プロフィール

・住所歴
  (省略)

・学歴
  昭和 五年 四月~昭和一一年 三月 円座尋常高等小学校
    一一年 四月~  十二年 三月 高松附属小学校
  昭和一二年 四月~昭和一七年 三月 県立高松中学校
    一八年 四月~  一八年一二月 関西大学予科(学徒出陣)

・職歴
  昭和一八年一二月~昭和一九年 一月 佐世保相浦海兵団、二等水兵
    一九年 二月          任 海軍予備生徒
    一九年 二月~  一九年 五月 三重海軍航空隊
    一九年 六月~  一九年 九月 富高海軍航空隊(中練・赤トンボ)
    一九年一〇月          任 海軍少尉候補生
    一九年一〇月~  二〇年 五月 大村海軍航空隊(実用機・零戦)
    二〇年 六月          任 海軍少尉
    二〇年 六月~  二〇年 六月 谷田部海軍航空隊
    二〇年 七月~  二〇年 八月 千歳海軍航空隊
    二〇年九月一日         除隊
    二〇年一〇月~  二一年 八月 栗原産業(株)
    二一年 九月~  二三年 九月 米国四国軍政府・クラーク
    二三年 九月~  五六年 四月 職業安定行政(労働省)
    五六年 七月~  五九年 三月 (社)香川心身障害者雇用促進協会
                    事務次長、兼専務理事
    五九年 四月~  六二年 三月 (社)香川県雇用開発協会コンサルタント
    六二年 四月~平成 五年 六月 (協)香川県中小企業労務協会
                    事務局長、兼専務理事

・結婚
  昭和二三年一二月一三日       年齢二六歳(数え)
       旧姓 宮内 美代子    年齢二三歳(数え)

・家系
  (省略)

昭和に生きる

― 青 春 編 ―

目次

    まえがき
    プロフィール
第一章 幼少の追憶
  家業は「みかんや」
  幼い日の円座横内の横顔
  武家屋敷
  父と山
  兄の遊び
第二章 幼き日の生い立ち
  小学時代
  腕白坊主三人衆
  附属時代
  高中時代
     高中スピリット
     修学旅行のない高中
     戦時体制へ
     短距離で頭角
     短距離で記録保持
     夢に消えた国鉄機関士
第三章 大学進学目ざして
  大学受験
  車中の人
  大阪での浪人生活
  大阪の人となる
  最後の大学受験
  魚の子のお経
  夜の饗宴
第四章 大学生活始まる
第五章 風雲急を告ぐ
  太平洋戦争の歩み
  戦雲急を告ぐ
  学び舎よ、さらば征かむ
第六章 海軍士官そして最後の零戦へと
  海兵団生活
  三重空での基礎教育
     五調の試練
     棒倒し
     バスルームでの一発
  赤トンボの富高空
     箱庭の別世界
     ひどい方言に通訳
  零戦の大村空
     大村空はB29の通過地点
     こしゃくな米艦載機
     北井豊氏の殉職
     空戦訓練での発火
     諫早の女性
     七つ釦の予科練教育
     同郷三宅君の父来る
     母、姉上決別の思いで大村へ
  谷田部空へ
     焦土と化した高松空襲
      平和への願い、日本の軍国主義と大陸侵攻、出征の朝
      高松空襲と焦土の町、再会の日
  千歳空へ
     小樽港船舶への偽装攻撃
      月見草
      「すすきの」の女
      終戦処理
第七章 第二次大戦に想う
  戦争犠牲者とは
  昭和十年以降社会情勢変遷の歩み、アラカルト
  予備士官の位置付
  雑感
      あとがき

 光陰矢の如しとか、過ぎにし歳月を省りみては昨日の如く、呆気なくも短かな道程に想え、さながら吾が人生を急行便に託し、上下左右に大きく揺られながら何時の間にやら、アッという間に通り過ぎた今日に、熟年というより癒々晩年の山にさしかかった感さえ覚えるところである。

 この七十有余年私は人として一体何をどうしたというのであろうかとつらつら省りみて、有意義たるべき人生に何故か叱責さえ覚え、私なりに歩んだ足跡・史業を回想して私の生きざまに苦笑を禁じ得ない昨今である。

 平成七年は昭和七十年に相当し、正に神国日本を信じて疑わなかった吾々が、思いもよらぬ敗戦という憂目からここに、戦後五十年を迎えた一つの節目の年である。その為か何につけ「〇〇年の節目」という言葉が罷り通り、これが社会的通年語として言い囃されたところである。

 ところが、平成七年は私にとって亥の年とあってか、多種多様な夢想だに考えられない問題が目白押しに突発し、誠多難な幕開けとなった。

 正月も覚めやらぬ一月十七日、淡路。阪神地区を襲った大地震、マグニチュード七・六震度七、さしもユニークさを誇った国際都市・国際貿易港神戸が一瞬にして壊滅的打撃を被り廃墟と化し、死傷者・住居を失う者数知れず、高速道路を始め各交通網のみの復旧さえ突貫工事をもってして一年有半を要した。

 続く二月二十五日オーム教団による霧が関地下鉄サリン事件発生。一般市民に多数の死傷者を出すや、ひいては既成の松本サリン事件、坂本弁護士一家の事件も発覚、然も武器弾薬。最新化学兵器の密造。密輸の下に、内外でのテロ行為は世界をして恐怖のどん底に落し入れ、遂にはオーム教団の自作自演によるハルマゲドンXデー近しと流布し、つまるところ最終目標に日米戦を企て、亡国日本の後に麻原教祖によるオーム帝国の建設が画策されたというから、正に尋常でなく笑止千万である。

 これは宗教団体という隠れ蓑による反皇室・反政府テロとしか受け止めようがなく、正に奇想天外、かかる発想がどうして生れたのであろうか。信者は人為的にマインドコントロールされ非人間化し、彼等は人間社会から逸脱して行ったのである。入門においては不動産・家財の総べてを布施させ、その財宝を以て世界乗っ取りを企らみ、然もこれを「良し」とした。

 村山首相は国会の場で「オームの解散請求は妥当、破防法の適用は慎重に」との答弁。諸悪の根源を絶つには思い切った措置、そして勇断実行が肝要である。宗教法人法の改正・見直し論では、学会と公明党との癒着を当局は「概念である」と平然と否定した。こんなまやかしでは国民が納得の筈はなく、痛烈な誹謗を受けることは当然過ぎる事である。

 新進党小沢幹事長に提言したい。「党の命運にかかろうとも潔ぎよく法案審議のテーブルに就け」と、国民の範を垂れるべき議員達による国会廊下の坐り込戦術はテレビを通して吾々国民を唖然とせしめた。国会議場でのデモンストである。国是として政教分離が問われる公明党の存在は許されるものではない。

 目を他に向けると、かかる国会審議に明け暮れる暇はなく、他に国運をかけてなすべき大事が目白押しに待っているのではなかろうか。

 バブルに酔いしれ眼覚めて慌てふためく近時、吾が国の景気動向・経済金融情勢・雇用動向等何れをとっても、混沌とした社会情勢への課題に今日程緊急対策が望まれる時はない。経済成長は実質に於てかつてない零成長に近い恐れが出て来た。失業率は三パーセントに乗って来た。公定歩合も今や史上最低の〇・二五パーセント、事業家には笑いが止まらぬ結講な金融政策も、吾々一般市民にとっては金利頼みは昔の夢、楽しみの貯蓄も昨今来の金融不安も手伝って貯蓄は総素寒、返って資金は海外に流れこそすれ国内での金融離れが浸透しつつある。事日本にあって絶対的に信頼を保った金融業界の出鱈目な資金運用の付けが今にして一挙に吹き出し、それが純朴な市民の懐に重くのしかかる。馬鹿を見て泣くのは一般市民ということでは許されない。正に昨今来、この世の総てが狂いに狂った冷酷な社会情勢といい、経済金融不安・政治不信は遂に極限に達し、かかる箍の緩みっ放しを”如何にとやせん”と慮る一人である。今日程政治家の力強いリーダーシップが望まれる時はない。国の内外を達観し、勇断結構の人として私が信望した男”吉田茂よ、今一度甦れ”と叫び度い。これは現在私の偽らざる心境である。

 然しながら、かかる心の置きどころの無い多彩な不信感への空虚さが、返って私に安住の地を求めさせ、そのことが私の生涯を総括させる心根となった。つまりこれが自づと自分を慰め、同時に余生への叱咤として己れを律する心の場としたところである。私ごときが人生を語るべくもなく、只生涯の事象を記録することに止まろうが、このことが私の心の安らぎであり、私のドラマともなれば幸である。只どうも私の健康が意のままならず、徒然となることをお許し願いたい。

   平成九年十月吉日

                                                中 村 久 雄

謹啓

秋涼の候、貴兄を始め皆様にはますますご清祥のこととお慶び申し上げます。

此度、愚生徒然にまかせ「昭和に生きる―青春編―」を刊行したので、

ご贈呈しますからご高覧頂ければ幸に存じます。

ここに謹しみて皆々様のご健勝をお祈り申し上げ簡略ながら出版のご挨拶といたします。

                                                     敬具

  平成十年十月吉日

                                            中 村 久 雄