世界最初の「別れの手紙」が発見 | Institute of Reproducing Kernels

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世界最初の「別れの手紙」が発見

新バビロニア王ナボニドゥスが紀元前6世紀に記した別れの手紙が発見された。

世界最初の「別れの手紙」が発見

アメリカのリバティー大学の考古学者たちが、紀元前6世紀に新バビロニア王ナボニドゥスが、現在までに発見された中で最初の別れの手紙を送ったと発表した。

考古学者たちが発見した新たな発見物は、ナボニドゥスがその女奴隷から別れる様を示している。

書字版の文言は次のように始まる。

「私の子ども時代の友人ニサバと面会しているという知らせが、上ユーフラテス川から私の元に届いた。そなたは私が最も愛していた女奴隷の1人だったため、この裏切りに打ちのめされた。リネンストールとサンダルを取りに来られるよう、今月の終わりまでそなたに時間を与える。でなければ、それらを月の神の神殿に奉納する」

この手紙は、昨年イラク南部でこの書字板を発見した考古学者たちが調査を行った後に明らかにされた。

 

(2019年4月2日)https://www.trt.net.tr/japanese/wen-hua-yun-shu-guan-guang/2019/04/02/shi-jie-zui-chu-no-bie-renoshou-zhi-gafa-jian-1175876

 

再生核研究所声明36(2010/05/14): 

恋の原理と心得

 

元祖生命体(本来の生命、生物界全体)は 永遠の生命を有し、人間的な意識と自由意志を有し、存在すること、知ること、美を求めることなどを目標に生命活動を続けている。人類の発展の先は いまだ不明である。 確かに言えることは、生存を続けること、知ることを求めること、感動することを希求しているということである。 元祖生命体においては 男女はなく一体の存在である。 従って、恋も、もちろん、男女の愛も親子の愛もそして死も本来存在しないものである。 元祖生命体においては 本来 永遠の生命を有していたから、 食欲や生命間の争いも無く、人類の進化の先をもっぱら志向しているとみられる。

しかしながら、物質の形をとって、 生命が存在するためには、そのままで、永年存続させることは、 物理的に不可能であり、再生機能による仕掛けを用意する必要があった。 厳しい自然環境に柔軟に対応できるように、多様な生体系に分け、多様性の観点から、高等生物を2種類に分け、2つの作用によって、生命を再生させる仕掛けができて、それらが、男女の誕生、恋、結婚、出生、育児、親子の基本的な営みができたというのが そもそも恋の原理である。 これが子の誕生と死の輪廻、再生の原理である。 実際、人類以外の多くの生物は、生きること、恋をすること、子を設け、育てることで 殆どその生命活動は尽きると言える。 もちろん生物である人類にとっても、 基本は同様であると言える。 実際、 人生のあらゆる活動の大部分を それらに関して費やしていると言える。 種の保存は あらゆる生物の第1原理 であるから、当然である。 実際、人生を表現するあらゆる文学の課題がそれらに絡む題材であると言っても過言ではない。

このような発想はギリシャと仏教の思想にあると考えるが、 夜明け前 よっちゃんの想い で最初に述べられた 最も大事なこと ― 必然的に新しい価値観と考え方を限りなく発展させて、雄大な世界を拓く - となるので、深入りはしないことにしたい。 そこで、心得の方に視点を移したい。 

男女がどのように恋について関わるかは 2人の自由であるから、それらの内部関係ではなくて、社会的な在り様についてまず触れたい。 実際、現在でも国や、社会によって多様な在りようが存在するのが 現実であり、実際である。 しかしながら、それらの在りようの基本として、声明1に述べられている、 公正の原則は ここでも基本になり得ると考える:

 

1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.

2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.            

3) それはみんなに受け入れられるか. 

4) それは安定的に実現可能か.

 

殆どの小説の題材になる程に 恋の問題は、人間の精神に深い影響を与えるものであるから、 特に個人個人が 自己の心に忠実に、全体として、諒となるように対応するのが 最も肝要である。 自己の心とは実際深く、複雑なものであるから、しっかりと自分を捉えて対応するのが肝要である(恋の心得)。 上述のように そもそも 恋は生と死に関わる人生の大事 であるから、特に恋の 第一の結晶作用(スタンダール)がはじまる以前においては 慎重さが大事であり、第二の結晶作用 前においては 恋を解消する勇気を持ちながら、十分な時間をとり、全人格を賭けて決断を行なうことが特に肝要である。恋には、一個の人間の、愛、欲求、良心、熱情、不安、畏れ、などなどの激しい葛藤があり、その意味で、恋にどのように関わったかは、1個の人物の第1次の総合指標を表していると言える。

 

恋の現象として、特に印象深い、参考文献、表現について触れておきたい:

恋の問題を人生・世界の広い視点から深く扱っているものとして、ゲーテのファウスト。

女性の恋と性は簡単ではなく深いものであることに触れている、バルザックの谷間のゆり。

自殺する前に話した、先輩の言葉: 私の人生で、真実は唯一つ、A を愛したことだけである。- 実際、恋のいわば失敗で、自殺に追い込まれたり、生涯に亘る傷を負うことは世に多くみられる。

人生の基本定理(声明12)に寄せられた言葉: 出産が 私の最も感動したときである。

 

少し、超越への道について触れたい。 食欲と性欲は 基本的な人間の欲求とされるが、上記 元祖生命体においては 本来それらは、無いものであり、本来の生命活動としては、それらを超えたところに存在するということである。 したがって、 食べるために生きる、恋のために生きるは、本質的な誤りを含んでいる。 真実、本質は逆である。 生きるために食べ、生きるために恋をするのである。 したがって、それらは無限ではあり得ない。 人類が 元祖生命体の人類の先を志向するのは、あらゆる生物のうちで、人類だけができる人類の崇高な使命である。 人類は己が存在の基礎に元祖生命体の己の分身が雄大に広がっていて、同じ運命共同体であることを忘れてはならない。 もちろん、人間は同じ元祖生命体の分身であり、個々の人間は1個の細胞のような存在である。 まこと 個々の人間の存在は 元祖生命体の雄大な存在からみると 大河の一滴 (五木 寛之) と考えられるが、しかしながら、それは同時に全体に関係し、全体を内包しているから、限りなく貴い存在である。

元祖生命体の高度な謙虚な営みの一つして、 数学者の人生を紹介したい。 数学者は関係を追及していて、ただその関係はどうかという問題意識を持ち、あるいは その真偽の追求、あるいはそのような関係を求めて、真理の追求を行っている。 面白いのは、それらは世の中と何ら関係がなくても、 それはどうか、どうかと限りなく追及していることである。 しかも その中に、美と感動を見出して、その追求には終わりはなく、 無限である。実際、たとえば、オイラーの公式の魅力は千年や万年考えても飽きることはなく、数学は美しいとつぶやき続けられる、と言える。数学者にとっては 人生は短すぎると言える。また、移ろい行くものや世事に関心が薄く、実際、戦場でも数学を考えていたというような逸話が残されている。 科学者や芸術家も同じような人生ではないかと考えられる。実際、人間は有限性と無限性の両面を持っている存在である。

以 上

 

再生核研究所声明 124 (2013.8.20):  恋の機微 - 恋の極意

 

(2013.8.15. 09時頃、研究室に向っているとき、恋の極意の声明案が 独りでに湧いた)

 

恋の問題については、再生核研究所声明 36: 恋の原理と心得 の中で、その本質と心得まで 相当に深く触れたのであるが、上記 インスピレーションにおける恋の機微、極意について 現象面から、追加言及しておきたい。

恋の原理は、いわば、遺伝子が強力に飛び出して新しい生体に乗り移ろうとする激情として表現される。人間もあらゆる生物は、遺伝子の乗り物であるという現実があり、生体は遺伝子によって強く動かされるものである。事実として、生物界の多様性の原理によって、いわばでたらめに遺伝子が生体を求めて移動しようとする面を有するかと思えば、他方では、深く選別して、他を受け入れない特化性を有することである。この2面性の心理は微妙であり、その解明には相当に時間が掛かるのではないだろうか。― しかしながら、初期条件が、初期が大事な影響を与えるということが 鍵ではないだろうか。

しかし、事実として、時と状態に強い影響を受けて、恋が始まれば、どんどん深まり、一つの生態をなすように調和と共生の在りように自然に深まるものである。

そこで、始めのきっかけと、状況が 永遠の運命を定めることに成ると言うことである。― その時の 心の状態、環境がすべての方向を決定している事実である。

遺伝子の激しい欲求の中で、盲目的にいわば新しい生体を求め、探し、選択,決断するのであるが、それが心の総体の全面的な活動の形相である。全面的な活動の形相は熱病にかかったような状況であるが、苦しい選択であり、そこが、新しい生命と精神の誕生する場であると考えられる。

されば、 恋の機微 - 恋の極意 とは あくまでも自己の全人格をかけた忠実な選択であり、究極的には 好きなような選択を行うこと が大事であると言うことである。― 好きになる、惚れるは 極めて尊いことであり、人間存在の本質である。学問、研究、求道、芸術、全て同じようなものである。

心も環境も どんどん変化して行くものであるから、タイミング、時が決定的に大事であり、時を逃がさず、機会を逃がさず、時間よ 止まれ 永遠に と、叫ぶ勇気と行動こそが、恋の機微 - 恋の極意 と言える。 人生、機会はそうは多くはないと覚悟すべきである。

以 上

 

再生核研究所声明146(2013.12.17) 愛の本質、愛の原理 

(On this morning (2013.12.12, at 4:20), I waked up with the mathematical idea:

Reproducing kernels are positive definite Hermitian matrices when the dimensions are of finite cases. So, for the Berezin transform, we can apply the idea, then we will be able to obtain definite results, I think.

Please look our recent new paper for matrices and reproducing kernels.

Meanwhile, at 6:20, I got a new idea on the Principle of Love; I will be able to write a new Announcement on human beings.)

上記のように突然、考えが湧いたので、 その考えを 成文化したい。

まず、愛とは何か、の定義を与えたい。 -  愛とは、共生感に基づく、喜びの感情である としたい。本質を捉えるのには、愛が現れている典型的なところから、捉えれば良い。 すなわち、命を交換する, 再生の原理、親子の愛男女の愛から、愛の本質、原理を捉えよう。共に自らの命を存続させるべき、大いなる命への帰依への原理 が働いていることを知るであろう。これは 命を共有することを述べていて、愛の定義の妥当性を述べていると考えられる。当然 大いなる命の存続性から、喜びが湧かなければ、生命の基本定理が成り立たず、生物が存続できないことになってしまうだろう。

述べたい、愛の原理を導くには、他から見れば、変な親子、恋人、夫婦でも 愛は存在して、多くは永く、愛の感情が続いていくという,事実である。これは何を意味するであろうか。共生感が共に生きている、精神的な世界全体の共感を伴う、共通世界の共有感が、存在している事実を表わしている。初期はいずれも生物の命の共有感、再生の原理が強く働くが、それが長く続くのは、親子も、夫婦も共に生きてきた共通の世界を共有していて、その間には 運命共同体の様な連帯の絆で結ばれていることを意味する。

こうなると、親子や、男女の間に関わらず、民族や国家も同じ精神、文化を共有しているとして、共生感、連帯感に根差す、愛、愛国心がおのずから湧くのは当然である。 級友や同窓会、同郷の間で、共有する想い出に根差した愛が感じられるのは、当然である。志を共にした間、さまざまな仲間の間に愛を感じるのも 当然である。同じ、想い出、文化それらは、精神的な命そのものであり、それらを共有し、大いなる命に帰依したいと本能的に求めるからである。

― しかしながら、ここで生きることとは、個として生きることに非ず、大きな生命、元祖生命体 (再生核研究所声明36) としての 大きな命の存続 を志向している のも明らかである。それ故に、人は、共感、共鳴、交流を求めている。それは、精神を引き継いで行きたいという この大きな命に帰依したいという、本能に基づいているからである。(再生核研究所声明145)

軍隊における部隊が、寝食を共にして生活していれば、一体の生命観を共有して、自己の命も部隊の命も同じような感情を有して、一糸乱れない行動をとるようになるだろう。現に 世における戦場では 部隊が同じ運命を共にしているのは明らかである。なぜならば、部隊を離れた、自己の存在は 意味がないように感じられるからである。

人は、国の為に命が掛けられるか と問う。 祖国亡くして生きる意味があるのかと問えば、是非に及ばず、国と運命を共にせざるを得ないだろう。それは、愛の本質からの、自然な帰結となるだろう。

親子や夫婦に愛が有るのは、共有する大きな命、経験、想い出を共有しているからである。 逆に見れば、何でも質が大事であるが、深い付き合いが 愛を深める事になるだろう。これが 愛の本質であると考える。

 

以 上

参考資料 愛 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B より):

概説[編集]

「愛」の意味は、時代とともに多様化してきている。

最初に辞書における語義の説明に軽く触れ、次に、伝統的な用法、各宗教における説明で人々の間に定着している意味を解説し、その後、現代の多様な用法まで、歴史に沿って解説する。

辞典等の主要語義の解説[編集]

広辞苑では、次のような語義をあげている。

親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり[1]

男女間の愛情。恋愛[1]

大切にすること。かわいがること。めでること[1]

〔キリスト教〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー[1]

〔仏教〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる[1]

日本語の「愛」の意味の変遷[編集]

日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい[2]、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま[2]、を意味した[3]

近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「Love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多用な用法が作られてきた。

伝統的な説明、宗教的な説明[編集]

古代ギリシア・キリスト教での愛[編集]

キリスト教において最大のテーマとなっている愛と言えば、まずなによりもアガペーである。 そのアガペーとはいかなるものなのか、その特質を説明するにあたって、キリスト教関連の書物や西欧文化圏の書物では、あえて4種類の感情(すでに古代ギリシア時代から考えられていた4種類の"愛"、いずれもギリシア語表現。)について説明している[4]ことが多い。それらは以下のとおり。

ストルゲー英語版)」 στοργή storgē

キリスト教では家族愛。古代ギリシアでは風、火、水、土を結合させる愛。

エロス」 έρως érōs

キリスト教では性愛。古代ギリシアでは自己を充実させる愛。

フィーリア」 φιλία philía

キリスト教では隣人愛。古代ギリシアでは友人の友人に対する愛。

アガペー」 αγάπη agápē

キリスト教では真の愛。古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛。

新約聖書においては「神は愛です」(ヨハネの手紙一 4:8, 16)に代表されるように、神の本質が愛であり、特にイエス・キリストを通して愛が示されている。「アガペー」及び「フィーリア」は聖書に用いられているが、「エロス」は用いられていない[5]

イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」(マタイ 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。

パウロは対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」(1コリント 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵charisロマ 1:5、ほか)と呼び、これはのちにgratiaとラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。

西欧の伝統、キリスト教の信仰においては、愛は非常に大きなテーマである。キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。

「知」への愛

哲学を意味する古代ギリシア語の「φιλοσοφία(フィロソフィア)」は上記「フィーリア」に対応する動詞「φιλειν(フィレイン)」(愛する)と「知」を意味する「σοφία(ソフィア)」とが合わさった語であり、直訳すると、知を愛する、「愛知」、となる。

ユダヤ教「ヘブライ語聖書」における愛[編集]

ヘブライ語聖書においてはに相当する語として、ヘブライ語の「אהב」(エハヴ)(エハヴァ)(エハヴァー)が使われているが、日常でも用いられる。なお、ヘブライ語をカタカナで表すのは難しく、「א(声門破裂音アレフ)・ה(無声声門摩擦音へー)・ב(軟口蓋接近音ヴェート)」の発音が組み合わさると、「ה」と「ב」は「ハ」のヴァリエーションにも聞こえる。また、主の名と、アダムの妻の名と、愛、これら三つの言葉は、発音がよく似ている。

また、キリスト教の英語旧約聖書で「lovingkindness」「kindness」「kindly」「mercy」「in goodness」と訳される「慈悲」の意味の「חסד」(ヘセド)[6]は、他に「favor」「Loyalty」「disgrace[7]」などと訳されて「えこひいき」「忠誠心」「恥」の意味にも使われているが、「Loyalty(恥)」と訳された「חסד」(ヘセド)をヘブライ語聖書レビ記20章17節に見ると「慰み」の意味合いも含まれていることがわかる。神の愛はしばしば歴史記述を通して具体的に語られる。概要としては、愛を受けるに相応しくない者に、神の自由な一方的な選択によって愛が与えられ、その者が、たとい神から離れようとも、神は見捨てない、という内容である[5]

「מאהבת」は[8]、主の「」の意味。この綴りは、主が「愛した」という意味の「אהב」を[9]核とする。

キリスト教では、新共同訳聖書申命記7章8節「ただ、あなたに対する主ののゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。 」と翻訳されている。

「מאהבת」はまた[10]、女の「」も意味する。

キリスト教では、新共同訳聖書サムエル記)下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女のにまさる驚くべきあなたの愛を。 」と翻訳されている。

「אהבתך」は[11]、親友の「」を意味する。

キリスト教では、新共同訳聖書サムエル記下1章26節「あなたを思ってわたしは悲しむ/兄弟ヨナタンよ、まことの喜び/女の愛にまさる驚くべきあなたのを。 」と翻訳されている。

「אהבת」は[12]、息子に対するアブラハムの「」。

キリスト教では、新共同訳聖書創世記22章2節「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 」と翻訳されている。

「ואהבת」は[13]、主を「愛すべし」の意味。

キリスト教では、新共同訳聖書申命記6章5節「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 」と翻訳されている。

「ואהבת」はまた[14]、隣人を主である私のように「愛すべし」という意味の聖句にも使われている。なお、主は、キリスト教申命記10章9節にも記されているとおり、レビ族[15]嗣業を意味する。

キリスト教では、新共同訳聖書レビ記19章18節「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。 」と翻訳されている。

「לאהבי」は[16][17]、主から慈悲を与えられる「愛人」の意味。主の「לאהבי」(愛人)であることに対する見返りが、主の「חסד」(慈悲)である。

キリスト教では、新共同訳聖書出エジプト記20章6節並びに申命記5章10節「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。 」と翻訳されている。

仏教での愛と慈悲[編集]

仏教における、いわゆる"愛"(英語でloveに相当するような概念)について説明するには、「愛」と翻訳されている概念と、「慈」や「悲」と翻訳されている概念について説明する必要がある。

「愛」に相当する、概念には サンスクリット語ではtRSNaa तृष्णा、kaama काम、preman प्रेमन्、sneha स्नेह の4種がある。

tRSNaa

人間の最も根源的な欲望であり、原義は「渇き」であり、人が喉が渇いている時に、水を飲まないではいられないというような衝動をいう。それに例えられる根源的な衝動が人間存在の奥底に潜在しており、そこでこれを「愛」とか「渇愛」と訳し、時には「恩愛」とも訳す。

広義には煩悩を意味し、狭義には貪欲と同じ意味である。

また、この「愛」は十二因縁に組み入れられ、第八支となる。前の受(感受)により、苦痛を受けるものに対しては憎しみ避けようという強い欲求を生じ、楽を与えるものに対してはこれを求めようと熱望する。苦楽の受に対して愛憎の念を生ずる段階である。

kaama

kaamaはふつう「性愛」「性的本能の衝動」「相擁して離れがたく思う男女の愛」「愛欲」の意味に用いられる。これを「婬」と表現することが多い。

仏教では、性愛については抑制を説いたが、後代の真言密教になると、男女の性的結合を絶対視するタントラ教の影響を受けて、仏教教理を男女の性に結びつけて説く傾向が現れ、男女の交会を涅槃そのもの、あるいは仏道成就とみなす傾向さえも見られた。

密教が空海によって日本に導入された時は、この傾向は払拭されたが、平安末期に立川流が現れ、男女の交会を理智不二に当てはめた。

性愛を表す愛染という語も、この流れであり、しばしば用いられる。

慈悲

preman, sneha

preman, snehaは、他人に対する、隔てのない愛情を強調する。

子に対する親の愛が純粋であるように、一切衆生に対してそのような愛情を持てと教える。この慈愛の心を以て人に話しかけるのが愛語であり、愛情のこもった言葉をかけて人の心を豊かにし、励ます。この愛の心をもって全ての人々を助けるように働きかけるのが、菩薩の理想である。

仏教でも人のことを深くおもい大切にする、という概念はある。ただし「tRSNaa」や「kaama」の中国語での翻訳字として「愛」の字を当てたため、別の字を翻訳字として当てることになったのである。菩薩が、人々のことを思い楽しみを与えることを「maitrī」と言うが、その翻訳としては中国語では「慈」の字を、人の苦しみを取り除くことkaruṇāには「悲」の字を用い、それらをあわせて「慈悲」という表現で呼んだ。

特に大乗仏教では、慈悲智慧と並んで重要なテーマであり、初期仏教の段階ですでに説かれていた。最古の仏典のひとつとされる『スッタニパータ』にも慈悲の章がある。

あたかも母が己の独り子をば身命を賭けて護るように、一切の生きとしいけるものに対しても、無量の慈しみのこころを起こすべし。全世界に対して無量の慈しみの心を起こすべし(『スッタニパータ[18][19]

一切衆生に対する純化された想い(心)を慈悲という。それは仏だけでなく、普通の人々の心の中にもあるものだと大乗仏教では説く。

観音菩薩(や聖母マリア)は、慈悲の象徴ともされ、慈悲を感じることができるように表現されている。