言霊(ことだま)療法と受け取ってもらっていい。
今日のニュース9で記憶をテーマに作家を取り上げた。
記憶。経験は他の人の糧になることもあると。
また、私のことだから繰り返しで申し訳ないが時間をかけまとめてみる。以下長文、この枠で紹介する。

恋愛事情は相手のプライバシーがあるので却下。
普通の恋愛事情だと思うよ。
みんな誰でも大恋愛。
事故でキスや処女は奪われ、愛してる愛してないの繰り返し。まぁ、そこに生きてていいの?なんて質問もあったかなぁ~
傷ついて傷つけあって。
元彼と結婚すればいいのにという人もいるが
またそれはそれで違うんだよ。
恋愛の終わり
それは新しい自分の到達。道のり
ファーストキスは18。手淫は24。処女は33,4歳で捨てたとだけ申し上げておきましょうか?

どこからひもとくかというと結果、劇団四季のマインドコントロールにつきると。歪められた人格。壊れやすい若い20代の精神的打撃。今は結婚して新しい人生だが丁寧に薄皮をはぐように傷つけられた心を些細な言語でも表現し、自分の中で修復できればと思う。
浅利さんとは、和解の後、旅立たれたが、直接30分くらい話合いが出来れば良かったのにと思う。浅利さんも苦い思いをしたのだから、正直に私にぶちまけても良かったのに。なんでー。浅利さんは他の劇団員たちとなぐさめあうことが出来たけど、私はひとり、悶々と悩み、親に話をしても、きちがいと思われるから精神科の先生にも話しては駄目と、声を発することなく、こもった時代もあった。インターネットの利点を生かしプロセスをお話出来ればと思う。繰り返しになるが私にはその作業は必要である。読んでいただいている方は「またか」と思われると思うが、今、初めてこのページを開いた方に伝えたい。

1990年簡単に言うと劇団四季を継げと言われた。
21歳の少女には無理だ。私はノイローゼになった。
始まりの話から詳しく話をしよう。
この文章を書くにあたって最初はオブラートにつつまれていて、同じ悩みを持つ人の足掛かりになるよう、素直に書くようにという友人の薦めもあった。実名も出てくるがKさんYさんとやって行くと空気が読めず、読んでいる人は消化不良をお越してしまう。
「真剣な読者」のため包み隠さずお話しよう。
何しろ30年前の話で亡くなった方もいれば忘れてしまった方もいろうかと思うがお付き合いください。

小中高校、演劇部で劇団四季の舞台は「キャッツ」と「青い鳥」を観、カタログに演出家、浅利慶太の写真。いつかこの人に会おうと俳優を一瞬夢見るが、いやいやバレエ習っていないし、俳優では劇団四季に入れない。美術を志そうと金森馨の舞台美術の書を見てはこんな作品作れたらとデッサンに励み、武蔵野美術大学短期大学部美術科で恩師、島 眞一先生師事のもと、島氏は抽象画家だったが、学生のうちは徹底的に裸婦を描けという指導があり、美術の基礎を学んだ。幸いにも一年制の短大の大学院みたいな専攻科に進むことができ、卒業制作では自分のオリジナルの作品を排出することができた。しかし、就職活動で劇団四季は捨てがたく技術スタッフ小道具に内定をもらった。

入社前、「ユタと不思議な仲間たち」という劇の感想文提出があった。私は学生の論文のノリで、フライングがない方が良いとか照明はレーザー光線じゃない方が良い、など思ったとおり書いてしまった。演劇はサーカスではないと思ったからだ。感想文の締めには「創造力を生かしたい」と。

しかし、入社当日しまったと思う。本当は思ったとおり書いてしまってはいけない状態で、演出家に歯向かうとは何事か!仕事しろ!「創造力ってなんなの創造力って」といじめになり、男性スタッフからは二十歳過ぎて処女とは言わせないよと、自分にとってはまだ乙女だったため傷つく毎日で針のむしろだった。
カッターで思わぬ怪我をしたところ上司の平瀬さんから「カッターって切れるんだよ、知ってた?」など嫌みを言われたりした。

そのうち寺山修司作「王様の耳はロバの耳」を稽古場で見る許可がおり、観ていたところ、平瀬さんがちょうど隣に座り、「本当のことを言おう」というセリフに感動して私が鼻水たらしながら震えていたら、平瀬さんが「そうか!思ったとおり感想文を書いたんだ」と理解し、その思いは浅利慶太氏にも伝わった。「みんな俺の言っていることばかりやっていないで自分で考えろ。芝居というのは創造力だ!」と浅利氏がゲネプロで皆の前で叫んだ。

次の公演、「ひかりごけ」のゲネプロ。
やっと継いでくれそうな奴が現れたかと男子トイレで浅利慶太氏が号泣しているのを私は隣の女子トイレで聞いた。

さて、ここからが重要だが「ひかりごけ」の前座の朗読劇。加藤道夫による朗読のためのコラージュ「聴き給まえ君」諏訪正 作 私のために書き下ろしたと言っても過言ではない。30年前の記憶で曖昧だが確かこんな出だしだった。

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ひとつの刑
かぐや代々伝えておくれ。
お前しかいない。
お前に思い出はない。
幸せな思い出が支えてくれるだろう
一番幸せな時、
一番美しい思い出
かぐや。お前は次期に悲鳴をあげるだろう。
くるしい。
竹の林にしか生きれない
10年後
私は醜いのよ
知っている
かぐや代々伝えておくれ。
お前は身を捨てねばならない。
ーーーーーーー
もうちょっと長いのだが印象としてはこの台詞が焼きついている。
諏訪正 作とは最近知ったが浅利慶太氏が言っているものだと思ってしまった。

あるスタッフの間では死ぬまで私に着いて行くか思案するようになった。私は三年先輩の身近な女性スタッフにこう伝えた。「演劇に情熱はない。王様の耳はロバの耳の演目が終わったら、実は劇団四季辞めるつもりでいた。居たらつもり積もって。そういう星の下に生まれたのかも」と。代々伝えておくれと言われても皆の死ぬまでの責任を考えなくてはいけない。ひとりよがりなへたな情熱に皆を巻き込むことはできない。冷めた視線も必要と思い、情熱はあったがないと答えた。

劇団四季創立記念日総会の日。
私はあいさつくらいはしっかりしようと思っただけなのだが、堂々と「小道具の祝です」と市村正親氏石丸幹ニ氏加藤敬二氏たち皆のいる前で俳優顔負けのあいさつをする。「なんだやってくれそうだな。石丸幹ニお前の30年後が観たい。俺、それまで生きているかな、生きていないだろうな」と浅利氏のびっくり発言。

あれよあれよと3ヶ月で二代目演出家浅利慶太?
男性陣からは浅利を泣かせた女だぜ。誰が処女奪うかなとか、一部嫉妬の視線やプレッシャーで押し潰され、息苦しくなり、今で言う過呼吸かも。足も思ったように動かない。小道具スタッフの女性陣に心配をかけた。「祝さんに無理だよ。出来ない。出来ない。出来ないって言ってみて!」私はずっと我慢の末、絞り出して言った。「んんんっ出来ない」すると途端に熟睡した。次の日「祝さんに早目の夏休みをあげよう」など部長から言われたがさりげなく、劇団四季を辞めさせられた。渋谷をうろうろした。渋谷は東急ハンズもあり、なじみの通りを歩いた。そしたらやっぱり劇団四季の衣裳の女性が買い出しで歩いていて、お茶おごるから喫茶店入ろうと。私「これから一年後三年後私何してるんだろう」衣裳の女性「生きるのよ」と。こんなに必要とされていたのに必要とされなくなった喪失感。「くるしい」という言葉が突いてでた。くるしいと先輩に伝えた。だが言霊(ことだま)呪縛からかノイローゼになり、醜い自分になる。自分が壊れる。1度目。
親はどうしてこうなったかわからない。一年働かせてくれませんかという電話に、部長は迷惑です来ないでください 、ガチャ。

当時、精神科医療はあったが今程メジャーではなく、どこに行っていいのかわからず内科を受診したり、大学病院ではインターンがズラリ並ぶことも。「劇団四季で継げと言われて…」「はい、いつもと同じお薬です」と誇大妄想に取られ信じてもらえず話もいつも5分。写真屋に務めるが「シアン、マゼンタ、イエローぐらい覚えてね」と言っても皆聞く耳もたず辞める。その時、家族経営の奥さんから、タイミングとしても明らかに悪意を持った発言で「祝さんて真面目すぎるんじゃない」と言われて自分が壊れる。2度目。自分の悪口を絶えず言われているんじゃないだろうかという被害妄想も強くなった。それを機に個人病院に変えたものの、ここで、親から「劇団四季のことは前の病院で言って失敗したから言うんじゃないよ」きつく押し込められ、医者の先生もわからぬまま薬を投与し、一年、生理が来なくなるありさま。鉛が入ったかのような極度の頭痛。友人から話さなきゃ駄目じゃないと気づかされたのはそれから5年後の話だったろうか?
その頃、付き合っていた彼氏にはよく「生きてていいの?」なんて言っていたりした。

その前後25歳くらいから陶芸を始める。親がまともに働けないならと習わせてくれた。29歳を機に素人ミュージカルに出てみる。なあんだ。良い人はいっぱいいるんだなぁと思った。自分が壊れたのは3、4回あったが、これだけの説明で皆さんお腹いっぱいだと思う。その後の話もいっぱいあるけど20代の歪んだ人生わかっていただけるだろうか。私の青春返してー、とは言いたくなるよね。「今」を絶えず感じろ。とは言ったものだがそういう苦い思い出があるから、今、なんにもなくても幸せに感じる。

過去に感謝することがようやく出来るようになった。
ありがとうございます。
ごめんなさい。
許してください。
愛しています。 

おやすみなさい。