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劇団四季に情熱はないと1990年入社当時
私が2代目演出家みたいな空気になった時に
スタッフにことづけましたが、本当はメチャメチャ情熱の塊だったんです。
でもその時、四季は株式会社だし「運営」する力は自分にはないと思ったんです。
みんなが死ぬまでの責任も考えました。
私について行こうとするなら女性は結婚をあきらめることも視野に入れて行かなければなりません。
情熱あります、と簡単に言えても冷えた視線もその時は必要に思いました。

当時は浅利さんが歩んで来られた書籍もなかったし、入団後に初めて創立メンバーが恩師と慕う加藤道夫さんのことを知りました。

大声の挨拶が私のやる気を集約していたというなら信じてもらえますか?
でもあの時の挨拶ほど、実際の私の心は強くはありません。
内弁慶で当時は物腰はお嬢さんみたいだったと思います。

浅利さんには創立する時の勢いみたいなものもあったろうし、友人たちの腹を割って話せる環境みたいなものもあったろうと思います。

私が退団後、喪失感は強く、スタッフに電話をしても「働くのよ」と言う言葉だけが返って来て私はひとり孤独でした。
話し合う機会は少なく
みんなとの考え方のズレや誤解はあったのではないでしょうか?

もう四季に入るつもりは毛頭ありません。「折れ」という演出上の言葉の方法がわかりません。叱って、束ねるようなことは出来ません。
約30年間の間に積み上げてきた人間関係もあることでしょう。
が私のこと忘れないでください。

過去は過ぎ去り未来だけをみつめて行こうと思いますが歴史として刻んでください。少なくともあの頃、四季も解散してやめてしまおうか?という空気は私だけの力ではありませんが、食い止めることができたのではないでしょうか?

また、私のせいで人生が狂ったという方も中にはいらっしゃるかもしれませんが私も狂いました。

すべて必要な時間でした。

劇団四季の会報誌に浅利さんは決して平坦な道のりではなかったと一言で語られていますがイワイのこと忘れないでください。

浅利さんの65周年の原稿、よく出来ています。
四季会員ならずともどこかの新聞に掲載されるといいですね。


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と、新聞掲載について語りましたが、創立記念日の7月14日がいいなぁと
思いましたが、日本は大雨でそれどころじゃないようですね。
日を改めた方が良いかもしれません。 記7月6日