自分と自分の本質の間でベールが邪魔しているとか、開放感を感じている時には

ベール越しに覗いていると言う教えでは、特定の開放感の感覚と、

感覚がその中で表れている解放感とが混同されることになります

 

どんな時でも、あなたは気づきとしての自分の本質と直接繋がっています

悟りは感覚の中にあるのではありません

悟りはそれよりはるかに広大で、甘美で、楽なことなんです

 

ここには根本的な皮肉があります

サットサンの教えでは、広大さを感じている状態は通常は経験としては扱われません

それは、サットサンでは感情のようなもっと目立って解りやすい経験に

主な関心が向けられているからです

 

でも広大さを感じている状態も現れては消えていくもので、経験のひとつです

ところがサットサンにおいて、そういう比較的精妙なレベルの出来事も

経験に過ぎないことが了解されていないと、そう言う経験は達成が極めて難しい

目標として特別扱いされる事になります

 

その結果、それは単なる感覚的な経験に過ぎないのに目指すべき

目標になってしまうわけです

 

精妙なレベルでの経験ではあっても経験であることには違いないのですが

非二元の教えが扱っているのは、それよりも精妙で比較にならないほど

広く浸透しているものです

 

〜〜〜疑念を持っていたり、混乱しているときでも自分の本質と繋がっている

ということですか?

 

そうです

疑念は通り過ぎていく対象にすぎません

至福という一時的な現れと同じです 疑念も至福も現れては消えていきます

そうしたものが現れたり消えたりするのを直接見ているのが気付きです

 

気づきをベールや蓋が覆っていることはありません

気づきとしてのあなたは、それがほんとうだということを一瞬一瞬確認しています

 

(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? グレッグ・グッド著)

 

 

今日響いたところです✨

 

 

 

ただ見ている視点、半日〜1日くらいあっても、すぐ消えちゃう

 

その時と、戻った視点が全然違うんですよね〜

 

まさに体の中から見ているか、体も観察されているものと見ているか

楽さが全然違うのですよねえ

 

 

でも、戻っちゃうきっかけとして出てきてる色んなブロックを浄化してく過程なので

これで良いんだろうなあとも思います