13. 魔 法 の 小 石    ( 2005年 8月 1日 )

夏風邪をこじらしてしまい、一日遅れの更新です。
以前、塾の生徒に配っていた文章です。

子供たちは夏休みに入りました。
お父さん、お母さんは、子供たちと接する時間が増えると思います。
子供に「なぜ勉強をしなくてはいけないの?」と訊かれたら、どう答えますか?

魔法の小石    ジョン・ウェイン・シュラッター      「心のチキンスープ」より

「なぜ、こんなつまらないことを勉強しなくちゃいけないんですか?」
 私が教壇に立っていたあいだ、生徒はあらゆる不平や疑問を投げかけてきた。
なかでも、この質問ほど繰り返し耳にした言葉はない。
 この質問に、私は次の物語をお話しすることで答えたいと思う。

 ある晩、遊牧民の群れが夜を過ごすための支度をしていると、
突然あたりが厳かな光に包まれました。
聖なる方がともにおられるのを人々は感じました。
大きな期待を胸に、天の声が下るのを待ちました。
何かとても大切なお告げがあるのだろう、と思ったからです。 
ついに、声が聞こえてきました。
「できるだけたくさんの小石を拾いなさい。
その小石を袋に入れ、一日旅をするがよい。
明日の夜になって、お前たちは喜び、また悲しむであろう」
 聖なる方がその場を去ると、人々は失望と怒りを口にしました。
大いなる宇宙の真理について啓示が下ることを期待していたからでした。
富と健康が授けられ、人生の目的が解き明かされると思ったのです。
ところが与えられたのは、小石を拾うというつまらない、
彼らにとってはわけのわからない作業だけでした。
 しかし、人々はぶつぶつ言いながら、いくつかの小石を拾って袋に入れました。
聖なる方の神々しさが、まだあたりに残っていたからでした。
 人々は一日旅をし、夜になりました。
野営を張りながら小石のことを思いだし、袋から取り出してみました。
すると、どの小石もひとつ残らずダイアモンドになっていたではありませんか!
 人々は小石がダイアモンドに変わったことを喜び、
もっと小石を拾ってこなかったことを悲しみました。

 この伝説の教えを地でいった例として、
私がまだ教師に就いて間もないころに出会った一人の教え子の話をご紹介しよう。
仮に彼をアランと呼ぶことにする。
 アランは中学二年生。主専攻は「問題を起こすこと」、
副専攻は「停学処分」といった男子生徒だ。
不良になることを勉強しに来ていたようなもので、
ついに「窃盗」という修士号を取ろうとしていた。
 そのころ、私は生徒たちに名言を毎朝、暗唱させていた。
出席をとるとき、生徒の名前に続けて誰かの言葉の前半を言う。
出席とみなしてもらうためには、生徒は後半を続けて言わなくてはいけないのだ。
「アリス・アダムス ― 『努力し続けている限り‥‥‥‥』」
「はい、『失敗はない』です、先生」といった具合である。
 こうして教え子たちは、その学年の終わりまでに名言を百五十は暗唱した。
「一直線に目標だけを見なさい。障害が目に入らないように」
「皮肉屋とは、すべてのものの値段を知っていてもその価値を知らない人のことをいう」
そして、「思うなら信じなさい。信じるなら実践しなさい」などだ。
 アランほど、朝のこのお決まりの時間をいやがった生徒はいなかった。
それは彼が放校処分を受ける日まで変わらなかった。
それから五年間、アランの消息を耳にすることはなかった。
 ところが、ある日、アランが電話をくれた。
現在この近くのある大学で特別コースを受講しており、
仮釈放期間を終えたばかりだという。
 彼は少年院に入れられた後も問題を起こしていたため、
鑑別所に送られたと話してくれた。
ついには、そんな自分に嫌気がさして、カミソリで手首を切ったそうだ。
「ねえ、先生、そうやって自分の命の灯が消えかかっていくのを感じながら
横たわっていたときです。いきなり、あのばかばかしい文句が頭に浮かんできたんです。
先生がいつか二十回もおれに書かせたやつですよ。
『努力している限り、失敗はない』こいつの意味が突然わかったんです。
おれが生きているかぎり、おれの人生は失敗じゃない。
でも、もし自分で命を絶ってしまったら、失敗そのものになっちゃうじゃないか。
そう思ったんです。
それでおれは残りの力を振り絞り、助けを呼んだ。新しい人生を始めたんですよ」

 彼があの名言を学んでいたころ、それは小石にすぎなかった。
しかし、ぎりぎりの状況に追いつめられ何かの導きを必要としたとき、
それはダイアモンドに変わったのだ。
 だから、私はこうアドバイスしたい。できるだけたくさんの小石を拾いなさい。
ダイアモンドのように輝く未来が約束されるのだから。