小6から、養護施設で暮らすことになったわけだが、この間、本来だったら結構一時保護所で過ごすことになるはずなのだが、ここのところの記憶はすごく曖昧だ。ただ、小5の修了式(健康学園で実施)と、そのあと元の学校の同級生のわやわや(痩せた)は覚えているし、小6の始業式(養護施設の近隣校で実施)と新しい教科書の支給は覚えているから、ごく短期間で施設が決まったことになる。このころでも、養護施設への受け入れは滞っていたはずだから、一時保護所の極悪な処遇を経験しなかったことは大変に幸せだったのだろう。
まあ、だからといって、とても幸せな少年時代でした、とは間違っても書けない。今の養護施設処遇は管理がそれなりに行き届いている(でなきゃマスコミが書き立てる)だろうけど、わたしの入所していた養護施設の処遇は、はっきりいってザルだった。昼間の支配者は施設長と保母(当時はこう呼んでた。いまなら保育士さんである)だが、就寝時間経過後はここの施設の最上級生である中3の一番腕っぷしのつよいやつになる。就寝してしばらくして、保母が自室に(寮が2階部分にある)ひきあげると、「反省会」なるリンチ時間が始まる。引き上げた保母は、リンチを受けた子供が柱にたたきつけられて「ずしん」という音がしようが知らん顔。どうかすると、気に入った最上級生と夜遊びに繰り出す始末。翌朝あざが増えていようが施設長共々知らん顔。彼らにしてみたら、ソコを見逃すことで、施設管理を効率よく出来ると考えているらしく(最上級生に締めさせることで最上級生には飴を与えて大人しくさせることができ、下級生には脱走をさせないことができる)、わたしが最上級生になるまではこれが続いた(わたしは止めさせた。こんなのは江戸時代の牢獄だけで充分だ)。
ちなみに、わたしは元上級生を許すことはできない。今居場所が判明したら、新聞に乗れるくらいのことはしでかすつもりだ。
この経験は、わたしにふたつのトラウマを残した。
ひとつは、「自己評価制度」がとても苦手であること。
元上級生のひとりが、どこで覚えたのかは知らんが、「自己批判の時間」なるものをこしらえ、さんざん自己批判させた後、二人一組にして互いを交互に1発づつ、相手が倒れるまで殴らせ続けるのだ。正直たまらん。
おかげで、この制度のヒアリングを受けるたび、この記憶が頭をよぎり、苦痛でしかたがない。「自己目標設定」ってなんだ、苦役をどれだけできるか自分で設定しろってか。一発で相手を倒して見せます、とでも設定すればいいのか。「自己評価」ってなんだ、「わたしはこの仕事をしている資格はありません」とでも評価するか。管理者側は労働者の管理に適していると思うんだろうが、労働者たる自分が自分で評価するのに、なんで全員が自己を肯定的に評価できるとか思うんだ。仕事の評価位、管理者が勝手にしてくれといつも思う。
もうひとつは、「保母という職業の従事者は全員クソだ」と思うこと。
このあと、まあ役人になったわけなのだが、保育士が同僚であるということに最後まで慣れることはなかった。
まあいまでも、保育士なんて資格は不要だと思う。子供の保育(それが保育園であれ、養護施設であれ、児相の付随施設であれ)現場には、資格なんて不要で監視カメラを死角無く配置しとけば宜しい、保育士という資格に相応する給与なぞ不要で、その分だけ人員を厚く配置すれば宜しい。と思う。保育の知識なんて中学の家庭科で学んでいることで充分だし、オルガン弾ける必要がどこにある。NHK教育の動画流せばokじゃないか。保育室飾るのに必要な飾りなんて、ネットからダウンロードして張るなり、ネットで作り方ググって作りゃいい。それより従事する全員にきちっと「こどもの権利条約」を暗唱できるまで繰り返し学ばせて、不適切保育したら以後DBSにきっちり記録したうえで懲戒解雇し、不法行為責任を背負わせてやれば、よほど保育の適正化ができるんじゃないかと思う。
んで、あと、副次的に、「女性不信」ってモノも身についた。
世の中の人間は、基本的に自分にとって役立つかどうかで他人を評価するものだが、わたしが出会った男性は、ごく一部を除いて役立たなくても攻撃することはなかった。
でも、わたしが出会った女性は、ほぼほぼ役立たないと思うと攻撃してきた。
攻撃のされ方を書いてしまうと、わたしという個人が特定されてしまいそうなのであえて書かない。
不信感をすべての女性に対して(母親だって、親と言えるかわからんほどのことはしてると思う)抱くほどのことであるというあたりで、まあ察してほしい。
で、そのままだと中学卒業で大工とか土木とか塗装とかになるところを、何とか高校に入学し、この施設は中学までしか預からないとのことで、親父に引き取ってもらった。進路を選ぶうえで高専ってのも選択肢にはあったのだが、生活保護受給前提であると、専門課程の2年がどうにもならないので結局普通高校に進学することになった。
高校に進学してみると、親父が実はわたしの奨学金とアルバイト代、それから母親に進学するからと祝いをせびるために引き取ったのだということが判明する。
最初のうちは今までのご恩返しのつもりでもいたのだが、高3の春に親父がいきなり生計給付金と住居給付金を持ってトンズラし、餓死の危機に遭遇したことで「おかしい」ということに気づき始めた。そうこう(探し出したり、とりあえず生活復旧したり)しているうちに親父は7月末に肝がんにより余命1か月と宣告(親父にできるわけもなく、高校生のわたしに宣告された)され、9月半ばにあっけなく逝ってしまった。
逝ってしまったあとで、実は年金担保で借入があることが判り(今は保護開始されると年金は担保とすることはできないんだけど、その昔は年金を担保として借り入れができた)、もちろん死んだ後に年金は出ないため借り入れは要返済となり、その借り入れの際保証人となっていた某婦人(親父と付き合ってたらしい!)から、放棄せず返済してほしいと頼み込まれるなど、その跡の濁し方は、それまで曲がりなりにも抱いていた親父への尊敬の念を吹き飛ばすには充分なものではあった。
高校卒業後の進路を警察官と定めていたつもりだったが、警視庁からあっさりとお祈りされてしまった(今風)後、それならと製造業への志望をしたのだが、普通科では製造業の募集があるわけもなく、FE方向のプログラマとして社会に出ることになった。
はあ、やっと社会にでれた・・・このあとの挫折だのなんだのは、まあよくある話なので、これ以降の事柄はまあ書くまでもない話になりますので、割愛します。
なんか関連性のあるカキコするときにはまた書きましょ。