翌朝、朝食を食べられる場所を求めて外に出ると、路地には意外と屋台が多く出ていることに気付く。台湾と言えばやはり屋台。前回の訪台は何せ春節中だったので、どの通りも静まりかえっていて何も体験できなかった。夫婦共働きが多い環境ゆえか、屋台は依然需要が高く、朝食に利用する人々で賑わっていた。ここでふと足を止めたのは「飯団(ファントゥアン)」と呼ばれる台湾風おにぎり。

日本のような三角形ではなく、海苔で巻いてもおらず、どちらかと言うと筒状だ。ただ、中身の具を選べる所は日本のものと同じ。具は10種類程あったが、無難に肉と山菜を選んでみた。一口食べるとなぜか選んだ具材は現れず、餅米風のごはんの中から甘い田麩と何やらパリパリした麩菓子のような、かりんとうのようなものが登場。これらはどのおにぎりにも入っており、真ん中より下の方まで食べ進んで初めて選んだ具材にありつけるのだ。僕達三人、このおにぎりが大変気に入ったのだが、日本の台湾料理店でも滅多に見かけない正に屋台の味である。そのお菓子っぽい食感がすっかりしーちゃんの心を掴み、以降彼女は台北にいる間中「パリパリおにぎりが食べたい!」とねだるのだった。屋台は姿を現わす日時や場所が一定でないので、困った課題が一つ増えてしまった。

 

 

さて、今日一日は三才にして初海外となったしーちゃんのための時間を作るべく台北動物園に行くことにした。動物園までは文湖線で直行なので、地下鉄やはり便利である。地下鉄と言っても動物園までの路線は高架の上を走るので、むしろモノレールに近い。今回乗車時に気付いたのは、僕達が乗った優先席車両の扉近くにいた女性がベビーカーや老人の乗り降りを手伝っていたこと。親切な人だなあと思っていたが、よく見ると腕章を付けており、どうやら係員のようなのだ。日本なら車椅子の人が乗る時にホームでサポートする駅員が出てくるが、こちらは逆に車内に配置するという発想か。他の路線では見なかったから、動物園という特殊な行き先ならではの特別措置なのかな。

ともあれ終点の動物園に無事到着。ここは何せ東アジア最大の面積を誇る動物園。地元の幼稚園から中学生までが遠足に来ており、平日なのに賑わっている。最初にあった台湾固有種動物のコーナーは、どれも奥に引っ込んでいるか暗闇に潜んでいるかでほとんど姿を確認できない肩透かしを食らったが、改装の関係でほぼ同じ敷地内でのんびり共存していた象とカバ、真っ黒な姿で奇声を発しながら飛び回るホエザル等の動物や、広場の地面を水面に見立て、ちょうど水に浸かっているように見えるリアルなカバやワニのオブジェ等、退屈させないアイテムが揃っていたので、しーちゃんも元気に歩いていた。コアラは一見大きな建物を構えているようだったが、中に入る形ではなく小規模。こちらではパンダほど目玉動物にはなっていないのか。ここにずっと留まって見ていた二、三組の人々は全て日本人。意外といるもんだな。一方のパンダ館は螺旋状の見学レーンを歩きながら三階まで上がれるようになっていたが、肝心なパンダは神出鬼没でなかなか姿を見せない。現れても何かの陰になってて見えやしない。以前北京動物園で見たのは白い所も黒く汚れ、延々と寝ているだけのヤツであったが、つくづくパンダ運はよくない。館内には本物以上にパンダのオブジェが多く、リアルなものからマンガチックなものまで色々あったのでしーちゃんを立たせて写真だけ撮ったら先に進む。歩く距離的にも動物の顔ぶれ的にも多摩動物公園とイメージがかぶる部分が多々あったが、おおよそ見ることができたので園内バスに乗って南出口へと向かった。

 

動物園に隣接してロープウェーの乗り場があり、ここから山頂の集落「猫空(マオコン)」に行くことにした。初めて乗るロープウェー、時折ガタンッ!と揺れる度にビクンッ!となるしーちゃんであるが、何せ終着点の猫空までは約30分。のんびり揺られていくうちに空中散歩にも慣れていってくれたようで、だんだん言葉数も増えてきた。やがて眼下に古そうな寺院と段々畑が見えてくる頃、急に肌寒くなってきた。

台北郊外にこんな高原地帯があるのか。到着した猫空は山肌を切り開いたような螺旋状の道一本の集落で、ロープウェー乗り場近辺には軽食屋台が並んでいたが、そこから少し離れると何も無い登り道が続く。どこぞのレストランまでここから徒歩30分なんて看板も普通にあったりする。子連れでここを彷徨ったらほとんど遭難だ。早く座れる場所を探そう。

幸い10分ほど登り坂を歩くとすぐに視界が広がってきた。

日本のものとは少し違う濃いピンクの桜が所々に咲き、薄い霧の下に茶畑が広がるミニ桃源郷といったところか。深呼吸してから周りを見渡すと、ログハウス風のおしゃれなカフェといかにも中華な感じの食堂が並んでいた。僕達の気分としては断然カフェ。中は空いていたので奥窓際の席を確保した。店員がやたらと英語で対応したがるのが少し鼻についたが、僕となーこは産地とれたての鉄観音や高山茶の極上の香りと味を堪能し、しーちゃんはチョコレートアイスを美味しく頂いたのだった。

帰りのロープウェーに乗る前にウイグル風の羊の串焼きの屋台を発見。中国に住んでいた頃は必ずウイグル族が売る屋台で買うというマイルールがあったが、ここは台湾だからそこは目をつぶろう。そして駅中のコンビニではロンリーゴッド(浪味仙)というポテトスナック菓子を入手。かの旺旺グループの商品なので中国ではしょっちゅう食べていたお気に入りスナックだ。帰りの30 分は一人懐かしい味に浸ろうと思ったが、三人旅ではそうはいかない。特にロンリーゴッドはしーちゃんにほとんど奪われそうになったぐらい、その甘じょっぱい野菜テイストが大ヒットだったようだ。「しーちゃん、これ、気に入った!」と宣言までされてしまい、日本では入手困難な辛い現実を受け入れてくれるか、今から心配になる。そんなこんなで無事動物園南出口まで戻って来た頃にはしーちゃんすっかり夢うつつ。静かにバギーに乗せ、後は速やかに地下鉄で移動した。時間も揺れ具合も程よかったためか、移動中グッスリ、ホテルに着く少し前にお目覚め(しかも割と機嫌良く)という、親とすればラッキーな流れ。

 

少し休憩したらもう夕食の時間である。今回行こうと思った店は「清真中国牛肉麺食館」。ホテルから徒歩10分ぐらいなので昨日みたく彷徨うこともなくすぐに見つけられた。

ここはホイ()族と呼ばれるイスラム系住民による料理店だ。忙しそうに餃子をこしらえる厨房が見える店頭から席に案内される。地元民はもちろん、話し方から大陸中国人とおぼしき人々やアラブ人風の客の姿も見られた。そもそも彼等ホイ族の生活基盤は宗教以外普通の中国・台湾文化と変わり無く、メニューに並ぶ料理は至って普通の中華だ。ただイスラム教徒も安心して食べられるハラールの措置がされているのだろう。僕はハラールフードを食べたかったわけではなく、北京時代ほぼ毎日食べていた大好物料理、京醤肉糸(ジンジアンロウス)と言う千切り豚肉の甘味噌炒めを楽しみにしていたのだ。出発前、これを台湾で食べられないかネットで調べたら、たまたまこの店に行き着いたのだ。しかもこのロケーションとくれば行かない手は無い。中国でさえ北京以外では滅多にお目にかかれないこのローカル料理をワクワクしながら注文した。庶民的な雰囲気の店内。小さ目のテーブルに大皿に盛られた餃子、空心菜炒め、エビの揚げ物、そしてハラールフードゆえ「京醤肉糸」ならぬ「京醤牛肉糸」が次々と並ぶ。メイン所の料理が牛肉になってもほろ甘く柔らかい口当たり、そして味噌と絶妙に絡んだ肉汁の旨味は変わらない。しーちゃんもなーこもほったらかしにして束の間中国時代のノスタルジアに浸ってしまった。

でもなーこはなーこで、この店の看板料理である牛肉麺、それも真っ赤な激辛風味が気に入ったようだ。これを食べるだけのためにまた台北に来たいとまで言わしめた。ともあれ、美味しい台湾グルメを自分達で目一杯満喫できた気がして大満足。長く楽しい一日だった。

居心地良過ぎたホテル・ワンに別れを告げた。

設置されたテレビモニターのチャンネルをわざわざ日本のミュージックビデオに合わせてくれたタクシーの運転手の気遣いにちょっと感激しながらローカル線台中駅へと向かう。高速鉄道の切符売り場は券売機しか見当たらず、とりあえず慣れぬ手つきで3 枚購入。構内に嫌と言うほどある日本食の店の中から寿司弁当を選んで買い、車内で腹を満たしているうちに無事台北に到着した。
 

タクシーで一路サンワン(神旺)ホテルへ。ここは、台湾はもちろん中国のお店の商品棚もほぼ独占し、しばしば中国に媚売り過ぎだと槍玉に上がる大手お菓子メーカー「旺旺(ワンワン)」グループが経営するホテル。チェックインしている間、しーちゃんが「あれはなに?」と指差すフロントのオブジェは旺仔(ワンジャイ)という旺旺ブランドの看板キャラクター。目があさっての方向を向いているとぼけた顔のキャラであるが、金色の巨大なオブジェになってしまうと、子供が気になるのはもちろんのこと、その独特のセンスに大人が見ても吹き出してしまいそう。窓が少なく全体的にやや薄暗くて古い佇まいだが、泊まる部屋は大きなベッドのある寝室が二つもあり、三人にはもったいないぐらい広かった。荷物を置き、フリーのミネラルウォーターと一緒に置かれた旺旺のせんべいを頬張りながら市内地図を片手に街へと繰り出した。

つい数時間前までいた日照りの強い台中とは打って変わり、天気もどんよりしていて肌寒い台北。最寄り駅の位置確認を兼ねて地下のアーケードを散策。途中なーこが化粧品の売り場を見ようと足を止めると、若い女性店員達がしーちゃんを見て口々に「超可愛(チャオクーアイ)!」と言っていた。普段行き慣れた中国ではまず聞くことの無い「超」の使い方とか、台湾の中国語には日本語的表現の影響が見られて面白い。やがて次の駅「忠孝復興駅」が近付いてきたので日本で言うSuica等に当たる悠遊カードを購入し、板南線に乗ってみた。改札に入ったらペットボトルの飲料水を飲むことが禁止と書かれていたのに少し戸惑った。小さい子供連れだとまめに水分補給が必要になるからだ。結局しーちゃんの喉が渇いた時は隅っこの陰に隠れて飲ませるのだった。途中経由の「南京復興駅」は各路線の中継駅のようで、目的の地下鉄ホームへ行くまでの距離が長い。しかもちょうど仕事帰りの時間帯に重なり、道中たちまち民族大移動の如く混雑に巻き込まれた。唯一の救いはホームまでのエレベータが日本以上に充実していることである。扉前には障害者、妊婦等優先度の高い人専用と健常者専用それぞれの整列レーンが引かれていた。このバリアフリー度の高さは驚き。そして乗車する時にそれが制度的な所だけじゃないことを確信する。しーちゃんを連れて乗るとほぼ9割の確率で数人が席を立って譲ろうとしてくれるのだ。おもてなしと言うならこういう所から学んでいかないとならないが、通勤時の疲れている時など真似できるだろうかと自問自答してしまう。それからなーこよ、台湾の人達のご好意に感謝する時はサンキューじゃなくシエシエとすぐに出てくるようにしなさい。今回の旅は子連れということもあって普段の旅ならあまり気に止めない部分に気付くこともあるのだった。

 

さて、僕達が地下鉄に乗ってどこへ行こうとしているかと言うと、ミャンマーを始めとするアジア好きの集まりで知り合った台湾女性トリニーさんと食事の約束をしていたのだ。場所はやはり同じ集まりの常連で台湾好きの知人から教えてもらった古民家風のレストラン「MY(マイザオ)」。「松江南京駅」の出口を降りてすぐにある小道をまっすぐ行けば見つかるらしいが、ここは松江路という大きな通りに面しており、どうもその小道とやらが見つからない。店のサイトに書かれた住所の通りをまず見つけようと周囲を歩き回るも、それらしき通りは見つからない。ええい、言葉できるんだから早く終わらせよう。近くでスマホをいじる若い男性に声をかけて聞いてみると、わざわざスマホで調べてくれ、あっちを真っ直ぐだよ、と進行方向を指して教えてくれた。あ、あっちね、ありがとう。僕達がその方向へ歩き出し、しばらく行くと先程の彼が走って追いかけて来た。まっすぐ行って最初の信号に来たら左に曲がるんだよ、と更に教えてくれた。いやあ、親切な人だなぁ。感謝して更に先へ進み、交差点で左、つまり松江路を渡って反対側に入った。しかしここからが苦難の始まりだった。目的地の通りが見つからないどころか、住所の番地さえも遠ざかった気がする。灯の消えた終業のビルばかりで人通りも無い。一軒の花屋を見つけ、そこにいた男性店員に聞いてみたが、その通りの名前さえ知らないと言う。更に離れたブロックまで来てしまったのかも。集合時間が迫ってきたのでトリニーさんに電話すると、彼女の方も少し遅れるので予約時間の変更を店に伝えてくれることになった。ここにきて店の場所が皆目見当もつかないのは非常にまずい。なーこの表情にも疲れが見え、何よりしーちゃんをこれ以上疲れさせて食事の時にぐずられる事態だけは避けたいので、肩車することにした。

とにかく、松江路を渡ってから店への手がかりが減ったことは確かだ。あのお兄さんがデタラメ言ったとは思わない。僕の聞き取り間違いだったのかもしれないし、彼もこの辺が不案内だった所を一生懸命教えてくれたのかもしれない。だが、とりあえず駅の出口まで戻って一からやり直そう、トリニーさん達も遅れて来るならここで合流してから行く方が確実だと思い、彼女にその旨電話で伝え、駅出口前のベンチに腰を下ろしたその時だった。

駅真横の小道、あった

 

あまりに薄暗くて気付かなかった。そこへトリニーさんがやって来た。

「道がわからなくなっちゃったんですか?」

「ごめん…、たった今わかった。」

ともあれ僕達は予約時間より30分遅れてしまったが何とかお店に到着した。裸電球ぶら下がるどこかの民家の離れのような店内の丸テーブルに腰を下ろす。

トリニーさんにはもう一人の連れがおり、昨年末に結婚したことを今初めて知った。彼は新郎のサムさんだった。旅行やダイビング等で充実した様子の写真をSNSにアップしているトリニーさんの隣によく写っている人物だったので初めて見る顔ではなかった。とりあえずこの店名物の魯肉飯、春巻、野菜炒め系の料理を注文し乾杯した。しーちゃんはやや慣れない料理ゆえか箸が進まなかったが、魯肉飯を代わりばんこに食べて行く遊びにして誘うとそこそこ食べてくれた。妻子は中国語がわからず、サムさんは日本語がわからないためなかなか全員混じっての会話は難しかったが、一つ面白い話を聞いた。台湾や中国等アジアでは、映画ポスター顔負けの派手な結婚写真を撮影して式場に飾ったりするのが盛んなのだが、二人はそれを撮影するために来日し、衣装や化粧をバッチリ決めて寺社にやって来た所、何かの番組撮影と間違えられ、撮影許可が無いからと断られたという。確かに日本には無い風習だよな。ましてや美貌のトリニーさんと来ればアジアのどこかの女優さんかなと思われたのかも。そんなわけでやむなく近くの竹藪で撮影したそうだが、中国風の衣装とマッチしていて、なかなかいい写真が撮れたようだ。トリニーさんは明日東京に出張するとのことで早目の解散をした。そんな多忙な時期に時間を作ってくれた上にご馳走にまでなってしまいただただ感謝である。

 

 予約していたタクシーでホテルを出発。台中はだだっ広いのかどこへ行くにもタクシーで長い時間がかかる印象を覚える。目的地の店には30分近くかかった。ここはバナナ新楽園というレトロな台湾をイメージした個性的なレストラン。

入口に使い古しの電車の車両がそのまま設置されている所、まず只者じゃない店だと肝に命じさせてから入店する。広い間取りの店内、壁中に古い時代の飲食店や百貨店の看板が林立する「街並み」に迎えられた我々、ウェイターに席へ案内されて改めてここが屋内であることを再認識する。

メニューと一緒に渡された台中観光地図もなかなか手が凝っている。とりあえず酢豚やチャーハン等ベタな中華を注文したが、美食の国台湾にしては味の方はいたって普通。地元の街角の中華屋とさほど変わらない感じ。しかしこの店の楽しさは箸を置いてからであろう。あれは桜かなあ〜、なーこが指す窓の外には咲き乱れるピンクの夜桜。造花ではなく本当に植えているようだ。周りを見渡せば気になるものばかり。しーちゃんをトイレに連れて行くついでに店内を散歩する。そこに築かれたレトロ台湾の世界への力の入れ方が半端無い。

駄菓子屋を彷彿させる商店やら、路地裏の床屋やら、恐らく蒋介石がこの地に移って来た当時の店舗をまるで移築してきたかのように店内に展示している。

店舗脇に貼られた広告や店先に置かれた床屋道具も当時のもの。正に古き良き時代の博物館かテーマパークを散策しているようだ。

レストランと言いながら、こだわる所が違う。こんな店が一軒ぐらいあってもいい。

しかもこの店、実は博物館と呼ぶのは間違いではなく、二階は「トイ・スペース」というおもちゃ博物館になっているのだ。年代物のキューピーやら、昔の映画に出てきたロボットやら、やや錆びついた船や車のブリキ製のおもちゃやらがショーケースに所狭しと並ぶ。

ペコちゃん人形はいつごろのものなのだろう。黒人と見紛うほどに黒ずんでいた。自分のどこかに残る少年心を呼び覚ます楽しい骨董オモチャの展示である。売られていた当時の箱までちゃんと残っており、これは高値が付きそうだなあ、なんて思って見ていた時、近くにあったポスターの写真の人物。そう、箱が残っていれば高値が期待できるとテレビの鑑定番組でいつもコメントしている北原鑑定士その人ではないか。日本一のおもちゃコレクターとして博物館を持っているぐらいだから、ここの館長も彼から大きな影響を受け、リスペクトしているのだろう。

ある一郭には日本統治時代の執務室のようなスペースが展示されていた。当時の剣道の装備や、武運長久という言葉と共に寄せ書きされた日の丸が飾られていたが、寄せ書きの名前が全て台湾人の名前だったのが印象的だった。当時の台湾の人は日本人として出征したわけだから当然存在しうるわけだが、なかなか見たことは無い。館長なり誰かしら関係者の血縁の人が遺したものだろうか。おもちゃの脇に少し垣間見る台湾の歴史。

  食事よりむしろこの店のレトロなテーマパークやおもちゃの展示の方ですっかりお腹一杯になった僕達はタクシーを呼んでもらい、帰途につく。運転手さんとちょっと言葉を交わしたら、僕が日本人で中国語を話すことにびっくりされ、ホテルまで盛り上がってしまった。もちろん途中途中で妻子には通訳しながら会話の輪に混じってもらう。運転手さんご自身の父親が日本統治時代の世代で、厳しいながらも道徳心をしっかり教わったという話を聞いており、日本人は大好きだと言っていた。息子が沖縄の女性と結婚し、孫が生まれたばかりなんだ。そう言ってスマホに入った赤ちゃんの写真を見せてくれた。息子家族に会うために家族で沖縄に行ったことがあるそうだ。昨年石垣島に行った時、巨大な客船が寄港しており、沢山の台湾人観光客を見かけたが、彼もその中の一人だったのかも。日本語はわからないものの、頻繁に沖縄のお嫁さんに翻訳ソフトを使ってメールやチャットをしながら孫の成長を確認しているのだとか。

 同質の言語や文化を共有する外国が他に無いという潜在的な不安からか、日本人には国ベースで親日的、反日的と安易に判断する傾向があるが、僕は正直そういう考え方が嫌いだし、危険だとさえ思う。そもそも親日の定義がよくわからない。国民の多くが日本語を話すことか、国民の多くが日本の文化・伝統に慣れ親しんでいることか、国民の多くが単純に日本を好きということか、政府間の仲が良いということか。いずれにせよ国民ベースで考えると、そこまで大規模ではないだろ、と思ってしまう。ただ、親日的な人物なら、どこの国にでもいる。それがどこであれ、日本を好意的に語ってくれる人に出会うと、それはそれで嬉しいものである。国をまたいだ家族。お互いもっともっと行き来して、幸せな時間を過ごして欲しいと願わずにいられない。今回の旅で一番中国語を話した一時であった。

  翌朝、枕元のリモコンをピっと押すと、自動的にカーテンが開き、壁一杯の窓から眩しい光が差し込む。うへぇ~、何だかスゴイ所だなぁ、と思いながら遥か下に見える台中の街を見渡す。出だしこそゴージャスであったが、朝食はとりあえず昨日台北駅で買った食べ残しのパンである。ま、自室でゆっくり食事というのもいいもんだ。

 

 

 さて、今日からの台中観光は是非行ってみたい所があった。ホテルの前でタクシーを拾い、約20分で到着した郊外の集落は「虹の村」と呼ばれている。タクシーにはここで待ってもらい、早速村に足を踏み入れる。

 村の前にはちょっとした公園があるのだが、おびただしい数の観光客に埋め尽くされていてびっくり。村の見学を終えてヒマを持て余した観光客とその子供達が夢中になって遊んでいた。しーちゃんも遊ぼうとしたが、大人のトレーニング器具のような遊具だったり、滑り台の階段も急だったりでちょっと尻込みしていた。やはり公園の遊具一つ取っても日本と外国では違うみたいだ。とりあえず僕達の目的はここではない。不思議な村に入ってみよう。

 

 そこは元国民党兵士を中心に作られた村なのだが、そこに住む黄さんというプロの画家でもない男性が、自宅の壁にカラフルかつ独特な絵を描いているうちに、キャンパスはやがて周辺の家々へと広がり、いつしかここは「虹の村」と呼ばれるようになった。台湾映画の舞台になったこともあり、最近台中における人気観光スポットになりつつある。

 

 公園のすぐ目の前にある二、三軒の家の壁という壁は赤、青、緑、黄色等の原色で染め分けられ、その上には何やら不思議なキャラクターや動物の絵が所狭しと描かれている。幾何学模様を背景に猫や鳥ばかりがいたかと思うと、異形の人物(怪物?)、現代の子供、中国の古い神様、有名人の名前を冠しながらも全く似てない人物等々、それぞれ意味不明ながらも自己主張だけは伝わってくる。

 

大勢の観光客はそれぞれ何か気にかかる絵の前に立って記念撮影に勤しんでいる。特に現地では何か意味があるのか、単に縁起がいいからか、中国の神様の絵の前では撮影する人々が後を絶たない盛況ぶりだった。

 

一つ一つは決して上手な絵ではない。だがここまで徹底的に描いて、描いて、描きまくられると、その行為自体が誰にも真似できないアートと化しているように感じる。今や一人の男が作り上げた帝国と言っても過言ではない。そんな黄さん、村中の家にこれだけの絵を描く際、描かれたよその家の人はどう思っていたのだろうか。今や「虹爺さん」という愛称まで持つちょっとした有名人となっているが、昔はその辺どうだったのだろう。

家と家の間の小さな路地に入ると、突き当たりがやけに賑わっていた。そこはお土産売り場であり、売り子達の真ん中には、これら全ての絵の作者である虹爺さん本人が座っていた。テーブル一杯に壁画をデザインした絵葉書やら、Tシャツやら、ビーチサンダルやらが売られていた。これらに描かれている絵はどこかきれいきれいしていて、原作をデザイナーがアレンジしたような感じ。たまたま僕達が土産の物色でもしようかと人混みの中に近付いたその時だった。虹爺さんがニッコリ微笑みながら手元にあるカードを二枚しーちゃんに手渡してくれた。この混雑の中でたまたま目が合ったようだ。作者ご本人から直接カードを頂けたなんて、しーちゃんラッキーだったかも。古代の土偶か、岡本太郎の絵を彷彿させるような、顔のある太陽の絵が描かれたカードであった。他にも子供は一杯いたが、特にみんなに配っているわけではないようだった。爺さんの座る脇にあるカンパ箱に小銭を入れれば、爺さんと写真も撮れるようなので、記念に一緒に撮らせてもらった。この不思議な村や彼の作品についていろいろ聞きたい気持ちも最初はあったが、この混雑な状況下、撮った後にお礼を言うぐらいしかできなかった。

 

しかし村という割には爺さんの絵で彩られた家はものの二、三軒。意外と小規模だったなと思っていると、工事中立入禁止の札と金網で仕切られたエリアがあり、絵の村はその金網の向こうにも広がっているようだった。改修工事だからここから先は見ることができない。もっと散策ができるのかと思っていただけに少しがっかり。最近、台中市政府がこの村保存のための支援に踏み切ったらしい。改修工事もその一環なのだろう。

台湾に来て気付いたこと、意外と朝が遅い。お店や観光地はほとんど軒並み10時半から営業を始める。そんな中、いつでもオープンであるこの村は早朝から始まる観光ツアーにとっては貴重な場所なので、どのツアーもまず最初にこの村へやって来るのだ。大混雑するわけである。

 

 再びタクシーに乗り込んで向かったのは「無為草堂」という茶芸館。池のある庭園を見ながら中国茶を楽しめる空間ということを事前に知り、行ってみたかったのである。古風な店内に入り、池沿いの席を希望した所、入口入ってすぐにある座敷スペースを案内された。靴を脱いで上がる畳席が左右二区画ずつ分かれていて、奥の扉の向こうに池があった。座敷のうち一か所には日本人の婦人二人連れが先客としてお茶を飲んでいた。

 手前の座敷にとりあえず腰を降ろすと、英語も日本語もカタコトの小太りな女性店員が現れ、メニューと一緒に中国茶やこの店のコンセプト等が日本語で書かれた紙を置いて行った。とりあえず僕は一番好きな中国茶である鉄観音、なーこは凍頂烏龍茶、しーちゃんはハイビスカスティー(彼女の言葉を使うと、「冷たいお茶ジュース」)を注文。しばらくすると店員が小さなコンロを持って来て、急須のお湯を沸かし始めた。テーブルの上にはコンパクトな茶具。そして紙コップに入った見慣れぬ粒。どうやらこれは中庭の池にいる鯉用の餌らしい。とりあえずお湯が沸くまでの間、店内を少し散歩。座敷奥の扉を開けるや、いきなりバシャーン!と水柱が上がる。どうやら先客の日本人が大量に餌を池にバラまいたので、鯉達が一斉に飛び上がったようだ。池を囲む回廊を渡った向かいは中国伝統様式の東屋となっており、部屋には古い時代の家具や骨董が並べられていた。

その昔は由緒ある家だったのだろうか。部屋の近くに個室席が数か所あったが、僕達はなぜかそこには通してもらえなかった。窓から池をすぐに眺められるいい席なのだが。その後台湾人の家族客がそこへ案内されていた。この茶館では昼食も出しており、昼食込みの客はこうした個室で食べられるのかも知れない。回廊ではしーちゃんが「おさかな、おさかな」と言って鯉に餌をまいていた。鯉のいる水面からは上品にチャポン、と慎ましやかな音だけが響く。まるで板に付いてるようなまき方ではないか。ま、楽しんでくれればそれでOK

 鯉との戯れを終えると、ちょうどお湯が沸いたので、茶葉の入った別の急須にお湯を移し替え、茶葉を洗浄する意味で一度目のお湯を捨てた。続いて細長い筒型の湯呑にお茶を注ぎ、一呼吸してからもう一つ対になっている小さな湯呑の方にお茶を移し替える。

小さな湯呑のお茶は三口で飲み干し、筒型の湯呑の方は残ったお茶の香りを楽しむ。厳密にはもっと細かなステップがあるが、中国駐在時代に茶具まで購入した僕はとりあえずその辺ぐらいまでは心得ていたので、伝統建築と庭園の心地良い雰囲気の中で何杯かその黄金色の中国茶を楽しむのだった。それにしてもこの店、日本人客が多い。先客が帰った後に来た若いカップル、そしてその後に来た中年の男女連れも日本人であった。畳部屋だからここに連れて来られるのか、台中では日本人にも有名なスポットなのか。

 

 そろそろお腹が空いてきた。昼食を食べに行くとするか。

 

大変ご無沙汰しております。旅もご無沙汰だったのですが二年も更新していなかったんですね。今年3月、台湾旅行に行ってきました。旅行記新シリーズを始めたいと思いますのでまたどうぞよろしくお願いいたします。

 

上海に駐在していた時、旧正月の連休で台湾を訪れた。ほとんどのお店や名所はクローズし、駅周辺も外国人労働者以外ほとんど人気の無い台北に一人ポツンと過ごした日々。コンビニでおにぎりを買い、総統府前のベンチで一人頬張りながら、こんな所で一体何してるんだろう、と自問自答しただけの旅。周囲の友人に台湾好きが多い中で口にはしづらかったが、これまで訪ねたアジア40数カ国の旅の中、僕の中で最も楽しめなかった国となってしまった。僕はこの国の楽しみ方を知らなさ過ぎた。旅の終盤、夜明け前から一人阿里山を登頂し、霧の中から眩しく輝くご来光を見ながら次回来る時はもっと楽しんでやる、とリベンジを誓ったのは民国89年、つまり2000年の出来事だった。

 

とうとうあれから十数年の時が過ぎ、家庭を持つ身となった。子供も生まれたので、2013年のキルギス、カラカルパクスタンの旅を中締めにアジア旅も控えていたのだが、今年職場でちょうど勤続休暇を頂けることになり、家族初の海外旅ということで、台湾リベンジ再訪プランが沸き上がったのだった。今年で3才になる娘、しーちゃんは台湾どころか、ここが日本である認識すら持っていないし、まだグルメや観光を楽しむには早い。そして外国語が全くNGの妻、なーこ。この二人と一緒にそれぞれが楽しみたいスポットをまとめ、プラン実現に向けて力を合わせる。これまでの一人旅とは全くスタイルが異なるとは言え、家族での旅行もまたある意味新たな旅への挑戦ではないか、そう思ったのだった。

 

 朝6時に起床。しーちゃんも一応起きるが当然まだ眠く、ギャン泣き状態から一日がスタート。羽田空港までのエアポートバスの道中はとりあえず順調。幼児からすればいつまで待つのか、どこまで歩けばいいのか、そもそも目的地に着いたのか着いていないのかも想像つかない中で乗り継ぎをこなし、更に台北行きの飛行機の約三時間、おとなしく座っていてくれたことに拍手である。最近ディズニー映画にハマっているので、機内上映されていた新作「モアナと伝説の海」が彼女の心を掴んだことに随分助けられた。

 午後3時頃、台北松山空港に無事到着。三人それぞれが持つ最新のパスポートに初めての入国スタンプが捺された。荷物を受け取り、通関ゲートを抜けるや否や、のど渇いた、お腹すいた、お菓子食べたい、帽子かぶりたい、パズル(自宅から持参した)で遊びたい、バギーはヤダ、抱っこ! ガマンした分だけしーちゃんのワガママ大爆発。荒れる彼女をなだめ、何とかタクシーに乗り込んで一路台北駅へ。今回のプラン、最初の訪問地は台中なので、ここがゴールではない。これから高速鉄道に乗るのだ。駅到着時に支払った台湾ドルの中に、僕が前回訪台した時に手元に残った100ドル札が混じっていたのだが、これはダメと突き返された。あぁ、早くも時代の変化に直面。

 

 駅に入ると高速鉄道を意味する「高鉄」と書かれた窓口を発見。長蛇の列に並ぶ中、しーちゃんが力尽きて眠りだしたので、なーこが抱っこし、僕が全ての荷物を担ぐことになる。「妊婦・障害者専用」という窓口の列は空いていたが、「幼児連れ」とは書いてないからやっぱりダメだよね、と普通の列の最後尾に並ぶ我々はやはり日本人。並ぶこと約ニ十分。順番が来るまであと二人になったその時だった。急に駅員が現れて大きな声で言った。

 「ここは予約券の窓口なので、当日券をお求めの方は地下の専用窓口に行った方が早いです。」

「当日券」という言葉につい反応し、この列では当日券は買いにくいのかと判断してしまった僕、思わず列から離れ、地下の窓口へ足を進めていた。結局そちらの窓口もそこそこ行列ができており、更に10分か15分並ぶことに。今思えば、あのまま待っていればすぐに順番が回ってきたものを、ちょっと痛い早とちりであった。ずっと娘を抱っこしているなーこには負担をかけてしまった。一番早い午後5時半発の台中行きは少し混んでおり、三人並んで乗りたいのなら、次の620分発がお勧めだと窓口のお姉さんが親切に教えてくれたので、最終的にベストな切符を入手することができた。ま、最初の窓口は予約用だったわけで、僕達があのまま並んでいたとしても、当日券はここじゃない、と突っぱねられる可能性もあった。結果で見ればこれでよかったのかも知れない。

 

 しかしなーこが熟睡の娘の対応をしている以上、僕は背中にリュック、肩にはバッグ、右手に大型のトランク、左手に折りたたまれたバギーという状況。重い物で両手が使えない中、更に車中で食べるパン類や飲料水を購入しなくてはならず、正直疲れは限界に来ていた。これまでの旅では体験したことの無い別のハードさを実感。ともあれ高速鉄道の待合ロビーまで何とか移動でき、やがてしーちゃんも目を覚ます。肩車などしてあやしているうちに6時が過ぎ、発車時間が近くなった。エスカレーターでホームに降りた我々一行、わかりにくい乗り口の場所を近くの人に聞きながらとりあえず無事台中行きの鉄道に乗り込む。

この高速鉄道は新幹線の車両技術を取り入れていることから、別名「台湾新幹線」と呼ばれている。その別名は早くて快適なイメージを日本人に与えてくれるものであるが、もし新幹線と同じ仕様なのであれば一点不安な部分があった。大きい荷物を置ける場所が少ないことである。もし日本の新幹線であれば座席が狭いのでトランクなどは足元に置けない。乗り口近くの荷物置き場は早い者勝ちですぐに埋まってしまうし、座席上の網棚では幅が狭くてトランクは置きにくい。しかも雰囲気的に自分の座る場所の真上スペースしか使えない。しかし乗車してすぐにその心配は無用なことがわかった。前の座席との距離が確保されているため、トランクを十分自席スペースに置けるのである。やれやれ、楽ちん、楽ちん。なーこもしーちゃんもゆったり座れてご機嫌だった。

 列車は無事台中駅に到着。しかし高速鉄道の台中駅、実はかなり郊外の烏日(ウーリ-)という所に位置しており、街の中心へはここから更にローカル線に乗らなければならない。実際この駅はローカル線の烏日駅と隣接しており、ここからローカル線台中駅に行くことが次の仕事だ。

高鉄台中駅の改札を抜けた先にズラっと並んでいたのは丸亀製麺に、大戸屋に、山崎パンに、ロイヤルホスト。お寿司屋さんもある。これでもかというぐらい日本食や日系レストランの数々。台中って、日本とそんなに密接なのだろうか。腹も空いていたので思わずフラっと入りたくなったが、台湾に来て最初の食事が日本食というのもナ、という思いがブレーキになった。とりあえず隣接する烏日駅の場所へ歩いて行くと、巨大な段ボールで作られた汽車やロボット、お寺までもが飾られたスペースがあった。

段ボール紙工作の博物館があり、大型作品を館外、つまり駅の連絡通路上に展示しているみたいだ。博物館のロケーションにもびっくりだが、更に驚きはしーちゃん。これら作品の中から大好きなトトロを見つけたかと思うと即座に駆け寄り、その隣にちょこんと立って、写真を撮ってくれとアピールするのだった。

 切符売り場は人がいるのかわからないぐらいガラガラ。地元民はみんな磁気カードを持っているから紙の切符を買うことが無いためであろう。ともあれ台中駅方面のホームに出ると、停車していた電車は何と満員状態。どうせここから三、四駅ぐらいなはずだし、これをやり過ごして次の電車に乗ればいいや、と思っていたのだが、まだ出発する気配はない。ひょっとして頻繁に出る路線ではないのだろうか。不安になったのでその満員電車にそっと乗り込む我々三人。あと数駅の辛抱だ、と思ったその時だった。小さい子供を連れていたためか、席に座っていた二人の女性が突然立ち上がり、僕達に譲ってくれた。この混雑の中、予想していなかったありがたい展開。長旅の疲労もあったので、深く感謝して席に座らせて頂く。そして台中駅に到着したのは出発して20分後であった。

 

 ホテルまでの移動手段はタクシーしか無いので、タクシー乗り場があるという地下駐車場まで降りる。エレベータで降りると、そこはただの車のジャングルであり、どこからタクシーに乗るのか全然わからない。たまたま近くにいた中年女性に聞いてみると、そこの人達は日本人だと思うから、聞いてみたらと反対方向に立つ三、四人の女性達を指差した。ほう、日本人かと思ってその人達に日本語で声をかけると、返事はどうもぎこちない日本語だった。何だ、台湾の人じゃないか。雰囲気で気付けるはずだったが、ここまでの道中の疲れか、地下駐車場の薄暗さゆえかすっかり日本人だと信じてしまった。それにしてもいきなり日本語で声をかけた相手がちゃんと日本語できるなんて、すごい偶然。結局日本語を話せる女性達も乗り場はよく知らず、タクシーが通り過ぎたら運転手に聞いてみたら、とアドバイスしてくれた。次の瞬間、うまい具合に一台のタクシーが目の前を横切り、すぐに一時停止した。よし、捕まえようと思ったその時、最初に声をかけた中年女性の方が一足先に運転手の方に駆け寄り、この人達を乗せてやってくれ、と僕達を指しながらタクシーを引き止めてくれた。きっと乗り場は別の場所だったのだと思うが、運転手は快くこの場で僕達を乗せてくれた。親切な彼女達に謝謝、とお礼を言って乗り込んだその時、僕達はハっと気付いた。この中年女性、さっき電車で僕達に席を譲ってくれた人だったのだ。同じ人に二回も助けられてしまったのか。気付かないで声をかけていた自分がちょっと恥ずかしかったが、本当に感謝、感謝である。

 

 ホテルに向けてタクシーを走らせていたその時、パパパン、と大きな爆竹の音が鳴り響いた。しーちゃんもびっくり。今は旧正月ではないし、一体何だろう。しばらくすると色とりどりの旗を掲げて踊る人々を先頭に、中国風の獅子舞やお神輿のようなものを担いだ一団が対向車線の道路を普通にパレードしているではないか。最後尾には荷台スペースに小劇場を設けたトレーラーが続き、中には京劇のような装いの人々がいた。地元のお祭りだろうか、旅芸人の一座だろうか。運転手に聞いてもわからない様子で結局謎のまま。

 

 駅を出て30分近く経とうとした頃、群を抜いた高層ビルの前でタクシーは停車した。今晩の宿であるホテル・ワンは台中最高層の建物だとか。本来の金額だったら到底宿泊先として選ばない種のホテルであるが、たまたまキャンペーン中だったので中級ホテル並みの価格で予約できたのである。チェックイン時のフロントのお姉さんも明るくて親切で、42階の部屋まで案内してくれた。台中の夜景をじっくり楽しめる壁一杯の出窓と自動開閉のカーテン。先程の花火がここから確認できるが、かなり低い場所で繰り広げられている所、このホテルはどれだけ高いのだろう。

 

 ここにずっといると居心地良過ぎてそのまま眠りについてしまいそうなので、夕食でも食べに行くことに。はて、ここに来るまでにどこか大衆的な食堂があっただろうか。まだそれ程遅くはない時間帯とは思うが、歩く人はまばら。そもそもこの巨大ホテル以外には公園のような所しか無いし。今晩は残ったパンか、高いお金払ってホテルの食堂で食べるしか無いのかな、と思いかけたその時、なーこが大通りの車道を挟んで向かい側に飲食店らしき看板を見つけた。よく見ると「魯肉飯」と書いてあるではないか! 台湾のソウルフード、魯肉飯。以前台湾を訪れた時は春節で飲食店の多くが閉まっていたためにありつけず、初めてそれを食べたのは結局渋谷の台湾料理屋だった。本場の魯肉飯を初日に食べられるなら、最高のスタートじゃないか。僕達は通りを渡り、店の中に吸い込まれていった。

 空いている席を一か所見つけて座ると、店員がメニューと注文票を持って来た。欲しい料理に必要数を書き込む注文票。香港の飲茶屋とか、上海の火鍋屋で見られるが、台湾では飲食店全般で使われているようだ。とりあえず僕は魯肉飯、なーこは豚肉飯、それに蝦巻を注文した。やって来たご飯は量こそやや少な目だったものの、かき混ぜると肉汁が茶碗のご飯一杯にじゅわっと広がるので、量的にこれが黄金比率なのだろう。柔らかくて口溶けよい肉に大満足である。

しーちゃんの分を取り分けようとしたが、「白いご飯が食べたい」と言ってあんまり食べなかった。一方で蝦巻は気に入ったらしい。ぷりぷりの蝦をくるんだ長細いシュウマイのような感じで、これもまた当たりであった。飲み物は持参のペットボトルの水を飲んでいたが、特に何もお咎め無いのはアジアならではのおおらかさ。僕は魯肉飯をもう一杯おかわりししまった。初日の夕食で路頭に迷いかけた所、なーこ、ナイスな店を見つけてくれた。

 翌朝、民家の窓から射す光に起こされて外を眺めると、穏やかな青空が見えた。最後のメインイベント、念願叶って天気も味方してくれるようだ。

  早速僕達はパロ郊外のタクツァン僧院のある山へ。一部が削れて断崖絶壁となっており、一見険しそうな山であるが、実際歩いてみると緑の多いなだらかな山道 であった。途中途中に祈願の旗「ルンタ」やマニ車のお堂、澄んだ水が勢いよく流れる小川や滝があったりで、昨年ネパールに行った時のヒマラヤトレッキング にも雰囲気が似ており、気分も快調。そして何より他人のペースに惑わされず、徹底的に自分のペースで登ることを心がければ消耗は最小限で済むというネパー ルでの教訓を思い出したので、リラックスしながら登った。ジグザグの山道に沿って歩くのがイヤなのか、どんなに険しくても真っ直ぐ突っ切って登るインド人 の親子。何やら仏教的な旗や数珠を手にワイワイ賑やかに登って行く台湾の仏教団体らしき一団(R子 さんはいつの間にかこの一団とも仲良しになっていた)。そして聖地巡礼ゆえか美しいキラ姿で登る若い地元の母娘もいた。やはりヒマラヤは世界中の人々を呼 び寄せる場所なのだろう。山登りが苦手な人向けにロバに乗って山頂近くの休憩所まで行くサービスもあるらしい。シンゲさんによると、以前超巨漢の米国人女 性がロバに乗って山頂に行こうとまたがった所、あまりに重量過ぎてロバが道中で押し潰され、そのまま死んでしまったという笑えないエピソードもあるそう だ。

 緑に包まれた山中をゆっくり登ったり、下ったりを繰り返していくうちに、やがて空の視界が開けてきた。

僧 院を目の前にできる休憩所に到着した。この建物も崖っぷちにあるのだが、目の前の深い谷を挟んだ向こう側の絶壁に目的地はあった。こんなにも垂直に張り付 いているのかと、思わず身震いしてしまいそうな寺院。ほんの僅かに出っ張った部分の上に建てられている。「タクツァン」とは虎の巣穴という意味で、かつて グル・リンポチェが修行の最終段階にふさわしい場所を求めて空飛ぶ虎の背中に乗っていた所、その虎があの絶壁に降り立ったという伝説から付いた名前であ る。実際空を飛んだかどうかは別としても、そういう背景でも無い限り、あんな場所に寺院を建設するなんて発想自体起こらないだろう。つい崖から身を乗り出 して見入ってしまうが、それで転落死した外国人旅行者もいるそうなので、気を引き締めてから寺院に向けて再出発するのだった。

  一見絶壁に張り付いた寺院で、そこまで行く方法が無いように見えるが、よく見ると絶壁を削って回廊や階段が作られていたり、吊り橋がかかっていたりして、 意外とスムーズに到着した。いざ来てみればそんなに怖くもなかったが、前進するにつれて岩と岩の間から本堂が少しずつ現れた時はダイナミックであった。山 門から先は撮影禁止。階段を昇って拝観した各部屋は全体的にシンプルな出で立ちであったが、壁も床も全てこの崖の形にぴったりはまるように作られており、 建築家の仕事に感服してしまった。洞窟をそのまま使った修行場もあり、奥まで行ってみるとお守りが売られていた。二平方センチぐらいの四角いプラケースの 中にグル・リンポチェの仏画が布に縫い込まれている。このケースの中には小さな経文も入っているらしい。ブータン最大の聖地のお守り、ご利益ありそうだ。 以降僕はこれを常に身に着けることになる。

何 だか岩の中の要塞のような聖地であったが、外に顔を出すと頭上には青、黄色、赤、緑、オレンジ等カラフルなルンタが運動会の万国旗みたく連なっており、青 空の下で音を立ててはためいていた。こんな場所で日々苦行を積む僧侶達も、たまにここから青空を見上げて、これらルンタの色彩や音から希望をもらうことも あるのかな。

 夕方、トレッキングを終えてクンガ家に戻ると、一階勝手口の方でクンガさんが何やらせっせと働いていた。黒く焦げた石を一つ一つ釜戸で焼いているのだ。

今晩、この家で石焼き風呂「ドツォ」を体験できる。どこの家にもあるわけではなく、やはりそれなりに裕福な家庭にのみあるため、たまに知人や友人、親戚等が使わせてもらいに来るのだそうだ。とりあえずレディーファーストで女性陣に先に入ってもらい、僕とO氏 はその後で入った。ドツォは二カ所あり、次の人がやって来る前に働き者の運転手さんがデッキブラシで浴槽の周りを洗ってくれていた。大きな木箱のような浴 槽には、人が浸かる大きなスペースと焼けた石を入れる小さなスペースが一枚の板で仕切られている。先程クンガさんが焼いていた石をこの小さな方のスペース に入れて風呂全体を温めているわけだ。シャワーや水道の蛇口、そして洗い場も無く、浴槽の外はむき出しのコンクリートの床なので、頭や体を洗う時は少し苦 労したが、滞在中はずっとシャワーだっただけに、トレッキングの汗や一週間の旅の疲れもここできれいに洗い流すことができた。

 その夜、夕涼みがてらO氏 と外を散歩したが、辺りは田畑意外何も無く、もちろん街灯も無いので、滑ってどこか沼にはまってしまったらまずいと思い、早々に家に戻ることにした。しか しこの家、呼び鈴は無く、ノックしても中の人に聞こえないようだ。さて、どうしたものかと困っていると、僕達のすぐ隣から扉に向かってニャア~、と叫ぶ声 が聞こえた。はっと足元を見ると、そこには散歩帰りらしきこの家の猫がいた。すると何と、扉の向こうから階段を降りて来る足音が聞こえ、運転手さんが扉を 開けてくれた。猫の方が経験豊富だったか。ホっとして家の中に入ると、先程の「ドツォ」のあった方からクンガさんとシンゲさんが談笑している声が聞こえて きた。ラジオもかけているようで、涼しい秋風と共にのどかなブータン歌謡曲も微かに聞こえてくる。至福の時間を過ごして下さいね。もちろん運転手さんも!

 翌朝、僕とO氏は最後の早朝散歩に出た。朝から元気に草を食む牛に挨拶し、田んぼの畦道を通って土手の上の道路に上がる。そこはちょうど地元の子供達の通学路となっていた。ゴやキラを着た小学生達が目の前を通り過ぎて行く通学風景。O氏はここぞとばかりに彼等を呼び止め、シャッターを切っていた。もちろん僕も便乗して一緒に撮影した。撮らせてくれを言われればみんなきちんと写真に収まってくれるが、他のアジアの国の子供のように撮ってくれと集まってくるわけでもなく、ややクールな感じがした。

 「もう十分でしょう。」

 「いや、あともう一人!」

O氏の気が済む所まで撮影をした後、クンガ家に戻ってご夫婦に挨拶をした我々一行は パロ空港へ向かった。空港着後、シンゲさんはゴの帯の辺りをたるませたポケットから「ハタグ」と呼ばれる白もしくは青色をした細長い布を取り出し、我々一 人一人に手渡した。これはチベット文化圏におけるフォーマルな場での挨拶だ。僕達は滞在中完璧な日本語でプロの仕事をしてくれたシンゲさんに感謝を込めて 深々と頭を下げてこれを受け取り、別れを告げた。

  飛行機に乗り込む直前の出来事。手荷物のセキュリティの所で、係員が僕の荷物の中にあった虫よけスプレーをなぜか怪しんでチェックを始めた。まるでスプ レーを初めて見るかのようにひっくり返したり、振ってみたりしながら不思議そうに凝視している。この時思わず噴射スイッチを押すや次の瞬間、隣の係員の顔 面に向けてシューっと浴びせてしまい、その場にいた人達は大爆笑。噴射してしまった係員、自分が笑われたと感じて悔しかったのか、顔を真っ赤にして僕の荷 物の中の物を全部取り出し、腹いせに厳格なチェックを始めてしまった。お蔭で僕だけがここから出るまでに10分から15分かかってしまい、待たせてしまった他の四人からは「Ling Muさ んだけまた怪しまれましたねぇ~」と笑われてしまった。通常なら機内に預けるぐらいの荷物なんて持たない主義なので誰よりもスムーズに空港を出入りできる と自負していたのだが、液体の規制を甘く見てスプレーを持ち込んでしまったことが行きも帰りも失敗であった。特にツアーの場合では荷物を預けてしまう方ス マートなこともあるのだな、と痛感した。

 

  かくして謎のベールに包まれた国の旅の前編が終了した。最近まで半分鎖国を行ってきたため、限られたメディアの影響から何となく古き良き幸せな村、という 印象だけが先行していたブータン。そんなブータンも今や史上最大の転換期を迎えたと言っていい。ただ斬新な反面いろいろな矛盾を抱え込みながら走り始めた 改革という感じは否めない。かつて絶対王政を敷いていた政権が国民を説得するように始めたトップダウンの民主化。パロ空港を拡張し、観光客を倍増させると 意気込みながらも依然高い外国人入国者へのハードル。伝統的価値観を最重要視しながら国語以上に英語が上手になっていく若者。そしてネットを通した外国の 文化や情報の流入。この激変を前に現在の環境をどう守っていけるのかが今後の舵取りのネックとなるだろう。経済発展よりも国民レベルの幸福を重視する政策 が世界的にお手本として注目されていることはもちろんよいことであるが、産業少ないこの国で福祉や教育を充実させるには、神秘のベールの向こうを見てみた いちょっとマニアな外国人観光客を収入源とする手段しか今の所無いようだ。しかしこれ、舵取りを一歩間違えるとこの国の神秘性は瞬く間に薄まり、マニアな 外国人が遠ざかってしまうのではないか。国民をより自由で豊かにしていくことと、この国の大切なものを維持すること。両者いずれも欲しいなら、どちらにも 偏り過ぎない穏やかな開放を続けるしか無いのだろう。かなり難しいと思うが、そこは仏教的中道主義を理解するブータン人ならうまく乗り切っていけるのか な、と少し期待もしてみたい。

 この改革の後のブータンがどうなっていくのか引き続き注目はしていきたいが、まだまだ自然や伝統的な部分も多く残っている不思議な王国という雰囲気は十分残っていたので、旅人としては今のタイミングに来てよかったのかな、と思う今回の旅であった。

                                                      (完)

読んで頂きありがとうございました!次回はもっともっと謎のベールに包まれたあの国のレポートを再開します。


 一行は山道を進む。この山よりもう数キロ北へ行くと中国との国境らしい。チベット難民がこの山を通って脱出してくることもあるとか。隣国でありながらブータンが中国と外交関係が無いことを初めて知った。

20セ ンチはありそうな巨大松ぼっくりが転がっているのに驚いたり、この辺りで見られる松茸摘みツアーや国花ブルーポピーを見るツアー等を考案したシンゲさんの 話に耳を傾けながらプチ森林浴を楽しむ。ここはパロ市内からちょっと離れた山間部。なぜこんな所にいるかと言うと、パロ旧跡観光の名所がこの辺りに多いか らだ。

最 初に訪れたのは、かつてのゾンを改造したタ・ゾン国立博物館。円柱形で六階建ての建物だが、フロアごとの面積はそれほど広くはない。ブータン初期王朝の時 代からの生活用品や仏像等が展示されていたが、この国に来てから毎日寺院を見学している僕達にはやや食傷気味だった。グル・リンポチェの像など、あ、また お会いましたねって感じ。この博物館で驚いたのは、ここ僕が幼い頃集めていた切手コレクションの中でたまたま持っていたブータン切手と同じものが展示され ていたこと。そして外国人の入場料が現地人の20倍であることが入口に大きく表示されていたことだろうか。

 見学後、引き続きもうしばらく山歩きを楽しんでいるうちに、やがて昔の砦の跡という遺跡に辿り着いた。遺跡と言っても17世 紀のものだそうで、他のアジアの国々の遺跡と比べれば古くもないが、多くが土と木で作られているので廃墟的な雰囲気は十分にあった。ここの近くに張られて いた一枚のポスターがちょっとびっくり。パロ市内のどこかのクラブで「マスカラ・パーティー」なるイベントが行われるというもの。ブータンにもこんなクラ ブがあってDJがいるんだな。それにしてもこの廃墟近辺に張ってあるとはシュールである。どんなパーティーなんだろう。

  経文や仏画がデザインされたルンタと呼ばれるカラフルな旗がそこかしこに結び付けられた橋。あまりに沢山の旗で両脇の景色がほとんど見えなくなっている。 旗と旗の隙間から微かに見えた向こう側に下校途中らしき学生達がやって来るのが見えた。僕達がちょうど渡り終えた時、彼等は対岸の袂の辺りで腰を下ろして いた。

ゴ の少年一人とキラの少女三人である。何をしてるの? と尋ねると、これから買い物に行くので、友達をここで待っているのだという。僕達は彼等に教科書やノートを見せてもらうと、全て英語であった。日本アルプ スみたく山と川と橋しか見当たらないのどかな村を行く着物のような服を着た子供が英語を完全に理解し、英米の最新ニュースさえも直接キャッチできてしまう なんて、もうこの世に秘境なんて無いのだな、と実感する。たまたま見上げた空は雲の間からいくつもの光が降りてくるような神秘的世界を描いていた。空さえ もあんなに秘境を演出しているのに…。

 その後僕達はこの地に仏教が伝来した7世 紀建立のキチュ・ラカンという古寺と、のどかなパロ市内のメインストリートを少し散策し、いよいよホームステイ先の家へと向かった。郊外のシャバ村。辺り は一面田んぼ。所々で牛が草を食む牧歌的な田舎風景。こんな風景に似合うのは昔話に出てきそうな藁ぶき屋根の小屋であるが、今回ステイするクンガ家はもち ろん伝統的な民家であるが、結構スケールが大きい。

ざっと窓を見ただけでも三階建てのようだ。ま、今回僕達のツアーはたった5人 だけど、通常ならもっと多いはずだし、それだけの収容能力を持った家がステイ先として選ばれるのだろう。庭先では猫や鶏が駆け回るのどかな雰囲気。白い壁 には巨大な男性器の絵が描かれていた。これは「ポー」と呼ばれ、ブータン各地の寺院や民家で見られる。子孫繁栄を象徴する縁起物だ。あまりの露骨な表現に 思わずギョっとして目を疑ってしまうが、実は他の国の民間信仰でも見られる描写。日本でも田舎の古いお店の神棚に飾られていたのを見たことがある。ブータ ン滞在が長くなるにつれ慣れてきたものの、我がツアーの女性陣がこれを見て、何の恥じらいも無くキャッキャと騒ぎながら写真を撮る様子だけはどうにも慣れ なかった。

  さて、我々はこの家の細くて急な階段を上がって、二階辺りの客間に通された。板の間にそのまま胡坐をかく形で一同座ると、この家のお母さんにチベット風の ミルクティーを振舞われた。底の部分に極彩色の民族文様が施された竹編みの皿には小さな豆のようなつまみもが入っていた。ここのお母さんもそうだが、ブー タンの中年女性はなぜか髪が短く、ヘルメットのように前髪を揃えたいわゆる坊ちゃん刈りの人が多い。シンゲさんによると、短い方が農作業等の仕事をしてい る時も気にならないから、ということだが、長い髪を持つ若い女性があの頭になるのは何歳ぐらいからなのだろうか。

(参考:ブータンの中年女性。ここで登場するクンガ家のお母さんではありません)


  泊まる部屋は男女別々の相部屋。荷物を置いた後トイレを借りた。教えられた一階の扉を開けるとすぐに下り階段があり、おっとっと、とよろけてしまった。こ の階段を降りた所はトイレと言うより馬小屋のようなスペース。床には藁が敷き詰められている。そしてなぜかこの部屋の隅に五、六段程の昇り階段があって、 便器はその階段を昇った所にあった。こんな構造のトイレは今まで見たことが無い。今でこそ水洗式だが、ひょっとするとかつてここで用を足した後、落とした モノはそのままブタ等家畜の餌にしていたのではなかろうかと、思わず推測してしまった。

 

 夕方、食事が始まる頃にこの家の主人クンガさんが帰って来た。60代 ぐらいの方だが声は太く、体もガッシリしていた。一宿一飯のお世話になる僕達が各自用意した手土産をクンガさんに手渡して挨拶している時、お母さんの手料 理が運び込まれたので、一同車座になって頂くことにした。今晩の家庭料理は比較的シンプル。イズィというトマト、タマネギ、トウガラシを塩で和えたサラダ のような料理とご飯がお皿一杯に盛り付けられていた。当然のことながらトウガラシは香辛料ではなく野菜としてガッツリ入っているので、見た目はマイルドな サラダだが、かなり辛い料理である。これまでブータン料理はホテルのバイキングの中のほんのオマケ程度に添えてあっただけだが、それでも既に何度かお腹に きていた女性陣は「ブータン料理、もうこりごり」といった雰囲気であった。クンガさんはその大きな手でガシっとイズィを鷲掴みすると、そのまま口に放り込 んで、うまそうに舌鼓を打つ。うまいぞ、と勧めるクンガさんに誰も応える勇気が無い一行。ここでひるんじゃ日本人の名が廃る、とまで思ったわけではない が、それでは僭越ながら、と僕が手を上げ、イズィを一握り口に運び、平然とした顔を保ちながら、うん、シメー(美味しい)、とゾンカ語で答えた。おう、コ イツ、なかなかやるじゃないか、とクンガさんは更にもう一掴み口に放り込み、続いて僕がもう一口、といった具合に、辛い料理ガマン対決のようになってし まった。表情とは裏腹に僕の口は辛さとしょっぱさが光の速さで大回転し続けている。そこに料理の味わいというものは無い。当然ブータン人相手に勝てる気は しないので、その後すぐにご飯の方に移らせてもらった。食後腹が騒ぎ出し、早々にあの馬小屋トイレに駆け込んだのは言うまでもない。

続 いて出て来たのは銀の輪っかが四カ所にはめられた黒い円筒形の水筒。中にはラクという蒸留酒が入っており、一杯ずつ振舞われた。我々一行の中には僕含め酒 に強い者はおらず、少しなめる程度ではあったが、辛過ぎる料理から解放されたことでクンガさんのお話に耳を傾ける余裕が出てきた。

  シンゲさんの通訳で聞いた話によると、クンガさんは何と元僧侶にして、元シャバ村村長。今の奥さんとは恋愛結婚だったそうで、そのため僧侶を辞めたとのこ と。戒律を破って女性とくっついたので僧侶をクビになったというイジワルな言い方もできるが、僧侶の地位を捨ててでも最愛の人を選んだ、という美しい言い 方もできる。ま、それはともかくとして、その後村長の職務に就いたクンガさんの働きぶりは評判で、多くの村人から今も尊敬されているそうだ。引退した今で も各自治体の村長会議という会合に呼ばれることがあり、先週もその会議出席で忙しかったそうだ。子供は六人いたが、全員結婚か進学でこの家を離れており、 今は夫婦二人暮らしの時間を楽しんでいる。

  話はそれるが、クンガ家に来てから大活躍しているのは何と運転手さん。お茶くみから食事の盛り付け、配膳まで、まるでこの家の住人かのように家中をあちこ ち駆け回って僕達の世話をしてくれている。今回参加したツアーを主催する日本の旅行会社の現地法人社長はシンゲさんであり、彼はその下で働く若手社員とい う立場ゆえ仕方無いのだろうが、頭が下がるのだった。

 

 食後、このホームステイのメインイベントは民族衣装の試着。男女それぞれ別の部屋に別れて、用意された衣装に挑戦だ。僕が手にしたのは赤とオレンジの縦縞ボーダーのゴ、O氏 は白地に細い黒の縞が入ったゴ。着付けをしてくれたのはやはり運転手さんだった。実物を羽織ってみたら裾は足元まであって意外と大きい。この裾が膝辺りに 来るまでたくし上げ、帯で固定する。この時お腹の辺りでゴを少し折り曲げてたるみをもった状態で固定すると、そのたるんだ部分がポケットのようになる。現 地人は出歩く時、ここに財布等貴重品をしまっているのだそうだ。そして最後は白い下地が出るよう袖を折り曲げて出来上がり。本来なら長い黒ソックスを履く と正装に近いのだが、そこはちょっと違和感があった。それにしても僕、和服より先にゴを着てしまうとは思いもよらなかった。

やがて女性陣が賑やかに登場。それぞれ緑、紫、グレーのキラを鮮やかに着こなしており、R子さんなんか、明日これを着てパロの街を歩いたら、30分以内に求婚されるんじゃないかと思ってしまうほど板についていた。それにしても女性陣、キラを着て出て来るまでに随分時間がかかっていたが、誰がどの色のキラを着るかを決める所でかなりの時間を割いていたのだそうな。僕とO氏はたまたま自分に近い位置にあったゴを着ただけだったので、ほぼ2秒で着る服が決まった。改めて男女の感性の違いにカルチャーショックを禁じ得ない僕であった。

  最後に我々はこの家で最も神聖な場所である仏間に案内してもらった。そこは日本人が普通に想像する「仏壇が置いてある部屋」なんてものではない。壁一面が 全て仏壇であり、グル・リンポチェを中心に六体の仏像が飾られ、その前に花やお供え物が左右均等に並ぶ。それ以外の壁には部屋一杯に仏画が描かれ、まるで 仏教的宇宙空間に迷い込んだかのよう。法事で訪れる僧侶のために用意された豪華絢爛な椅子や、祈祷の時に使われる太鼓も設置され、個人の信仰の空間と言う よりは、お寺の別院が民家の中に設けられていると言った方がしっくりくる規模だ。だがどの家庭もこうした豪華な仏間は一か所作っており、それによって功徳 を積む誇り高い行為となのだという。僕が印象的だったアイテムは、ろうそくの火で自動的に回転するマニ車、そして仏壇の隅っこで花瓶の役割を果たしている 猿の像だった。けなげに歯を食いしばってしゃがみながら、花を挿す器を抱えているそのユーモラスな姿は仏様以上のインパクトがあった。

 僕はこの聖なる空間で一つ深呼吸し、仏壇に向かって五体投地ではないが、日本式に手を合わせ、クンガ家の更なる幸せと旅の安全、そして明日の晴天を祈ったのだった。そう、明日はブータンツアー最後の目玉、聖地タクツァン僧院へのトレッキングである。

 ウォンディフォダンのハイキングを終えた僕達は一路ティンプーに戻って一泊。翌日は10時まで自由行動であった。

僕とO氏は民族衣装姿のキャスターによる朝のニュースを見た後、例の如くホテル周辺の散歩に出発した。今回は僕達の他にもう一人、力強い味方をつけた。一人参加のツアー同行者であるR子 さんである。社長秘書という職業柄か、女優と見まがう美貌を持つ反面、誰にでもタメ口で話す人懐っこさ、と言うか、恐れを知らない所があって非常にインパ クトの強い女性。ツアーに参加する他の四人と違って特に旅好きというわけではないのか、僕達が過去の旅の体験談をしていても中には加わらずに、一人草木や ら、虫やらの写真を撮っているゴーイングマイウェイなキャラ。ただブータンという国や、この国が掲げる国民総幸福量に何か惹かれるものがあって参加したみ たいだ。しかし、僕達が彼女に驚愕したのはそれらの部分ではない。彼女には何か不思議なオーラのようなものがあり、そこにいる誰とでも打ち解けてしまうの である。どこを観光していても、彼女の歩く隣には必ずその場で仲良くなった地元民がいる。彼女自らが周辺の人々にあれやこれや話しかけているわけではない し、別段英語が上手というわけでもない。彼女が地元民に問い尋ねる言葉は「アー ユー ハッピー?」ぐらいなのに、である。美人ということもあるのだろうが、他にも何か異文化の人を引き付けるパワーがあるのだろう。これって、旅人が最も欲し いスキル。その国に関する知識をどんなに詰め込んだって、このスキルが欠乏している僕は、出会いの無い孤独旅をどれだけやってきたことか…。

  そんな彼女を見れば見るほど、内向的な自分の不甲斐なさが浮き彫りになる。深く考えたらどこまでも空しく、どこまでも自己嫌悪になれる。だが、とりあえず そこまでにしておこう。そしてこのパワーを少しだけ拝借して旅を楽しむべく、彼女に協力して頂こう、という結論に至ったのだ。

 今朝の散歩の一番の目的は、O氏得意の「激写」。そう、民族衣装「キラ」を着た通勤・通学の女性をカメラに収めることである。ま、異国の男二人が地元女性に「写真撮らせてよ」なんて追い回したら、いくら心のきれいなブータンの人達でもイヤがるであろう。そこでR子さんが登場。

 「こんにちは、あぁ、これって、キラですかぁ?! すっごくキレイですよね!」


こんな具合に彼女が話しかけるとあら不思議、地元女性達もとっても嬉しそう。そのタイミングで写真撮らせて頂けますか、と僕達が丁重に懇願するのである。この方法はお陰様で結構うまくいった。


 「Oさん、この辺にしておきましょうか。」

 「いや、あともう一人!」

そんなやり取りもあったが、我々は学校の制服のようなキラ姿の女子学生や、スラっとした紫のキラを着たOL風の女性等、素敵なブータンの人達を撮影させて頂いた。だが、R子さん自身は特に彼女等にカメラを向けることは無く、路上で寝そべる野良猫とか、窓辺に並んだ色とりどりの空き瓶とか、変な物にシャッターを切るのだった。

 

  その後は残り二人の女性同行者も合流し、近所をブラブラ。メインストリートに並ぶお土産屋さんを一軒一軒覗き、仮面や仏像、マニ車に乾燥松茸を手に取って いるうちにいつしか時計台のある広場にやって来た。そこには大き目のスーパーがあり、地元民気分でちょびっと買い物をしてみる。想像した通りほとんどが輸 入品で、ブータン国産品はマンゴーやリンゴのジュース、そしてパンぐらいだった。

 スーパーから出ると、広場ではタープの据え付けられたテーブルやテントが沢山設営されていた。何かイベントでも始まるのだろうか? 一つ一つのテントには手作りの道具や食品等が今正に並べられている所。

ど うやらチャリティ目的で開催されたブータン各地域の物産展のようだ。地域によってはティンプー等で見るような装いとはやや異なる民族衣装の人もいる。特に 気になったのは、古代ギリシャ人のように真っ白い麻の布だけを体に巻き付けたような衣装の少数民族。昨日ティンプーに戻った際、R子 さんの希望で見学した織物博物館に様々な少数民族の衣装が展示されていたのだが、確か東部の山奥に住むかなりレアな民族だったと思う。何て民族かは覚えて いない。ブロッパ族だったかな(後で調べてみたら、衣装が違っていた)。伝統的な住居を再現していると思われる藁の屋根に丸木を組み合わせた小屋が彼等の ブースであった。もっと詳しく聞けばよかったのだが、集合時間の10時が近付いていたので、さっさと写真だけ撮らせてもらい、おいとますることにした。

 

  集合後、シンゲさんと共に車で訪れたのは中央郵便局。別に絵葉書を日本の知人に出すことが目的ではない。世界中の小国で行われている切手産業は、ブータン においても重要産業の一つ。しかもここブータン、世界に類を見ない珍しい切手を次々発行することで有名なのだ。封筒よりも大きい巨大切手や、絹製の切手を 始め、昔お菓子のオマケにあったようなザラザラのプラスチックでコーティングされた3Dのシールみたいな切手、実際音がするというレコード切手等、マニアでなくても欲しくなるものばかり。こんな切手の数々が展示販売される場所ということで、この国では中央郵便局がちょっとした観光スポットの一つとなっているのだ。

 ここ最近更にあっと驚く切手が発行され、一行の話題をさらったのが何と世界初、「CD-R付切手」。シングルCDぐらいの大きさで、ジャケットの裏面が全部シール式になっている。ちなみに一枚の額面は225ヌルタム(約450円)。葉書や封筒の切手代はせいぜい2030ヌルタムなので、実用性は無さそうだ。

中身のCD-Rであるが、ブータンや国王についての紹介ビデオが10分程収録されており、PCで見ることができる。この日売られていたのは三種類で、僕は歴代国王、そしてブータンの伝統文化についての切手二枚を購入。ちょっとした収穫であった。

 


  続いてやって来たのは少し大き目のお土産店。今晩以降は田舎でホームステイとなるため、お土産を買う機会はもうここしか無い。売り物の顔ぶれは広場近辺の お土産屋と大差無かったが、ちょっと面白いものとしては、ブータン人作家によるエッセイが平積みされており、その近くに何と作者本人が立っていた。今買え ばサインしますよ、と言っていたが、知っている作家でもないし、英語の本を読めるほどの読解力は無い我々は遠慮させてもらった。この作家さんはいつもこの お土産屋の売り場に立っているのだろうか。そこはちょっと興味深かった。他にはブータン映画のDVDが 何本か売られていた。ブータン映画は、少年僧がワールドカップの中継を見るために奔走する日本公開作品「ザ・カップ」と、山奥の村を担当する郵便配達人の 冒険のような道中を撮ったドキュメンタリー映画の計二本だけ見たことがあるが、意外にもトレンディードラマ的な雰囲気の映画作品が多く並んでいた。「パー フェクト・ウーマン」というタイトルの映画は普通の洋服姿の美女がジャケットを飾る。買わなかったことをとても後悔している。今インド映画は国際市場を狙 う中で変貌を遂げているが、そんなインド映画の影響を受けているというブータン映画も変化しているのかも知れない。

 

  お土産屋を出ると、すぐ近くに競技場があった。金網越しに中を見ると、ブータンの国技であるアーチェリーの試合が行われていた。中に入ってみましょう、シ ンゲさんに気軽に言われ、僕達はしばし応援席で観戦した。アーチェリーはブータン男性のたしなみとして最も盛んに行われているスポーツだ。それだけポピュ ラーな割には、オリンピックはおろか、アジア大会でもブータンの名が聞こえてこないのは、洋式のアーチェリーとは根本的な所が違うからである。洋式のそれ は個人競技、ブータンのそれは団体競技なのだ。特徴的なのは、的のある場所が異常に遠く、その的の周りにチームメイトがいて、矢を射る選手に対して大きな 声で位置関係を指示していること。「もっと上を狙え!」、「よし、その位置から撃て~!」といったようにチームメイトが声援も兼ねたナビゲーションを送る 中、選手は130メートル離れた場所から射る。

ど の選手もほとんどの場合、的に命中させているからすごい。的の近くにいるチームメイトに命中なんてことは無いのかハラハラしてしまうが、さすがに競技参加 者達はその辺上手なのだ。うまく的に当たればチームメイト達はその場で勝利を祝う舞を、外したら励ましの舞を踊る所は伝統スポーツとしてのしきたりなのだ ろう。こうしてチームメンバーが順繰りに矢を放ち、残りのメンバーはナビゲーターに回り、最終的にチーム総合得点で競い合うのだそうだ。シンゲさんも日本 語ガイドになる前は国内大会で上位に入賞した腕前の持ち主だとか。今はそれ以上の生き甲斐を見つけたのでこの世界からは手を引いたという。

 「こうして生で見ていると、またやりたい衝動に駆られますけどね。」

シンゲさんはそう言って笑うと、僕達を車へと誘導した。再びパロに向けて出発だ。