それから10年後、
劇団四季は新劇場を持ち、ライオンキングで好調なすべりだし。
私のことなんかもう忘れてしまっただろう。

井関 一氏なら会ってくれるかもしれない。創立メンバーで
新米のスタッフとはいえ気さくに話かけているのを覚えていた。
ノンという女という演目には楽屋にいって面会が通った。
「赤信号、あなたとだったらこわくない」とジョークをかわしながら帰りをご一緒させていただいた。
井関さん・「テレーズの気持ちはわからないというけど、今日の演目は
君にぴったりだね。
君、アマチュア劇団で活躍しているよね。チラシみたよ。名前トップじゃない。」
私・「いえ。それはお母さん役でお母さんは難しいです。」
井関さん・「そうか。お母さんは難しいか。難しいよね。ぼくは釣りが好きなんだが。」
私・「父も好きです。」
井関さん・「ぼくは海釣りなんだが。」
私・「父は川釣りです。」
井関さん・「そうか。君のお父さんとは気が合いそうだな。」

そうなごんだのもつかの間でそれが井関さんとの最後で骨は海に散骨にしてくれとの願いだったらしい。

2002年オンディーヌの公演
公演初日に浅利慶太氏は必ず現れる。
私は元気です。それだけ伝えたかったが、案の定、浅利氏はみんなに
ひっぱりだこだ。
そんなとき私の隣に偶然にも米村あきら氏が立つ
米村あきら氏は武蔵野美術大学で演出研究という教鞭をとっていた。もちろん私は講義をとっていた。
私・「先生が演劇はアヌイ・ジロドゥと言っていたことを忘れません。」
米村先生・「先生というのは罪な職業だよ。不幸にしてしまうかもしれない。教え子はたくさんいるのだが
でも今日の君のことは絶対、忘れないよ。」

そんな力強いお言葉を頂きながら米村先生ともそれが最後だった。


私が入団した時から30年の月日が流れようとしている。
もう済んだことと、「今」という時を大事にし前向きに生きていくしかない。
幸いにも陶芸も続けている。
なぜ書き残したのか。
それは普通のおばさんになった私のかけがえのない、みんなで必死に生きた時間のことを
残しておきたかった。
数限りない人にお世話になっている。
もう精神病も治ったと思ってたら4年前は入院してしまった。
こわれやすい性格なのかもしれない。
お世話になりました。
劇団四季時代のことでFacebookなどの活動にためらいを感じている人がいれば活動してください。
私からは友達登録に伺いません。

ありがとうございます。
ごめんなさい。
許してください。
愛しています。