という訳で5年間の祥の郷での毎日は終わりました。
制度改正やいろいろなことで、あまり感傷的になる暇もなく
あっという間の最後でした。
昨夜は送別会を開いて頂き、今まで祥の郷で働いた人たちも来て下さり
本当にありがたいことでした。
寄せ書きも頂きました。「詐欺」や「だまされた」という言葉が乱れ咲いていました。春ですね。
本当にありがたいことでした。
今朝方、家に帰りました。
家族はディズニーランドに旅行に行っており、誰もいないなか
ちょっと何か書こうかな、とパソコンを開いたけど、何も思い浮かびません。

あらためて5年間を振り返っても、いったい何をしていたのか、はっきりとは分かりません。
なんでこうなったのか、自分でも不思議でなりません。
でも、こうやってひとりになってみて思うことは
もう、ひとりではない、ということです。

お年寄り、職員、ご家族、この仕事を通じて出会えたたくさんの方々
そのひとりひとりのまなざしを、こうしてひとりになっても
いまだにぼくは感じることができます。

このまなざしが語りかけているものは
いったいなんなのか。

ぼくはそれに応え続けようと思います。
よく分かりませんが、今はそういう気持ちです。

最後に所長。
初めからそこにいたのは、ぼくと所長だけでした。
ぼくは、いつも困ったときに、ぼくが極端になりかけたときに、
所長が独り言のように言うあの言葉を頼りに、何とかここまでこれました。
本当に感謝しています。ありがとうございました。忘れません。


「みんながよくなれるほうがええやん」



ほんまにそう思う。


みなさん、ありがとうございました。


またどこかで。





細川 鉄平

今日祥の郷での4回目の大掃除を無事終えた。

4回目ともなると、捨てるものが少なく、楽になってくる。

初めの年なんか、テレビでみかけるごみ屋敷の掃除みたいにビニール袋40個くらいに捨てるものがあった。

そのとき一緒に掃除をした人は今は誰もいない。

自分でいなくなった人や無理やりいなくなってもらった人や去らざるえなかった人や。

多いとはいえないけれど、けして少なくない人たちと一緒にここで過ごした。

沢山のことがありすぎて、なにも思い浮かばないというのは、きっといいことなんだろう。

誰かの代弁をするなんて、ぼくにはできない。

でも、その場に居合わせて、ぼくが感じたことなら言うことができる。

これは何回も何百回も何千回も何万回も言っても伝わらないかもしれないけれど。

居続けるのをやめたのは、誰でもないぼくなんだけれど。

あと3ヶ月。
 
最近気がついたのですが、祥の郷いつのまにか3周年を迎えていたようです。
祥の郷が立ち上がったときに産まれた長女も今や3歳。口癖は「別に」。育てる自信が少しありません。

さて告知です。
まずは、今年の4月にブリコラージュという雑誌に書かせて頂いた文章が、本になりました。
タイトルは「生き方としての老人介護」 です。祥の郷でも購入できますので、気軽にお電話、メールを。
独りよがりの迷走日記Inショーノサト



あとそのブリコラージュ にて、広島「玄玄」の特殊介護家、藤渕安生さんとの往復書簡という形で
連載をさせて頂いています。
「ふたりよがりの無理問答」といいます。よろしければ、是非ご購入の上、一読下さい。
独りよがりの迷走日記Inショーノサト



続きまして、1年前に受けた取材が、フントス という雑誌の6月号に掲載されています。よろしければ是非。
独りよがりの迷走日記Inショーノサト



祥の郷も出演させて頂いた介護ドキュメンタリー映画「9月11日」 がDVD販売されています。
未見の方はこの機会に是非ご購入ください。
独りよがりの迷走日記Inショーノサト


あと、大阪大学の刊行誌「オレンジブック」 に、ワークショップ等のことを書いた文章が載っています。WEB でも閲覧できますので、よろしければ。

最後に、11月に大阪は堺市での「ただいま それぞれの居場所」自主上映会 、東京でのオムツ外し学会 にて、お話をさせて頂くことになりました。
お近くの方は是非。


大体以上です。よろしくお願いします。






途上の人。

















途上の。


















あるがままの姿。


















目にうつる姿。


















乱反射する姿。


















3時間お迎えに時間がかかる。


















このことばはどう響く?


















もうそういう季節は終わってしまった。


















終わってしまった。


















死にたい人と生きたい人。死ぬのがいやだから生きてる人。


















みんな悲しい。


















みんないつか死んでしまう。


















それが悲しい。


















「彼」でも「彼女」でも「誰か」でもない「あなた」。


















「あなた」の「あなた」としてぼくはぼくに出会う。


















欲望の中でしかぼくは人を信じない。



















ならば欲望の中でしかぼくは人と生きられない。


















失ってからしかいつもわからない。


















みんな「ことばはいらない」といつもことばで言う。


















「よいことば」や「わるいことば」そんなものはない。


















「うつくしいことば」と「そうでないことば」があるだけ。


















ふれたその感触しか信じない。


















ふれたその感触だけが


















ぼくを突き動かす。


















ぼくを踏みとどめる。


















たとえば


















からだとからだがあわさるところを





こころとするならば

















ぼくのとなりで


















ぎゅっと瞑られた
あなたの目じりのそのしわの


















項垂れるように下げられた
あなたの首元のそのしわの

 







赤く染まるほどつよく握り合わされたあなたのその指の


 







あいだに幾重にも折り畳まれたそれがこころだ。


 










祈りだ。


 










すべてのこころは祈りだ。


 










そして


 










ゆっくり振りほどかれたその手に


 










まだ赤みの残るその手に


 










思わずそっと、ぼくの手が重ねあわされる。


 










悲しみと悲しみがあわさるところ


 










それこそが祈りだ。


 







祈りと共に生きている。


 






あなたと生きている。






















朝のお迎え。インターホンを押し、「おはようございまーす」と家の中に入る。


今日は送りだしのヘルパーさんは来ていないので、帰ってくる返事は無い。


いつもなら夫婦で居た部屋には誰もいない、静まり返っている。  

 

台所のほうへ進むと、 「あー」 「なんでや」 暗い声がかすかに聞こえる。

 

薄暗い部屋の中、家族が団欒できるようなダイニングテーブルに顔をふせ、


鼻をすする音だけがひびいている。


この家の中で、二人だけしかいない経験は、初めてだったが、音が静けさの中に響く。


小さい背中がもっと小さく見える。


声もかけれず、手が先に、小さな背中にそっと触れていた。


顔を見るなり、「来てくれたんかー!」と、くしゃくしゃの顔のまま笑っている。


僕が両手を背中にまわしたのか、そのひとが胸に顔をうずめてきたのかわからないが


しばらくそのまま声も出なかった。


「誰もおらんねや」 「昨日おとうさんが死んでな」 「ごはん食べたんか?」


いつも以上にいっぱいしゃべって、いつもの明るい顔になっていた。


この顔からは、泣いている顔なんて想像できないぐらい、愛嬌のあるかお。


「行こか」と声をかけ、夫婦で過ごした部屋に行き、準備をする。


そこへ、ケアマネージャーさんとヘルパーさんがやってきた。


その二人は、僕がその人に出会う以前からその人と関係があり、


デイサービスの送り出しにも来てくれていた。ヘルパーでもないのに、


デイサービスの利用の日にはこの家に来て、ワイワイと準備をしてくれていた。


明日には入所となり、もう会えないかもしれないからと、


仕事でもないのに会いにきてくれた。

 

もうこの家で会うことがないかと思うと、なんかさみしい気持ちになった。


  



デイサービスではいつも通り、にぎやかに、破天荒に過ごし、泣き顔なんか見せない。


「お父さんが昨日死んでな」 「病院ではしんどそうやったからな」 「楽になったんや」


言葉を並べて聞くと、やっぱり、当たり前のようにさみしいのかなと思うけど、


いつも通りげんきにしている。


帰る車の中でも、「泊っていき」 「いつでもおいでや」 「ご飯食べていき」


いつも通りの言葉が出てくる。


「今日でお別れやねん」と言ったことばも、補聴器を付けた耳にも届かず、笑っている。


聞こえるように言いなおすこともできず、俺も笑ってた。


家についてもいつも通り、 「上がっていき」 「ご飯食べるか?」


いつもなら家に上がるが、今日はなんか上がれない。


奈良県から来てくれていた娘さんと少し話をする間にも 「上がっていきや」 「いつでも来てや」 「明日も来てや」 と


笑って言うその人の言葉が心にひびく。


娘さんがその言葉を聞いてかはわからないけど泣いていた。


泣きながらありがとうございましたと言ってくれた。


いつもならしゃれのきいた言葉がでるはずやのに


何も言えず、家を出てしまった。


言葉で表現するのが難しいが、さみしいような、悲しいような、なさけないような・・・・・・





入所が決まっての別れなんか、今まで何回も経験してきてるはずやのに・・・・・


頭で考えたら「しゃあないなっ」て思えるのに・・・・・


死んだわけじゃないのに・・・・・




いっつもこころが折れそうになる。


いつになったら成長できるんやろう。




ダイニングテーブルで泣いていた朝の部屋が頭から離れない。