なので、どのツアーもまず最初にこの村へやって来るのだ。大混雑するわけである。

 

 再びタクシーに乗り込んで向かったのは「無為草堂」という茶芸館。池のある庭園を見ながら中国茶を楽しめる空間ということを事前に知り、行ってみたかったのである。古風な店内に入り、池沿いの席を希望した所、入口入ってすぐにある座敷スペースを案内された。靴を脱いで上がる畳席が左右二区画ずつ分かれていて、奥の扉の向こうに池があった。座敷のうち一か所には日本人の婦人二人連れが先客としてお茶を飲んでいた。

 手前の座敷にとりあえず腰を降ろすと、英語も日本語もカタコトの小太りな女性店員が現れ、メニューと一緒に中国茶やこの店のコンセプト等が日本語で書かれた紙を置いて行った。とりあえず僕は一番好きな中国茶である鉄観音、なーこは凍頂烏龍茶、しーちゃんはハイビスカスティー(彼女の言葉を使うと、「冷たいお茶ジュース」)を注文。しばらくすると店員が小さなコンロを持って来て、急須のお湯を沸かし始めた。テーブルの上にはコンパクトな茶具。そして紙コップに入った見慣れぬ粒。どうやらこれは中庭の池にいる鯉用の餌らしい。とりあえずお湯が沸くまでの間、店内を少し散歩。座敷奥の扉を開けるや、いきなりバシャーン!と水柱が上がる。どうやら先客の日本人が大量に餌を池にバラまいたので、鯉達が一斉に飛び上がったようだ。池を囲む回廊を渡った向かいは中国伝統様式の東屋となっており、部屋には古い時代の家具や骨董が並べられていた。

その昔は由緒ある家だったのだろうか。部屋の近くに個室席が数か所あったが、僕達はなぜかそこには通してもらえなかった。窓から池をすぐに眺められるいい席なのだが。その後台湾人の家族客がそこへ案内されていた。この茶館では昼食も出しており、昼食込みの客はこうした個室で食べられるのかも知れない。回廊ではしーちゃんが「おさかな、おさかな」と言って鯉に餌をまいていた。鯉のいる水面からは上品にチャポン、と慎ましやかな音だけが響く。まるで板に付いてるようなまき方ではないか。ま、楽しんでくれればそれでOK

 鯉との戯れを終えると、ちょうどお湯が沸いたので、茶葉の入った別の急須にお湯を移し替え、茶葉を洗浄する意味で一度目のお湯を捨てた。続いて細長い筒型の湯呑にお茶を注ぎ、一呼吸してからもう一つ対になっている小さな湯呑の方にお茶を移し替える。

小さな湯呑のお茶は三口で飲み干し、筒型の湯呑の方は残ったお茶の香りを楽しむ。厳密にはもっと細かなステップがあるが、中国駐在時代に茶具まで購入した僕はとりあえずその辺ぐらいまでは心得ていたので、伝統建築と庭園の心地良い雰囲気の中で何杯かその黄金色の中国茶を楽しむのだった。それにしてもこの店、日本人客が多い。先客が帰った後に来た若いカップル、そしてその後に来た中年の男女連れも日本人であった。畳部屋だからここに連れて来られるのか、台中では日本人にも有名なスポットなのか。

 

 そろそろお腹が空いてきた。昼食を食べに行くとするか。

 

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大変ご無沙汰しております。旅もご無沙汰だったのですが二年も更新していなかったんですね。今年3月、台湾旅行に行ってきました。旅行記新シリーズを始めたいと思いますのでまたどうぞよろしくお願いいたします。

 

上海に駐在していた時、旧正月の連休で台湾を訪れた。ほとんどのお店や名所はクローズし、駅周辺も外国人労働者以外ほとんど人気の無い台北に一人ポツンと過ごした日々。コンビニでおにぎりを買い、総統府前のベンチで一人頬張りながら、こんな所で一体何してるんだろう、と自問自答しただけの旅。周囲の友人に台湾好きが多い中で口にはしづらかったが、これまで訪ねたアジア40数カ国の旅の中、僕の中で最も楽しめなかった国となってしまった。僕はこの国の楽しみ方を知らなさ過ぎた。旅の終盤、夜明け前から一人阿里山を登頂し、霧の中から眩しく輝くご来光を見ながら次回来る時はもっと楽しんでやる、とリベンジを誓ったのは民国89年、つまり2000年の出来事だった。

 

とうとうあれから十数年の時が過ぎ、家庭を持つ身となった。子供も生まれたので、2013年のキルギス、カラカルパクスタンの旅を中締めにアジア旅も控えていたのだが、今年職場でちょうど勤続休暇を頂けることになり、家族初の海外旅ということで、台湾リベンジ再訪プランが沸き上がったのだった。今年で3才になる娘、しーちゃんは台湾どころか、ここが日本である認識すら持っていないし、まだグルメや観光を楽しむには早い。そして外国語が全くNGの妻、なーこ。この二人と一緒にそれぞれが楽しみたいスポットをまとめ、プラン実現に向けて力を合わせる。これまでの一人旅とは全くスタイルが異なるとは言え、家族での旅行もまたある意味新たな旅への挑戦ではないか、そう思ったのだった。

 

 朝6時に起床。しーちゃんも一応起きるが当然まだ眠く、ギャン泣き状態から一日がスタート。羽田空港までのエアポートバスの道中はとりあえず順調。幼児からすればいつまで待つのか、どこまで歩けばいいのか、そもそも目的地に着いたのか着いていないのかも想像つかない中で乗り継ぎをこなし、更に台北行きの飛行機の約三時間、おとなしく座っていてくれたことに拍手である。最近ディズニー映画にハマっているので、機内上映されていた新作「モアナと伝説の海」が彼女の心を掴んだことに随分助けられた。

 午後3時頃、台北松山空港に無事到着。三人それぞれが持つ最新のパスポートに初めての入国スタンプが捺された。荷物を受け取り、通関ゲートを抜けるや否や、のど渇いた、お腹すいた、お菓子食べたい、帽子かぶりたい、パズル(自宅から持参した)で遊びたい、バギーはヤダ、抱っこ! ガマンした分だけしーちゃんのワガママ大爆発。荒れる彼女をなだめ、何とかタクシーに乗り込んで一路台北駅へ。今回のプラン、最初の訪問地は台中なので、ここがゴールではない。これから高速鉄道に乗るのだ。駅到着時に支払った台湾ドルの中に、僕が前回訪台した時に手元に残った100ドル札が混じっていたのだが、これはダメと突き返された。あぁ、早くも時代の変化に直面。

 

 駅に入ると高速鉄道を意味する「高鉄」と書かれた窓口を発見。長蛇の列に並ぶ中、しーちゃんが力尽きて眠りだしたので、なーこが抱っこし、僕が全ての荷物を担ぐことになる。「妊婦・障害者専用」という窓口の列は空いていたが、「幼児連れ」とは書いてないからやっぱりダメだよね、と普通の列の最後尾に並ぶ我々はやはり日本人。並ぶこと約ニ十分。順番が来るまであと二人になったその時だった。急に駅員が現れて大きな声で言った。

 「ここは予約券の窓口なので、当日券をお求めの方は地下の専用窓口に行った方が早いです。」

「当日券」という言葉につい反応し、この列では当日券は買いにくいのかと判断してしまった僕、思わず列から離れ、地下の窓口へ足を進めていた。結局そちらの窓口もそこそこ行列ができており、更に10分か15分並ぶことに。今思えば、あのまま待っていればすぐに順番が回ってきたものを、ちょっと痛い早とちりであった。ずっと娘を抱っこしているなーこには負担をかけてしまった。一番早い午後5時半発の台中行きは少し混んでおり、三人並んで乗りたいのなら、次の620分発がお勧めだと窓口のお姉さんが親切に教えてくれたので、最終的にベストな切符を入手することができた。ま、最初の窓口は予約用だったわけで、僕達があのまま並んでいたとしても、当日券はここじゃない、と突っぱねられる可能性もあった。結果で見ればこれでよかったのかも知れない。

 

 しかしなーこが熟睡の娘の対応をしている以上、僕は背中にリュック、肩にはバッグ、右手に大型のトランク、左手に折りたたまれたバギーという状況。重い物で両手が使えない中、更に車中で食べるパン類や飲料水を購入しなくてはならず、正直疲れは限界に来ていた。これまでの旅では体験したことの無い別のハードさを実感。ともあれ高速鉄道の待合ロビーまで何とか移動でき、やがてしーちゃんも目を覚ます。肩車などしてあやしているうちに6時が過ぎ、発車時間が近くなった。エスカレーターでホームに降りた我々一行、わかりにくい乗り口の場所を近くの人に聞きながらとりあえず無事台中行きの鉄道に乗り込む。

この高速鉄道は新幹線の車両技術を取り入れていることから、別名「台湾新幹線」と呼ばれている。その別名は早くて快適なイメージを日本人に与えてくれるものであるが、もし新幹線と同じ仕様なのであれば一点不安な部分があった。大きい荷物を置ける場所が少ないことである。もし日本の新幹線であれば座席が狭いのでトランクなどは足元に置けない。乗り口近くの荷物置き場は早い者勝ちですぐに埋まってしまうし、座席上の網棚では幅が狭くてトランクは置きにくい。しかも雰囲気的に自分の座る場所の真上スペースしか使えない。しかし乗車してすぐにその心配は無用なことがわかった。前の座席との距離が確保されているため、トランクを十分自席スペースに置けるのである。やれやれ、楽ちん、楽ちん。なーこもしーちゃんもゆったり座れてご機嫌だった。

 列車は無事台中駅に到着。しかし高速鉄道の台中駅、実はかなり郊外の烏日(ウーリ-)という所に位置しており、街の中心へはここから更にローカル線に乗らなければならない。実際この駅はローカル線の烏日駅と隣接しており、ここからローカル線台中駅に行くことが次の仕事だ。

高鉄台中駅の改札を抜けた先にズラっと並んでいたのは丸亀製麺に、大戸屋に、山崎パンに、ロイヤルホスト。お寿司屋さんもある。これでもかというぐらい日本食や日系レストランの数々。台中って、日本とそんなに密接なのだろうか。腹も空いていたので思わずフラっと入りたくなったが、台湾に来て最初の食事が日本食というのもナ、という思いがブレーキになった。とりあえず隣接する烏日駅の場所へ歩いて行くと、巨大な段ボールで作られた汽車やロボット、お寺までもが飾られたスペースがあった。

段ボール紙工作の博物館があり、大型作品を館外、つまり駅の連絡通路上に展示しているみたいだ。博物館のロケーションにもびっくりだが、更に驚きはしーちゃん。これら作品の中から大好きなトトロを見つけたかと思うと即座に駆け寄り、その隣にちょこんと立って、写真を撮ってくれとアピールするのだった。

 切符売り場は人がいるのかわからないぐらいガラガラ。地元民はみんな磁気カードを持っているから紙の切符を買うことが無いためであろう。ともあれ台中駅方面のホームに出ると、停車していた電車は何と満員状態。どうせここから三、四駅ぐらいなはずだし、これをやり過ごして次の電車に乗ればいいや、と思っていたのだが、まだ出発する気配はない。ひょっとして頻繁に出る路線ではないのだろうか。不安になったのでその満員電車にそっと乗り込む我々三人。あと数駅の辛抱だ、と思ったその時だった。小さい子供を連れていたためか、席に座っていた二人の女性が突然立ち上がり、僕達に譲ってくれた。この混雑の中、予想していなかったありがたい展開。長旅の疲労もあったので、深く感謝して席に座らせて頂く。そして台中駅に到着したのは出発して20分後であった。

 

 ホテルまでの移動手段はタクシーしか無いので、タクシー乗り場があるという地下駐車場まで降りる。エレベータで降りると、そこはただの車のジャングルであり、どこからタクシーに乗るのか全然わからない。たまたま近くにいた中年女性に聞いてみると、そこの人達は日本人だと思うから、聞いてみたらと反対方向に立つ三、四人の女性達を指差した。ほう、日本人かと思ってその人達に日本語で声をかけると、返事はどうもぎこちない日本語だった。何だ、台湾の人じゃないか。雰囲気で気付けるはずだったが、ここまでの道中の疲れか、地下駐車場の薄暗さゆえかすっかり日本人だと信じてしまった。それにしてもいきなり日本語で声をかけた相手がちゃんと日本語できるなんて、すごい偶然。結局日本語を話せる女性達も乗り場はよく知らず、タクシーが通り過ぎたら運転手に聞いてみたら、とアドバイスしてくれた。次の瞬間、うまい具合に一台のタクシーが目の前を横切り、すぐに一時停止した。よし、捕まえようと思ったその時、最初に声をかけた中年女性の方が一足先に運転手の方に駆け寄り、この人達を乗せてやってくれ、と僕達を指しながらタクシーを引き止めてくれた。きっと乗り場は別の場所だったのだと思うが、運転手は快くこの場で僕達を乗せてくれた。親切な彼女達に謝謝、とお礼を言って乗り込んだその時、僕達はハっと気付いた。この中年女性、さっき電車で僕達に席を譲ってくれた人だったのだ。同じ人に二回も助けられてしまったのか。気付かないで声をかけていた自分がちょっと恥ずかしかったが、本当に感謝、感謝である。

 

 ホテルに向けてタクシーを走らせていたその時、パパパン、と大きな爆竹の音が鳴り響いた。しーちゃんもびっくり。今は旧正月ではないし、一体何だろう。しばらくすると色とりどりの旗を掲げて踊る人々を先頭に、中国風の獅子舞やお神輿のようなものを担いだ一団が対向車線の道路を普通にパレードしているではないか。最後尾には荷台スペースに小劇場を設けたトレーラーが続き、中には京劇のような装いの人々がいた。地元のお祭りだろうか、旅芸人の一座だろうか。運転手に聞いてもわからない様子で結局謎のまま。

 

 駅を出て30分近く経とうとした頃、群を抜いた高層ビルの前でタクシーは停車した。今晩の宿であるホテル・ワンは台中最高層の建物だとか。本来の金額だったら到底宿泊先として選ばない種のホテルであるが、たまたまキャンペーン中だったので中級ホテル並みの価格で予約できたのである。チェックイン時のフロントのお姉さんも明るくて親切で、42階の部屋まで案内してくれた。台中の夜景をじっくり楽しめる壁一杯の出窓と自動開閉のカーテン。先程の花火がここから確認できるが、かなり低い場所で繰り広げられている所、このホテルはどれだけ高いのだろう。

 

 ここにずっといると居心地良過ぎてそのまま眠りについてしまいそうなので、夕食でも食べに行くことに。はて、ここに来るまでにどこか大衆的な食堂があっただろうか。まだそれ程遅くはない時間帯とは思うが、歩く人はまばら。そもそもこの巨大ホテル以外には公園のような所しか無いし。今晩は残ったパンか、高いお金払ってホテルの食堂で食べるしか無いのかな、と思いかけたその時、なーこが大通りの車道を挟んで向かい側に飲食店らしき看板を見つけた。よく見ると「魯肉飯」と書いてあるではないか! 台湾のソウルフード、魯肉飯。以前台湾を訪れた時は春節で飲食店の多くが閉まっていたためにありつけず、初めてそれを食べたのは結局渋谷の台湾料理屋だった。本場の魯肉飯を初日に食べられるなら、最高のスタートじゃないか。僕達は通りを渡り、店の中に吸い込まれていった。

 空いている席を一か所見つけて座ると、店員がメニューと注文票を持って来た。欲しい料理に必要数を書き込む注文票。香港の飲茶屋とか、上海の火鍋屋で見られるが、台湾では飲食店全般で使われているようだ。とりあえず僕は魯肉飯、なーこは豚肉飯、それに蝦巻を注文した。やって来たご飯は量こそやや少な目だったものの、かき混ぜると肉汁が茶碗のご飯一杯にじゅわっと広がるので、量的にこれが黄金比率なのだろう。柔らかくて口溶けよい肉に大満足である。

しーちゃんの分を取り分けようとしたが、「白いご飯が食べたい」と言ってあんまり食べなかった。一方で蝦巻は気に入ったらしい。ぷりぷりの蝦をくるんだ長細いシュウマイのような感じで、これもまた当たりであった。飲み物は持参のペットボトルの水を飲んでいたが、特に何もお咎め無いのはアジアならではのおおらかさ。僕は魯肉飯をもう一杯おかわりししまった。初日の夕食で路頭に迷いかけた所、なーこ、ナイスな店を見つけてくれた。

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 翌朝、民家の窓から射す光に起こされて外を眺めると、穏やかな青空が見えた。最後のメインイベント、念願叶って天気も味方してくれるようだ。

  早速僕達はパロ郊外のタクツァン僧院のある山へ。一部が削れて断崖絶壁となっており、一見険しそうな山であるが、実際歩いてみると緑の多いなだらかな山道 であった。途中途中に祈願の旗「ルンタ」やマニ車のお堂、澄んだ水が勢いよく流れる小川や滝があったりで、昨年ネパールに行った時のヒマラヤトレッキング にも雰囲気が似ており、気分も快調。そして何より他人のペースに惑わされず、徹底的に自分のペースで登ることを心がければ消耗は最小限で済むというネパー ルでの教訓を思い出したので、リラックスしながら登った。ジグザグの山道に沿って歩くのがイヤなのか、どんなに険しくても真っ直ぐ突っ切って登るインド人 の親子。何やら仏教的な旗や数珠を手にワイワイ賑やかに登って行く台湾の仏教団体らしき一団(R子 さんはいつの間にかこの一団とも仲良しになっていた)。そして聖地巡礼ゆえか美しいキラ姿で登る若い地元の母娘もいた。やはりヒマラヤは世界中の人々を呼 び寄せる場所なのだろう。山登りが苦手な人向けにロバに乗って山頂近くの休憩所まで行くサービスもあるらしい。シンゲさんによると、以前超巨漢の米国人女 性がロバに乗って山頂に行こうとまたがった所、あまりに重量過ぎてロバが道中で押し潰され、そのまま死んでしまったという笑えないエピソードもあるそう だ。

 緑に包まれた山中をゆっくり登ったり、下ったりを繰り返していくうちに、やがて空の視界が開けてきた。

僧 院を目の前にできる休憩所に到着した。この建物も崖っぷちにあるのだが、目の前の深い谷を挟んだ向こう側の絶壁に目的地はあった。こんなにも垂直に張り付 いているのかと、思わず身震いしてしまいそうな寺院。ほんの僅かに出っ張った部分の上に建てられている。「タクツァン」とは虎の巣穴という意味で、かつて グル・リンポチェが修行の最終段階にふさわしい場所を求めて空飛ぶ虎の背中に乗っていた所、その虎があの絶壁に降り立ったという伝説から付いた名前であ る。実際空を飛んだかどうかは別としても、そういう背景でも無い限り、あんな場所に寺院を建設するなんて発想自体起こらないだろう。つい崖から身を乗り出 して見入ってしまうが、それで転落死した外国人旅行者もいるそうなので、気を引き締めてから寺院に向けて再出発するのだった。

  一見絶壁に張り付いた寺院で、そこまで行く方法が無いように見えるが、よく見ると絶壁を削って回廊や階段が作られていたり、吊り橋がかかっていたりして、 意外とスムーズに到着した。いざ来てみればそんなに怖くもなかったが、前進するにつれて岩と岩の間から本堂が少しずつ現れた時はダイナミックであった。山 門から先は撮影禁止。階段を昇って拝観した各部屋は全体的にシンプルな出で立ちであったが、壁も床も全てこの崖の形にぴったりはまるように作られており、 建築家の仕事に感服してしまった。洞窟をそのまま使った修行場もあり、奥まで行ってみるとお守りが売られていた。二平方センチぐらいの四角いプラケースの 中にグル・リンポチェの仏画が布に縫い込まれている。このケースの中には小さな経文も入っているらしい。ブータン最大の聖地のお守り、ご利益ありそうだ。 以降僕はこれを常に身に着けることになる。

何 だか岩の中の要塞のような聖地であったが、外に顔を出すと頭上には青、黄色、赤、緑、オレンジ等カラフルなルンタが運動会の万国旗みたく連なっており、青 空の下で音を立ててはためいていた。こんな場所で日々苦行を積む僧侶達も、たまにここから青空を見上げて、これらルンタの色彩や音から希望をもらうことも あるのかな。

 夕方、トレッキングを終えてクンガ家に戻ると、一階勝手口の方でクンガさんが何やらせっせと働いていた。黒く焦げた石を一つ一つ釜戸で焼いているのだ。

今晩、この家で石焼き風呂「ドツォ」を体験できる。どこの家にもあるわけではなく、やはりそれなりに裕福な家庭にのみあるため、たまに知人や友人、親戚等が使わせてもらいに来るのだそうだ。とりあえずレディーファーストで女性陣に先に入ってもらい、僕とO氏 はその後で入った。ドツォは二カ所あり、次の人がやって来る前に働き者の運転手さんがデッキブラシで浴槽の周りを洗ってくれていた。大きな木箱のような浴 槽には、人が浸かる大きなスペースと焼けた石を入れる小さなスペースが一枚の板で仕切られている。先程クンガさんが焼いていた石をこの小さな方のスペース に入れて風呂全体を温めているわけだ。シャワーや水道の蛇口、そして洗い場も無く、浴槽の外はむき出しのコンクリートの床なので、頭や体を洗う時は少し苦 労したが、滞在中はずっとシャワーだっただけに、トレッキングの汗や一週間の旅の疲れもここできれいに洗い流すことができた。

 その夜、夕涼みがてらO氏 と外を散歩したが、辺りは田畑意外何も無く、もちろん街灯も無いので、滑ってどこか沼にはまってしまったらまずいと思い、早々に家に戻ることにした。しか しこの家、呼び鈴は無く、ノックしても中の人に聞こえないようだ。さて、どうしたものかと困っていると、僕達のすぐ隣から扉に向かってニャア~、と叫ぶ声 が聞こえた。はっと足元を見ると、そこには散歩帰りらしきこの家の猫がいた。すると何と、扉の向こうから階段を降りて来る足音が聞こえ、運転手さんが扉を 開けてくれた。猫の方が経験豊富だったか。ホっとして家の中に入ると、先程の「ドツォ」のあった方からクンガさんとシンゲさんが談笑している声が聞こえて きた。ラジオもかけているようで、涼しい秋風と共にのどかなブータン歌謡曲も微かに聞こえてくる。至福の時間を過ごして下さいね。もちろん運転手さんも!

 翌朝、僕とO氏は最後の早朝散歩に出た。朝から元気に草を食む牛に挨拶し、田んぼの畦道を通って土手の上の道路に上がる。そこはちょうど地元の子供達の通学路となっていた。ゴやキラを着た小学生達が目の前を通り過ぎて行く通学風景。O氏はここぞとばかりに彼等を呼び止め、シャッターを切っていた。もちろん僕も便乗して一緒に撮影した。撮らせてくれを言われればみんなきちんと写真に収まってくれるが、他のアジアの国の子供のように撮ってくれと集まってくるわけでもなく、ややクールな感じがした。

 「もう十分でしょう。」

 「いや、あともう一人!」

O氏の気が済む所まで撮影をした後、クンガ家に戻ってご夫婦に挨拶をした我々一行は パロ空港へ向かった。空港着後、シンゲさんはゴの帯の辺りをたるませたポケットから「ハタグ」と呼ばれる白もしくは青色をした細長い布を取り出し、我々一 人一人に手渡した。これはチベット文化圏におけるフォーマルな場での挨拶だ。僕達は滞在中完璧な日本語でプロの仕事をしてくれたシンゲさんに感謝を込めて 深々と頭を下げてこれを受け取り、別れを告げた。

  飛行機に乗り込む直前の出来事。手荷物のセキュリティの所で、係員が僕の荷物の中にあった虫よけスプレーをなぜか怪しんでチェックを始めた。まるでスプ レーを初めて見るかのようにひっくり返したり、振ってみたりしながら不思議そうに凝視している。この時思わず噴射スイッチを押すや次の瞬間、隣の係員の顔 面に向けてシューっと浴びせてしまい、その場にいた人達は大爆笑。噴射してしまった係員、自分が笑われたと感じて悔しかったのか、顔を真っ赤にして僕の荷 物の中の物を全部取り出し、腹いせに厳格なチェックを始めてしまった。お蔭で僕だけがここから出るまでに10分から15分かかってしまい、待たせてしまった他の四人からは「Ling Muさ んだけまた怪しまれましたねぇ~」と笑われてしまった。通常なら機内に預けるぐらいの荷物なんて持たない主義なので誰よりもスムーズに空港を出入りできる と自負していたのだが、液体の規制を甘く見てスプレーを持ち込んでしまったことが行きも帰りも失敗であった。特にツアーの場合では荷物を預けてしまう方ス マートなこともあるのだな、と痛感した。

 

  かくして謎のベールに包まれた国の旅の前編が終了した。最近まで半分鎖国を行ってきたため、限られたメディアの影響から何となく古き良き幸せな村、という 印象だけが先行していたブータン。そんなブータンも今や史上最大の転換期を迎えたと言っていい。ただ斬新な反面いろいろな矛盾を抱え込みながら走り始めた 改革という感じは否めない。かつて絶対王政を敷いていた政権が国民を説得するように始めたトップダウンの民主化。パロ空港を拡張し、観光客を倍増させると 意気込みながらも依然高い外国人入国者へのハードル。伝統的価値観を最重要視しながら国語以上に英語が上手になっていく若者。そしてネットを通した外国の 文化や情報の流入。この激変を前に現在の環境をどう守っていけるのかが今後の舵取りのネックとなるだろう。経済発展よりも国民レベルの幸福を重視する政策 が世界的にお手本として注目されていることはもちろんよいことであるが、産業少ないこの国で福祉や教育を充実させるには、神秘のベールの向こうを見てみた いちょっとマニアな外国人観光客を収入源とする手段しか今の所無いようだ。しかしこれ、舵取りを一歩間違えるとこの国の神秘性は瞬く間に薄まり、マニアな 外国人が遠ざかってしまうのではないか。国民をより自由で豊かにしていくことと、この国の大切なものを維持すること。両者いずれも欲しいなら、どちらにも 偏り過ぎない穏やかな開放を続けるしか無いのだろう。かなり難しいと思うが、そこは仏教的中道主義を理解するブータン人ならうまく乗り切っていけるのか な、と少し期待もしてみたい。

 この改革の後のブータンがどうなっていくのか引き続き注目はしていきたいが、まだまだ自然や伝統的な部分も多く残っている不思議な王国という雰囲気は十分残っていたので、旅人としては今のタイミングに来てよかったのかな、と思う今回の旅であった。

                                                      (完)

読んで頂きありがとうございました!次回はもっともっと謎のベールに包まれたあの国のレポートを再開します。


 一行は山道を進む。この山よりもう数キロ北へ行くと中国との国境らしい。チベット難民がこの山を通って脱出してくることもあるとか。隣国でありながらブータンが中国と外交関係が無いことを初めて知った。

20セ ンチはありそうな巨大松ぼっくりが転がっているのに驚いたり、この辺りで見られる松茸摘みツアーや国花ブルーポピーを見るツアー等を考案したシンゲさんの 話に耳を傾けながらプチ森林浴を楽しむ。ここはパロ市内からちょっと離れた山間部。なぜこんな所にいるかと言うと、パロ旧跡観光の名所がこの辺りに多いか らだ。

最 初に訪れたのは、かつてのゾンを改造したタ・ゾン国立博物館。円柱形で六階建ての建物だが、フロアごとの面積はそれほど広くはない。ブータン初期王朝の時 代からの生活用品や仏像等が展示されていたが、この国に来てから毎日寺院を見学している僕達にはやや食傷気味だった。グル・リンポチェの像など、あ、また お会いましたねって感じ。この博物館で驚いたのは、ここ僕が幼い頃集めていた切手コレクションの中でたまたま持っていたブータン切手と同じものが展示され ていたこと。そして外国人の入場料が現地人の20倍であることが入口に大きく表示されていたことだろうか。

 見学後、引き続きもうしばらく山歩きを楽しんでいるうちに、やがて昔の砦の跡という遺跡に辿り着いた。遺跡と言っても17世 紀のものだそうで、他のアジアの国々の遺跡と比べれば古くもないが、多くが土と木で作られているので廃墟的な雰囲気は十分にあった。ここの近くに張られて いた一枚のポスターがちょっとびっくり。パロ市内のどこかのクラブで「マスカラ・パーティー」なるイベントが行われるというもの。ブータンにもこんなクラ ブがあってDJがいるんだな。それにしてもこの廃墟近辺に張ってあるとはシュールである。どんなパーティーなんだろう。

  経文や仏画がデザインされたルンタと呼ばれるカラフルな旗がそこかしこに結び付けられた橋。あまりに沢山の旗で両脇の景色がほとんど見えなくなっている。 旗と旗の隙間から微かに見えた向こう側に下校途中らしき学生達がやって来るのが見えた。僕達がちょうど渡り終えた時、彼等は対岸の袂の辺りで腰を下ろして いた。

ゴ の少年一人とキラの少女三人である。何をしてるの? と尋ねると、これから買い物に行くので、友達をここで待っているのだという。僕達は彼等に教科書やノートを見せてもらうと、全て英語であった。日本アルプ スみたく山と川と橋しか見当たらないのどかな村を行く着物のような服を着た子供が英語を完全に理解し、英米の最新ニュースさえも直接キャッチできてしまう なんて、もうこの世に秘境なんて無いのだな、と実感する。たまたま見上げた空は雲の間からいくつもの光が降りてくるような神秘的世界を描いていた。空さえ もあんなに秘境を演出しているのに…。

 その後僕達はこの地に仏教が伝来した7世 紀建立のキチュ・ラカンという古寺と、のどかなパロ市内のメインストリートを少し散策し、いよいよホームステイ先の家へと向かった。郊外のシャバ村。辺り は一面田んぼ。所々で牛が草を食む牧歌的な田舎風景。こんな風景に似合うのは昔話に出てきそうな藁ぶき屋根の小屋であるが、今回ステイするクンガ家はもち ろん伝統的な民家であるが、結構スケールが大きい。

ざっと窓を見ただけでも三階建てのようだ。ま、今回僕達のツアーはたった5人 だけど、通常ならもっと多いはずだし、それだけの収容能力を持った家がステイ先として選ばれるのだろう。庭先では猫や鶏が駆け回るのどかな雰囲気。白い壁 には巨大な男性器の絵が描かれていた。これは「ポー」と呼ばれ、ブータン各地の寺院や民家で見られる。子孫繁栄を象徴する縁起物だ。あまりの露骨な表現に 思わずギョっとして目を疑ってしまうが、実は他の国の民間信仰でも見られる描写。日本でも田舎の古いお店の神棚に飾られていたのを見たことがある。ブータ ン滞在が長くなるにつれ慣れてきたものの、我がツアーの女性陣がこれを見て、何の恥じらいも無くキャッキャと騒ぎながら写真を撮る様子だけはどうにも慣れ なかった。

  さて、我々はこの家の細くて急な階段を上がって、二階辺りの客間に通された。板の間にそのまま胡坐をかく形で一同座ると、この家のお母さんにチベット風の ミルクティーを振舞われた。底の部分に極彩色の民族文様が施された竹編みの皿には小さな豆のようなつまみもが入っていた。ここのお母さんもそうだが、ブー タンの中年女性はなぜか髪が短く、ヘルメットのように前髪を揃えたいわゆる坊ちゃん刈りの人が多い。シンゲさんによると、短い方が農作業等の仕事をしてい る時も気にならないから、ということだが、長い髪を持つ若い女性があの頭になるのは何歳ぐらいからなのだろうか。

(参考:ブータンの中年女性。ここで登場するクンガ家のお母さんではありません)


  泊まる部屋は男女別々の相部屋。荷物を置いた後トイレを借りた。教えられた一階の扉を開けるとすぐに下り階段があり、おっとっと、とよろけてしまった。こ の階段を降りた所はトイレと言うより馬小屋のようなスペース。床には藁が敷き詰められている。そしてなぜかこの部屋の隅に五、六段程の昇り階段があって、 便器はその階段を昇った所にあった。こんな構造のトイレは今まで見たことが無い。今でこそ水洗式だが、ひょっとするとかつてここで用を足した後、落とした モノはそのままブタ等家畜の餌にしていたのではなかろうかと、思わず推測してしまった。

 

 夕方、食事が始まる頃にこの家の主人クンガさんが帰って来た。60代 ぐらいの方だが声は太く、体もガッシリしていた。一宿一飯のお世話になる僕達が各自用意した手土産をクンガさんに手渡して挨拶している時、お母さんの手料 理が運び込まれたので、一同車座になって頂くことにした。今晩の家庭料理は比較的シンプル。イズィというトマト、タマネギ、トウガラシを塩で和えたサラダ のような料理とご飯がお皿一杯に盛り付けられていた。当然のことながらトウガラシは香辛料ではなく野菜としてガッツリ入っているので、見た目はマイルドな サラダだが、かなり辛い料理である。これまでブータン料理はホテルのバイキングの中のほんのオマケ程度に添えてあっただけだが、それでも既に何度かお腹に きていた女性陣は「ブータン料理、もうこりごり」といった雰囲気であった。クンガさんはその大きな手でガシっとイズィを鷲掴みすると、そのまま口に放り込 んで、うまそうに舌鼓を打つ。うまいぞ、と勧めるクンガさんに誰も応える勇気が無い一行。ここでひるんじゃ日本人の名が廃る、とまで思ったわけではない が、それでは僭越ながら、と僕が手を上げ、イズィを一握り口に運び、平然とした顔を保ちながら、うん、シメー(美味しい)、とゾンカ語で答えた。おう、コ イツ、なかなかやるじゃないか、とクンガさんは更にもう一掴み口に放り込み、続いて僕がもう一口、といった具合に、辛い料理ガマン対決のようになってし まった。表情とは裏腹に僕の口は辛さとしょっぱさが光の速さで大回転し続けている。そこに料理の味わいというものは無い。当然ブータン人相手に勝てる気は しないので、その後すぐにご飯の方に移らせてもらった。食後腹が騒ぎ出し、早々にあの馬小屋トイレに駆け込んだのは言うまでもない。

続 いて出て来たのは銀の輪っかが四カ所にはめられた黒い円筒形の水筒。中にはラクという蒸留酒が入っており、一杯ずつ振舞われた。我々一行の中には僕含め酒 に強い者はおらず、少しなめる程度ではあったが、辛過ぎる料理から解放されたことでクンガさんのお話に耳を傾ける余裕が出てきた。

  シンゲさんの通訳で聞いた話によると、クンガさんは何と元僧侶にして、元シャバ村村長。今の奥さんとは恋愛結婚だったそうで、そのため僧侶を辞めたとのこ と。戒律を破って女性とくっついたので僧侶をクビになったというイジワルな言い方もできるが、僧侶の地位を捨ててでも最愛の人を選んだ、という美しい言い 方もできる。ま、それはともかくとして、その後村長の職務に就いたクンガさんの働きぶりは評判で、多くの村人から今も尊敬されているそうだ。引退した今で も各自治体の村長会議という会合に呼ばれることがあり、先週もその会議出席で忙しかったそうだ。子供は六人いたが、全員結婚か進学でこの家を離れており、 今は夫婦二人暮らしの時間を楽しんでいる。

  話はそれるが、クンガ家に来てから大活躍しているのは何と運転手さん。お茶くみから食事の盛り付け、配膳まで、まるでこの家の住人かのように家中をあちこ ち駆け回って僕達の世話をしてくれている。今回参加したツアーを主催する日本の旅行会社の現地法人社長はシンゲさんであり、彼はその下で働く若手社員とい う立場ゆえ仕方無いのだろうが、頭が下がるのだった。

 

 食後、このホームステイのメインイベントは民族衣装の試着。男女それぞれ別の部屋に別れて、用意された衣装に挑戦だ。僕が手にしたのは赤とオレンジの縦縞ボーダーのゴ、O氏 は白地に細い黒の縞が入ったゴ。着付けをしてくれたのはやはり運転手さんだった。実物を羽織ってみたら裾は足元まであって意外と大きい。この裾が膝辺りに 来るまでたくし上げ、帯で固定する。この時お腹の辺りでゴを少し折り曲げてたるみをもった状態で固定すると、そのたるんだ部分がポケットのようになる。現 地人は出歩く時、ここに財布等貴重品をしまっているのだそうだ。そして最後は白い下地が出るよう袖を折り曲げて出来上がり。本来なら長い黒ソックスを履く と正装に近いのだが、そこはちょっと違和感があった。それにしても僕、和服より先にゴを着てしまうとは思いもよらなかった。

やがて女性陣が賑やかに登場。それぞれ緑、紫、グレーのキラを鮮やかに着こなしており、R子さんなんか、明日これを着てパロの街を歩いたら、30分以内に求婚されるんじゃないかと思ってしまうほど板についていた。それにしても女性陣、キラを着て出て来るまでに随分時間がかかっていたが、誰がどの色のキラを着るかを決める所でかなりの時間を割いていたのだそうな。僕とO氏はたまたま自分に近い位置にあったゴを着ただけだったので、ほぼ2秒で着る服が決まった。改めて男女の感性の違いにカルチャーショックを禁じ得ない僕であった。

  最後に我々はこの家で最も神聖な場所である仏間に案内してもらった。そこは日本人が普通に想像する「仏壇が置いてある部屋」なんてものではない。壁一面が 全て仏壇であり、グル・リンポチェを中心に六体の仏像が飾られ、その前に花やお供え物が左右均等に並ぶ。それ以外の壁には部屋一杯に仏画が描かれ、まるで 仏教的宇宙空間に迷い込んだかのよう。法事で訪れる僧侶のために用意された豪華絢爛な椅子や、祈祷の時に使われる太鼓も設置され、個人の信仰の空間と言う よりは、お寺の別院が民家の中に設けられていると言った方がしっくりくる規模だ。だがどの家庭もこうした豪華な仏間は一か所作っており、それによって功徳 を積む誇り高い行為となのだという。僕が印象的だったアイテムは、ろうそくの火で自動的に回転するマニ車、そして仏壇の隅っこで花瓶の役割を果たしている 猿の像だった。けなげに歯を食いしばってしゃがみながら、花を挿す器を抱えているそのユーモラスな姿は仏様以上のインパクトがあった。

 僕はこの聖なる空間で一つ深呼吸し、仏壇に向かって五体投地ではないが、日本式に手を合わせ、クンガ家の更なる幸せと旅の安全、そして明日の晴天を祈ったのだった。そう、明日はブータンツアー最後の目玉、聖地タクツァン僧院へのトレッキングである。

 ウォンディフォダンのハイキングを終えた僕達は一路ティンプーに戻って一泊。翌日は10時まで自由行動であった。

僕とO氏は民族衣装姿のキャスターによる朝のニュースを見た後、例の如くホテル周辺の散歩に出発した。今回は僕達の他にもう一人、力強い味方をつけた。一人参加のツアー同行者であるR子 さんである。社長秘書という職業柄か、女優と見まがう美貌を持つ反面、誰にでもタメ口で話す人懐っこさ、と言うか、恐れを知らない所があって非常にインパ クトの強い女性。ツアーに参加する他の四人と違って特に旅好きというわけではないのか、僕達が過去の旅の体験談をしていても中には加わらずに、一人草木や ら、虫やらの写真を撮っているゴーイングマイウェイなキャラ。ただブータンという国や、この国が掲げる国民総幸福量に何か惹かれるものがあって参加したみ たいだ。しかし、僕達が彼女に驚愕したのはそれらの部分ではない。彼女には何か不思議なオーラのようなものがあり、そこにいる誰とでも打ち解けてしまうの である。どこを観光していても、彼女の歩く隣には必ずその場で仲良くなった地元民がいる。彼女自らが周辺の人々にあれやこれや話しかけているわけではない し、別段英語が上手というわけでもない。彼女が地元民に問い尋ねる言葉は「アー ユー ハッピー?」ぐらいなのに、である。美人ということもあるのだろうが、他にも何か異文化の人を引き付けるパワーがあるのだろう。これって、旅人が最も欲し いスキル。その国に関する知識をどんなに詰め込んだって、このスキルが欠乏している僕は、出会いの無い孤独旅をどれだけやってきたことか…。

  そんな彼女を見れば見るほど、内向的な自分の不甲斐なさが浮き彫りになる。深く考えたらどこまでも空しく、どこまでも自己嫌悪になれる。だが、とりあえず そこまでにしておこう。そしてこのパワーを少しだけ拝借して旅を楽しむべく、彼女に協力して頂こう、という結論に至ったのだ。

 今朝の散歩の一番の目的は、O氏得意の「激写」。そう、民族衣装「キラ」を着た通勤・通学の女性をカメラに収めることである。ま、異国の男二人が地元女性に「写真撮らせてよ」なんて追い回したら、いくら心のきれいなブータンの人達でもイヤがるであろう。そこでR子さんが登場。

 「こんにちは、あぁ、これって、キラですかぁ?! すっごくキレイですよね!」


こんな具合に彼女が話しかけるとあら不思議、地元女性達もとっても嬉しそう。そのタイミングで写真撮らせて頂けますか、と僕達が丁重に懇願するのである。この方法はお陰様で結構うまくいった。


 「Oさん、この辺にしておきましょうか。」

 「いや、あともう一人!」

そんなやり取りもあったが、我々は学校の制服のようなキラ姿の女子学生や、スラっとした紫のキラを着たOL風の女性等、素敵なブータンの人達を撮影させて頂いた。だが、R子さん自身は特に彼女等にカメラを向けることは無く、路上で寝そべる野良猫とか、窓辺に並んだ色とりどりの空き瓶とか、変な物にシャッターを切るのだった。

 

  その後は残り二人の女性同行者も合流し、近所をブラブラ。メインストリートに並ぶお土産屋さんを一軒一軒覗き、仮面や仏像、マニ車に乾燥松茸を手に取って いるうちにいつしか時計台のある広場にやって来た。そこには大き目のスーパーがあり、地元民気分でちょびっと買い物をしてみる。想像した通りほとんどが輸 入品で、ブータン国産品はマンゴーやリンゴのジュース、そしてパンぐらいだった。

 スーパーから出ると、広場ではタープの据え付けられたテーブルやテントが沢山設営されていた。何かイベントでも始まるのだろうか? 一つ一つのテントには手作りの道具や食品等が今正に並べられている所。

ど うやらチャリティ目的で開催されたブータン各地域の物産展のようだ。地域によってはティンプー等で見るような装いとはやや異なる民族衣装の人もいる。特に 気になったのは、古代ギリシャ人のように真っ白い麻の布だけを体に巻き付けたような衣装の少数民族。昨日ティンプーに戻った際、R子 さんの希望で見学した織物博物館に様々な少数民族の衣装が展示されていたのだが、確か東部の山奥に住むかなりレアな民族だったと思う。何て民族かは覚えて いない。ブロッパ族だったかな(後で調べてみたら、衣装が違っていた)。伝統的な住居を再現していると思われる藁の屋根に丸木を組み合わせた小屋が彼等の ブースであった。もっと詳しく聞けばよかったのだが、集合時間の10時が近付いていたので、さっさと写真だけ撮らせてもらい、おいとますることにした。

 

  集合後、シンゲさんと共に車で訪れたのは中央郵便局。別に絵葉書を日本の知人に出すことが目的ではない。世界中の小国で行われている切手産業は、ブータン においても重要産業の一つ。しかもここブータン、世界に類を見ない珍しい切手を次々発行することで有名なのだ。封筒よりも大きい巨大切手や、絹製の切手を 始め、昔お菓子のオマケにあったようなザラザラのプラスチックでコーティングされた3Dのシールみたいな切手、実際音がするというレコード切手等、マニアでなくても欲しくなるものばかり。こんな切手の数々が展示販売される場所ということで、この国では中央郵便局がちょっとした観光スポットの一つとなっているのだ。

 ここ最近更にあっと驚く切手が発行され、一行の話題をさらったのが何と世界初、「CD-R付切手」。シングルCDぐらいの大きさで、ジャケットの裏面が全部シール式になっている。ちなみに一枚の額面は225ヌルタム(約450円)。葉書や封筒の切手代はせいぜい2030ヌルタムなので、実用性は無さそうだ。

中身のCD-Rであるが、ブータンや国王についての紹介ビデオが10分程収録されており、PCで見ることができる。この日売られていたのは三種類で、僕は歴代国王、そしてブータンの伝統文化についての切手二枚を購入。ちょっとした収穫であった。

 


  続いてやって来たのは少し大き目のお土産店。今晩以降は田舎でホームステイとなるため、お土産を買う機会はもうここしか無い。売り物の顔ぶれは広場近辺の お土産屋と大差無かったが、ちょっと面白いものとしては、ブータン人作家によるエッセイが平積みされており、その近くに何と作者本人が立っていた。今買え ばサインしますよ、と言っていたが、知っている作家でもないし、英語の本を読めるほどの読解力は無い我々は遠慮させてもらった。この作家さんはいつもこの お土産屋の売り場に立っているのだろうか。そこはちょっと興味深かった。他にはブータン映画のDVDが 何本か売られていた。ブータン映画は、少年僧がワールドカップの中継を見るために奔走する日本公開作品「ザ・カップ」と、山奥の村を担当する郵便配達人の 冒険のような道中を撮ったドキュメンタリー映画の計二本だけ見たことがあるが、意外にもトレンディードラマ的な雰囲気の映画作品が多く並んでいた。「パー フェクト・ウーマン」というタイトルの映画は普通の洋服姿の美女がジャケットを飾る。買わなかったことをとても後悔している。今インド映画は国際市場を狙 う中で変貌を遂げているが、そんなインド映画の影響を受けているというブータン映画も変化しているのかも知れない。

 

  お土産屋を出ると、すぐ近くに競技場があった。金網越しに中を見ると、ブータンの国技であるアーチェリーの試合が行われていた。中に入ってみましょう、シ ンゲさんに気軽に言われ、僕達はしばし応援席で観戦した。アーチェリーはブータン男性のたしなみとして最も盛んに行われているスポーツだ。それだけポピュ ラーな割には、オリンピックはおろか、アジア大会でもブータンの名が聞こえてこないのは、洋式のアーチェリーとは根本的な所が違うからである。洋式のそれ は個人競技、ブータンのそれは団体競技なのだ。特徴的なのは、的のある場所が異常に遠く、その的の周りにチームメイトがいて、矢を射る選手に対して大きな 声で位置関係を指示していること。「もっと上を狙え!」、「よし、その位置から撃て~!」といったようにチームメイトが声援も兼ねたナビゲーションを送る 中、選手は130メートル離れた場所から射る。

ど の選手もほとんどの場合、的に命中させているからすごい。的の近くにいるチームメイトに命中なんてことは無いのかハラハラしてしまうが、さすがに競技参加 者達はその辺上手なのだ。うまく的に当たればチームメイト達はその場で勝利を祝う舞を、外したら励ましの舞を踊る所は伝統スポーツとしてのしきたりなのだ ろう。こうしてチームメンバーが順繰りに矢を放ち、残りのメンバーはナビゲーターに回り、最終的にチーム総合得点で競い合うのだそうだ。シンゲさんも日本 語ガイドになる前は国内大会で上位に入賞した腕前の持ち主だとか。今はそれ以上の生き甲斐を見つけたのでこの世界からは手を引いたという。

 「こうして生で見ていると、またやりたい衝動に駆られますけどね。」

シンゲさんはそう言って笑うと、僕達を車へと誘導した。再びパロに向けて出発だ。


  プナカ見学を終えた我々一行は隣町に当たるウォンディフォダンへ移動。プナカよりも更に小さな町、と言うか村であるが、今晩はここにあるバンガロー風のミ ニリゾートに宿泊だ。同じ旅行会社による別のツアー、もしくは他社のツアーで来ている日本人が多く宿泊していたが、食事の時も皆それぞれ内輪で固まって盛 り上がっており、別のチームとは会話はおろか、挨拶もほとんど無かった。秘境で日本人と出会うとガッチリ握手となることが多いが、ツアーではその部分やは り違うのだろう。

 バンガローは悪くないものの、この日本人村的雰囲気が居心地悪かったのと、例の如く「夜のブータン」への飽くなき探求心から、O氏と僕は今晩もナイト・ツアーに出発した。

 この町もまた、川沿いの長細い一本道を中心に作られている。夜歩きをするとなったらティンプーのようにはいかない。僅かな街灯の明かり以外何も無い田舎の一本道をひたすら歩くしか無い。途中日本の安アパートか工事現場の事務所のような二階建ての建物を発見。

「やっぱり旅の醍醐味は人民との出会いと交流だよね!」

O氏はそう言うと、まっすぐアパートの方へと歩いて行く。えっ、いいの? 言葉自体には賛同するけど、ちょっと戸惑いながらも後をついて行く。二階に僅かな光が灯り、テレビか何かの音が聞こえてくる。O氏はまるで知り合いの家に行くかの如く、金属製の階段をカツーン、カツーン、と音を立てながら二階へと上がった。ちょ、ちょっと、これ、ヘタすると(いや、ヘタしなくても)家宅侵入では?! O氏 は以前ロシアで同じように地元民のアパートに踏み込み、そこで出会った人に暖かく歓迎されたことがあるらしい。しかし、この場所、この時間、いきなり二人 の外国人が来訪するにあたり、どう取っかかればいいのだろう。スイマセン、ホテルと間違えましたって言い訳は苦しいし、鶴瓶の番組じゃあるまいし、長年の 友かのようにハロー、とか言って図々しく押し入って行くわけにもいかないし…。そこはO氏の手腕に 任せればいいか、とも思うが、踏み込むだけ踏み込んで、いざ彼等と出会った時、コミュニケーションのほとんどを僕にポイっと投げる可能性は大いにある。彼 の中では地元民と一緒に記念写真に収まることが「人民との交流」の中の大きな部分を占めており、僕はそこに至るまでのコミュニケーションをつなぐ役回りに なりがちだということは今日までの経験上わかっている。ま、拙い語学力でも彼等と会話をすることで地元民の生活感や考え方等を多少なりとも知ることができ るという意味では僕の考える「人民との交流」に近いので、その役回りを嫌がらずに受けてきたということもある。だが、それにしても今回僕はどうしたらいい のかわからない。

  次の瞬間、上の階から突然、ワンワンワンッ! と、番犬の吠える声が響き渡った。心臓が飛び出しそうになった僕達は思わず飛び上がり、カン、カン、カンと大きな音を立てて階段を駆け下り、道の方へとス タコラ退散した。日本からの交流大使のつもりが、きっとコソ泥だと思われてしまったに違いない。ま、ともあれ僕的には番犬に助けられた形だった。

  引き続き一本道をまっすぐ歩く。やがて前方に何やら明かりが見えてきた。通る車は皆、そこで一時停車している。きっとあれは町と町の間にあるチェックポイ ントだろう。外国人が自由に動き回ることを制限しているブータン。例えば南部の町プンツォリンがブータンで唯一ビザ無しで観光できると聞けば、そこから地 元民のバス等にちゃっかり乗り込んじゃえば、ティンプーでもどこでも行けるのではないか、とまず考えてしまうが、そうはいかないシステムなのだ。もし前方 のあれがチェックポイントなのだとしたら、その向こうは昼間にいたプナカかも知れない。近付いていくにつれ、検問の小屋と遮断機、そしてコートを着た二人 の警官の姿がはっきり見えてきた。当初は警官にうまいこと言ってプナカまで行ってみようか、と話していた僕達。五メートル進むと、チェックポイントまで 行って警官と記念写真を撮って引き返そう、という話に変わり、更に五メートル進むと、チェックポイントの10メートル前まで行った所で引き返そう、という話に変わり、僕達は結局20メートルほど手前でUターンして引き返したのだった。


  やがて僕達はホテルの場所の近くまで戻って来た。散歩という意味では十分歩けたのだが、結局地元民との出会いは皆無であった。そのためやや不完全燃焼気味 な僕達はホテルに戻らず、周辺をブラブラしていた。するとホテル裏のエリアにハモニカ長屋風の小屋が並んでいるのが見えた。近付いて見ると、開いた扉の中 から明かりが漏れている一軒の家屋があり、どうやら飲み屋のようだ。壁の棚にはコーラ等一般的なソフトドリンク始め、自国や隣国の独自ブランドのジュース 等が所狭しと並んでおり、酒はビールぐらいしか置いていなかった。テーブルが三つあり、五、六人の男達が思い思いに飲んでくつろいでいる。どうやら飲み屋 と言うより、中で飲食できる商店と言った方が正しい。そう言えば北京に住んでいた頃はまだコンビニが無く、こうした飲み物と軽食系を売る商店は随分遅くま で開いていたのを覚えている。

そ んなお店を切り盛りしているのは母娘と思われる二人の女性。ブータン人だと言うが、顔立ちがややインド的な所、南部に多いというネパール系なのかも知れな い。僕達は早速コーラ、そして周囲の人達が食べていた四角いドーナツ風味の菓子を購入し、テーブルに着いた。周囲の男達を見渡すと、このミニリゾートの駐 車場で働いているというブータン人もいれば、建設の仕事で来ているというインド人もいた。この時何と、赤ちゃんを抱えた男性もやって来た。寝つきの良くな い赤ちゃんに飲み物を買ってやるのだろう。地元民だけでなく、違う地方からの出稼ぎ、更には近隣の外国人までが普通にやって来てワイワイ飲み明かす。職業 も、国籍も、世代も問わずウェルカムな小宇宙。近隣国の人的、文化的流入から守るために民族文化の徹底した保持や、入国者の制限を行ってきたブータン。最 近になって少しずつベールを開き始めたが、末端レベルでは既に開放的な社会が根付いているのかも知れない。ともあれ、言葉のコミュニケーションは少なかっ たものの、居心地良くて少しダラダラ過ごさせてもらった。


  店を出た後もまだ飽き足らず、道を挟んだ向かいの小屋の方に行ってウロウロした。辺りは薄暗く、普通なら不審者そのものであるが、その小屋の住民の一人が たまたま外から帰って来た所で、快く家に迎えてくれた。他に二人の男性が中におり、たった一間の小さな部屋にハンモックがぶら下がっていた。彼等もどこか からの出稼ぎなのだろうか。英語がほとんどわからないらしく、彼等が建設労働者なのか、宿の従業員なのかはわからなかった。とりあえずここはO氏お得意の記念撮影。彼等は写真ができたら送ってくれと言って僕達のメモ帳に住所と名前を書く。苗字と思われるグルンとか、ライというのはネパールのグルカ族の部族名だ。彼等はネパールから来たのか。素朴なブータンの田舎の村も、見えない所で外国人が支えているのだろう。

 

 

  バンガローの窓の隙間から陽が差し、ウォンディフォダンに朝が来た。山間部に囲まれた盆地にあるため、風が吹き降りる町とも呼ばれている。見渡す限り緑一 色の田畑が広がり、農民達が笑顔で楽しそうに作業している風景。調理小屋のような所に集まって仲良く食事の仕込みをしている女性達。一昔前の日本を思わせ る平和な世界そのものに見える。


  今日はこの農村の向こうにあるチミ・ラカンと呼ばれる寺院を目指し、ハイキングに出発した。そこまでは畑の畦道を歩いて行く。一人の老人が、二頭の黒い牛 を二本の棒で平行につなぎ、あっちに向かってゆっくり、こっちに向かってゆっくりと歩かせている。きっとこの国の畑の耕し方なのだろう。子供達が数人この 老人が往復する動きに合わせて、楽しそうにあっちにこっちにとついて回っている。小さい頃から農作業をこうやって覚えていくのだろう。畦道のハイキングで は子供達との遭遇が多かった。日本で言う祠か地蔵堂のようなものだろうか、マニ車だけが取り付けられた小さなお堂の前で二人の子供が座っておしゃべりして いる。シンゲさんが携帯からブータンの音楽を流すと、踊りを踊ってくれた。


  しばらく歩くと、どこからともなく肩を組んだ四、五人の子供達が歌を歌いながら歩いて来た。カメラを向けても恥ずかしがりもしなければ、撮ってくれとは しゃいだりもしない。そのまま自然な感じで歌い続けている。この道は観光客の定番ルート。彼等もきっと慣れているのだろう。女性同行者がこの子達を気に 入ったようで、抱き抱えて「高い高い」をしていた。僕も一緒になって一人の子を抱き抱えようとしたら、露骨に嫌がられた。やむなくその子を下ろした後で別 の女性が抱っこすると、途端に嬉しそうな表情へと一転。子供は残酷なほどに正直だよなぁ、と、ちょっとへこんだ。しかし、しばらく歩いて行くと別の男の子 が現れた。彼は僕の足にじゃれついたりして懐いてくれたので、子供によりけりだな、と気分も回復。

 

 やがて到着したお寺、チミ・ラカン。子宝の寺として有名な所らしい。


小さい寺院ながらプナカ・ゾンと同様ジャカランダの木々が周囲に咲き乱れ、20人 ちょっとの少年僧が修行に励んでいる由緒あるお寺という感じである。本尊はもちろんグル・リンポチェであるが、壁一杯に描かれた説話の主人公は由緒あるお 寺には似つかわしくない聖人、と言うか、地元の神様であった。そもそもどこがどう聖人なのかわからない。普段は村でぐうたら寝ており、腹が減ったら勝手に よその家の家畜を盗み、ヒマさえあれば村の女の子を追いかけ回しているただの迷惑者。しかし、村にひとたび災いが起こると、正義のスーパーヒーローとなっ て、その災いをもたらした悪魔を撃退するというのだ。しかも必殺技は男性器からの火炎放射。もうドタバタギャグにしか聞こえないが、この国では大真面目な 説話なのだ。いや、正確に言うと、真面目な説話だけでは難解過ぎて一般人には理解されにくいため、こうした笑いを散りばめて仏教の教えを説いた一例という ことのようだ。そう言えばこの国で行われる「ツェチュ」という盛大なお祭りは、元々仏教の教えを僧侶が仮面劇で民衆に伝えたことから始まった。今でもその 仮面劇にはアツァラという道化が登場して観衆に笑いを誘うのだそうだ。仏教の教えが世代や階層を問わず浸透しているのは、この国の偉いお坊さん達が昔も今 もユーモアを交える心的余裕と柔軟性を持ち続けているからかな、と思った。


 今日は参拝者が少なかったが、普段は子宝を求める女性達の参拝が後を絶たないらしい。これは帰国後の後日談となるが、この寺院を参拝した我々ツアー参加者五人のうち、僕やO氏を含めた四人はその後三年以内に子宝に恵まれた。火炎放射のヒーロー、やはり何かすごいパワーがあるのかも。

大分ブランクあいてしまいましたが、ブータン旅行記を再開します。

 翌朝、朝食の後でO氏とティンプーの街を少し散歩。民族衣装「ゴ」や「キラ」を身にまとった人々の通勤風景をしばし眺めた後、古都プナカに向けて出発した。ティンプー・プナカ間は車で三時間もかかるらしい。地図で見るとパロ・ティンプー間とそう変わらない距離のようだったが、所要時間は二倍だ。徐々に標高が高くなるプナカへの道。この時間差は山あり谷ありの地形ゆえ。

ティンプーを出て30分もしないうちに辺りは巨大な針葉樹に埋め尽くされた森の中。間も無く標高約3,000メートルのドチュ・ラ峠にさしかかる。10メートルはありそうな松の木が生い茂る中、本来であれば白銀のヒマラヤがよく見えるスポットなのだそうだが、今日は生憎雲が多く、遠くの山はほとんど見えなかった。この峠にはこんもりと盛り上がった丘があり、屋根の付いた無数の白い仏塔が三重か四重の円を描くように丘一杯に立ち並んでいる。塔は全部で108本あり、仏教で言う煩悩の数だけ作られているという。

試しにその丘に上がって塔を見て回るのだが、すぐに息が切れる。運動不足もあるのかも知れないが、明らかに標高の高さから来る目眩であった。又、これら煩悩の塔に隣接するように立派な寺院が立っており、カムニと呼ばれる白襷を肩からかけた礼装姿のブータン人が参拝に来ていた。入口の前で色とりどりのお供え物で飾られた祭壇まで作っており、これから高僧の葬儀が始まるらしい。屋根には龍と並んでこの国で崇められている白い獅子、つまりユキヒョウの姿が沢山描かれていた。ちなみにここは先代国王のお妃が建てたお寺だとのこと。先代国王は民主化や国王の定年制を訴えるとすぐに息子に王位を譲って早々に引退したが、このお妃様はやれ寺院の建設だ、やれ孤児院の視察だと、今でも何かとメディアの露出が多いようだ。街中では彼女単独の肖像写真もよく見かける。

 峠を後にすると、ある山のふもとで放牧されたヤクの群れを見た。黒くて長い毛をゆらゆらさせながら一見のんびりと草を食んでいたのだが、こちらを意識していたのか、写真を一、二枚撮っているうちに一頭、また一頭と視界から消えていき、ものの数分で全て姿を消してしまった。この季節、ヤクは4,000メートル以上の場所にしかおらず、この辺りで見ることができたのは珍しいのだそうだ。

 車はやがて一本道の小さな町にさしかかる。途中休憩かと思いきや、何と目的地のプナカに到着したとのこと。かつてブータンの都だったというのに何と小さな町なのか。だがこの一本道、通りそのものが全て市場となっている。スイカにスモモ、タマネギ、ジャガイモ、インゲン、更にはボール状に膨らんだせんべいのようなお菓子もあれば、ミャンマーやバングラデシュで人々がよく使用していた噛みタバコ等、いろいろな物が並んでいて活気あるアジアの風景がそこにあった。だが僕達のお目当てはやはりカラフルな巻きスカート風民族衣装「キラ」を身にまとって闊歩する可愛らしい女性達だった。もちろんお目当てと言ったって、「写真撮ってもいいですか?」と恐る恐る尋ねて二、三枚撮らせてもらうだけのことであるが。

 

 市場から少し離れた所にある川辺の公園。地元の中学生が木や石で作ったというアートな感じのオブジェが沢山飾られている。そこから力強く流れる川を眺めると、何と川は二本平行に流れていることに気付く。それぞれ「父の川」、「母の川」と言うらしい。その二つの川の合流点にある大きな中洲に建てられた巨大な建物。これから見学するプナカ・ゾンである。

 ティンプーのタシチョ・ゾンもそうであるが、ゾンは巨大僧院であると同時に行政府も兼ねた神聖かつフォーマルな場所。ガイドのシンゲさんも「ゴ」の懐からカムニを取り出し、早速礼装姿になって入口の橋を渡った。

 巨大なゾンを囲むように植えられているのはジャカランダ。薄紫の花が茂る巨木だ。普通はアフリカや南米に見られるものだが、アジアではブータンのものが有名だとか。

 橋には数人でくつろぐ真っ赤な袈裟の少年僧達。僧侶だけに物静かではあるが、まだ十代半ばゆえか男子寄宿舎の雰囲気を醸し出している。

半ば要塞化したゾンでは、どこも長い階段を昇って境内に入る。正面にある本堂に入った時、一メートル程の仏像に手を合わせる三、四人の僧侶がいた。先頭で読経を上げる高僧は何とブータン仏教の最高峰である大僧正。宗教大臣に該当する閣僚級の大物だ。彼等が祈りを捧げていたのは、ブータンにおいて最も古い仏像の一つと言われているもので、数年に一度しか開帳されない貴重な仏像らしい。そう言えばブータンの寺院の本尊はほとんどチベット仏教開祖のグル・リンポチェばかりである中、純粋にブッダの像は珍しいかも。木製だが長い時代を経て金属製のように黒光りしており、日本の仏像とも近いものを感じる。この貴重な仏像に内々で法要を捧げる機会がたまたま今日だったので、そのタイミングに現れた皆さんは大変ラッキーだと、大僧正は僕達の突然の来訪にイヤな顔一つせず、しかも御自らこの仏像について解説をしてくれた。何だかそれだけで感動してしまい、我々一行はこの仏像をシャッターに収めるのをすっかり忘れてしまった。いや、恐れ多過ぎてそんな気になれなかったと言った方が正解だ。大僧正の説明が終わるタイミングにピッタリ合うかのように、他の若い僧侶達がこの仏像を静かに、そして手際良く厨子の中に収納するのだった。

 

 別のお堂からは何十人もの少年僧の元気な読経の声が聞こえてくる。壁には天上界や餓鬼道、修羅道等の図が描かれていた。ある女性同行者がその意味を知りたいと言ったので、シンゲさんが仏教の基礎的知識である六道と輪廻について説明を始めたその時、いきなり鳴り響いたベルの音と共にお堂の中から大勢の少年僧が飛び出してきた。苦しい修行の後はリフレッシュしたいのだろう。中庭は赤い袈裟の少年僧達でごった返している。友達同士でどこか遊びに行こうとする子、我慢できずその場で鬼ごっこを始める子、こちらをチラっと横目で見るとそそくさと宿舎に帰ってしまう子。映画「リトル・ブッダ」で見たことのある風景である。そう言えばあの映画に登場する僧院はここブータンのパロ・ゾンで撮影されたらしい。休み時間とは言え騒ぎ過ぎは許さんぞ、とばかりにお目付け役の強面僧侶がムチを片手にお堂の中からヌゥっと出て来て、周囲の少年達に睨みをきかせていた。きっと少年達は彼の見ていないスキを狙ってイタズラに励み、時には捕まって大目玉を食らい、成長していくんだろうなぁ、なんて思いながら、宿舎での学生生活を送ってきた僕はちょっと声援を送りたくなった。

 歴史的文化遺産でありながら、現役の市庁舎としても使っているゾン。都度修復をしているのだろうけど、大丈夫なのかな。日本の田舎の古い木造住宅みたく、階段を昇るとミシッ、という音。木製の窓枠を押し出すようにして開くと、ギギギッという音。建て付けの良くない扉をエイヤ、と力任せに引っ張ると、その振動で天上にこびり付いた埃やおが屑が頭上に振りかぶさる。しかしそこから窓の外を見た時、風に揺られたジャカランダの巨木から紫の花びらがひらひらと舞い落ち、ゾン周辺の地面は紫色の絨毯と化していた。

そして庭を散歩する少年僧達がまるで深々と降る雪に触れるかのように風に舞う花びらに手を差し伸べて戯れる光景をあちこちで見た時、やはりこの国は築年数や効率性云々よりも幸福を最優先しているんだな、と少し感じた。

《前回のブータン旅行記のアーカイブス》

プロローグ:「しゅっぱつ 2010」


ブータン旅レポ①:「到着!

ブータン旅レポ②:「いよいよ入国~!」
ブータン旅レポ③:「ティンプー・ナイト・ツアー?!」

(6年前のネパール旅行記を書いていた最中、現地で大きな震災が発生。この旅でお世話になった皆さんは無事だったようで安心しましたが、被害に遭われた方々が一刻も早く普通の生活に復帰できるようお祈り致します)

 翌朝、kaibauさ ん宅にいくら電話をしても話し中。どうしたことだろう。ネパール滞在の最終日を明日に控え、今日は一緒にカトマンズを散策する約束だったのだが…。朝食を 食べてからかけ直しても、シャワーを浴びてからかけ直しても、一向に通じない。用事で出かけているのだろうか。頭を垂れ、どうしたものかとメモの電話番号 を何度も読み返す僕の様子を見かねたヘラカジ先生、今日は私が代わりに案内しよう、と僕を連れ出してくれた。

 その代わり、歯の痛みの件で先に病院に行くから付き合ってほしいとのこと。もちろん快く承諾。徒歩で市内の病院へと向かった。

 どこの国も病院は何となく薄暗い感じがする。この雰囲気ゆえか、何だか気分が良くない。頭が重く、一瞬寒気がした。短い時間でヒマラヤや農村を駆け回ったから少し疲れたのだろう。

待 合室の椅子にダラ~っと座っていると、担当医がヘラカジ先生を呼びに現れた。意外にも若くて美人の女医さんだった。先生が付き添いの日本人だと僕を紹介す ると、彼女は流暢な英語で声をかけてくれた。わぁ、ヒマラヤまで行ったの、もう数日時間があったらエベレストのベースキャンプまで行けたのにね、次回はぜ ひ行ってみてよ、なんて気さくな感じだったので、一緒に写真でも撮りたかったが、先生の治療が最優先。ここは潔く二人を治療室まで見送り、廊下の腰掛けで 引き続きダラ~っと一人待っていた。

 やがて先生が治療室から出て来た。時間はかかるが、刺激の強くない薬等を使って治療することは可能だそうで、ひとまず安心だ。

 外に出ると道いっぱいに赤や緑のカラフルな野菜が並ぶ青空市場が広がっていた。ま、こういう場所での僕の興味は野菜よりも音楽CDや映画のDVDなので少し散策。以前日本で見たインド映画「チャンドニー・チョーク・トゥ・チャイナ」のDVDを見つけて購入。ついでにネパール語の新聞や芸能雑誌も買ってみた。もちろん全く読めないが、この国の人でも字が読めない人が比較的多いためか、写真が多くて楽しめた。

 ヘラカジ先生はパタンの路地にある「ゴールデン・テンプル」というお寺を案内してくれた。

 「以前生徒達にネパールの観光名所の説明をさせたんだが、全くサリータときたら、このゴールデン・テンプルを『金閣寺』と訳しおった。『金閣寺』をゴールデン・テンプルと訳すことはあっても、ゴールデン・テンプルは『金閣寺』には成り得ないというのに…。」

 先生はそうぼやいた。昨日農村に案内してくれた女子生徒サリータは、いろんな場面で可愛い間違いをするようだ。

建 物自体は中国風の屋根を持ついかにも仏教寺院という出で立ち。金閣寺のような鮮やかなキンキラキンというわけではなく、壁も、屋根も、梁も、中庭の仏塔 も、錆びた金属のように年季の入った落ち着いた金色であった。むしろ日本にあっても違和感が無い金色だ。法要を行っているのか、境内は参拝者でごった返し ていた。絶え間無く焚かれる線香の煙と、参拝者に振舞われる食事の湯気が入り交り、せっかくの黄金の建築も薄ぼやけて見える。そして賑わいの声をかき消す ようにタブラとハルモニウム(オルガンのような楽器)の演奏が境内中に鳴り響く。ある回廊の壁はガラスケースのようになっており、その奥には夫婦のような 二体の金色で巨大な仏が鎮座していた。カトマンズの仏教寺院はヒマラヤで見たようなチベット仏教、すなわちラマ教とは少し違うような気もする。もっとイン ド的だ。かと言ってタイやスリランカの南伝仏教かと言うと、これもまた違う。参拝者に振舞われていた食べ物というのは、ミルクで作った餅のような甘い菓 子。一掴みずつ配っているので、僕も早速それを一個頂く。その素朴な甘ったるい菓子をモシャモシャ食べながら屋根を見上げた。その金色の屋根の上には沢山 の鳩が規律正しい間隔を置いて陣取り、羽根を休めていた。あまりに綺麗な配置なので、人工的な屋根の飾りかと思ってしまったが、そうではなかった。きっと あの餅のような食べ物のおこぼれを狙っているのだろう。いや、詰めかける参拝者達の敬意に満ちたこの空間が、鳩さえもこのように均整の取れた並び方にさせ ているのか。


  その後、先生は仏塔のある庭園のようなポイントを数カ所案内してくれた。印象的だったのはナーガ・バハールという仏塔。印象的と言うのは仏塔そのものでは なく、格子状の柵の中にある牛の像。この牛は数年に一回、本当に鳴くのだと言う。そして誰かがそれを聞くと、地域住民に知らされ、祭りが開催されるのだそ うだ。定期的に掃除をする人はいるのだろうが、一体誰がそれを聞くのだろうか。誰か一人がそれを聞いた所で地域住民みんながそれを信じ、「ではお祭りをや りましょう」とうまく運ぶとは思えないのだが。この土地の権力者がある日「牛が鳴いたぞ!」と号令を出して街を動かしていたのかな、なんて思ってしまっ た。他にも裏路地にある仏塔もいくつか訪れたが、なぜ先生が細やかに仏塔の場所を知っているのかと言うと、かつてこれら歴史ある宗教建築の修復の仕事を公 務員としてやっていたとのこと。ここパタンは繊細で鮮やかな木彫りや石彫りの壁や扉が多く見られる正に職人の街であるが、先生もまたその職人の血を引いて いるのだった。職人の道からどうして日本語の世界に身を投じたのか興味もあったが、それを聞こうとした時、僕は少し頭がフラっとした。やはりコンディショ ンが悪いのかな。

  さて、いよいよカトマンズに行こうということになり、僕達はバスターミナルに行った。ワゴンのようなミニバスが多数停車しており、カトマンズ行きを探し た。首都だし、隣町だというのに探すほど少ないのかな、なんて思いながらやっと見つけたそのバスはガラ空きであった。車の近くでヒマを持て余している運転 手らしき男に、先生がいつ出発するのかと聞くと、バスの座席が満杯になったら出発する、とのこと。アジアの中距離・長距離バスならありがちな返答だ。しか し待てど暮せど乗客は全く現れない。しばらく突っ立っているうちに頭がガンガンしてきた。

 「先生、お金は僕が出しますので、タクシーで行きませんか?」

最終日だから手持ちのルピーもあまり残っていないし、普段の僕ならのんびり待つのだろうが、自らの体調不良に耐え切れぬ僕はもう少し楽な移動方法を提案させてもらった。

 

  かくしてスムーズにカトマンズ市内にやって来た。最初に訪れたのはブッダ公園。三体並ぶ巨大な黄金の仏の坐像がトレードマーク。どれも四、五メートルはあ りそうで間近で見ると圧倒される。その他には石を積み上げて作った山のジオラマのようなものがあった。ヒマラヤをイメージしているのか山の上にミニチュア の寺が設置され、山肌の各所に小さな仏が鎮座している。積み上げている石は全て、先日ヒマラヤ・トレッキング中に見た、チベット語のお経が彫り込まれた石 であり、山全体をカラフルに彩っていた。

 ま、公園自体はそれほど大きくはなく、特に印象には残らなかったが、途中仏具やお土産を売る物売りがいたので覗いてみた。金属製の小さな仏像やマニ車、数珠等が売られていたが、この金属製の仏像、日本のアジア雑貨店だと数千円するのだ。こちらではほぼ100円 ぐらいだったので、思わず買ってしまった。先生によると売り子は僕をネパール人だとずっと思いこんでいたらしい。先生とちょっとだけ日本語で言葉を交わし たのだが、多民族国家のネパール、きっとどこかの地方の少数民族だと思われていたのかも知れない。地元民料金で買えたのかも?!

 

  そして次にやって来たのは、目玉寺院の呼び名で有名な世界遺産、スワヤンブナート寺院。カトマンズの象徴的な名所だ。境内の前の参道には日用雑貨屋や軽食 堂、土産屋や骨董屋が軒を連ね、ちょっとしたバザール気分。ついつい参拝より先に骨董屋で売られているネパールの古美術品に見入ってしまい、チベット仏教 の舞踊で使われる青い三つ目の仮面を買ってしまった。吉祥寺育ちの僕は、子供の頃からエスニック系の民芸品店に慣れ親しんできたが、その本家本元にやって 来たかと思うと、興奮を抑えられないのだった。

 何だか腐った乳製品のような変な匂いが寺院の建物に近付いたことを知らせる。匂いの正体は、境内のあちこちに無数に灯されたバター製のろうそくであった。さぁ、ともかく参拝だ…、そう思った時だった。

 「あれ?! 目玉は…?」

四面から周囲を見守るような、寺院のシンボルであるあの青い目玉が見当たらないのだ。よく見ると、そのパイナップルかソテツのような屋根から下の部分には黄色と緑の布がかぶせられている。どうやらこの寺院、修復工事中のようだった。

  最終日にしてやっとこの国の首都を観光できたと言うのに、よりによってメインの寺院の全体像が見られないなんて、日光に行ったのに東照宮が改装中のような ものである。ガッカリしたら急に先程の頭の痛みが盛り返してきた。そして息苦しくなり、思わずその場でしゃがみこんでしまった。

 「せ、先生…。気分が良くないので、もう帰りましょう…。」

 帰りもタクシーをつかまえて、急いでヘラカジ家に戻った。体温を測ると39度 を差しており、その後はずっと寝室ベッドでダウンするのだった。やれやれ、目玉休業につき、最後の最後で守ってもらえなかったのか。とりあえず明日無事帰 国できるぐらいの体調に回復させるため、僕はミノムシのように布団にくるまり、ひたすら汗を出して熱を下げることにした。これ、僕が旅先で熱を出した時に 行う治療法。早ければ一日で治る。


 目玉寺院の僅かながらのご利益がやや遅れて効いてきたのか、翌日は普通に話したり、食事したりできるようになった。帰国準備をする前、僕はもう一度kaibauさんに電話をした。すると今度は一発で彼が受話器に出た。

 「昨日はどうしたんですか? 何回かけてもつながらなかったけど。」

聞くと、何といたずら好きのご子息、ローゼンが一日中電話の受話器を振り回して遊んでいたのだという。そして注意しようにもkaibauさん自身一昨日から熱を出して寝込んでしまっていたのだそうだ。これではつながらないわけだ。しかしkaibauさんも病気になっていたとは。毎日いろんな人に会ったり、祭りの準備をしたりで忙しかったのか、それとも日本の風土に慣れ過ぎてネパールの水が合わなくなってしまったのか。

 

 空港への出発前、kaibauさんがヘラカジ家にやって来た。しばらく近況を報告し合った後、時間が来たのでタクシーに乗り込んだ。ヘラカジ夫婦とkaibauさんに別れを告げ(kaibauさんは後日東京で会えるが)、トリブバン空港へと向かった。

 空港のチェックインカウンターに並んでいると、前に並んでいたネパール人女性にまじまじと見られ、「アー ユー ネパーリー?」と聞かれた。入国と出国で二回も現地人と見間違われたのは初めてだ。ま、僕がネパール人に似ていると言うより、ネパール人がいろんな顔をしているためだとは思うが、ちょっと笑いが込み上げてきてしまった。

ダ サイン祭りの本番を直前にして帰国することや、カトマンズ市内を十分に見られなかったこと、ナムチェバザールが霧でエベレストが見えなかったこと等、 ちょっとやり残した感はあったが、とりあえず体調も回復しつつあるので、今のうちに帰った方がいいに決まってる。何かの機会にまた来るかも知れない、また 来てもいいよな、そんな居心地の良い気持ちになれた今回の旅であった。

(完) 読んで頂きありがとうございました。次回からは「ブータン編」をお送りいたします。