良きにつけ悪しきにつけ、ステージ以外の部分で好きになったり嫌いになったりをしたくない。これは一部の例外はあるにしろ、アイドルを見るという行為に対しての終始一貫した僕のプライドだ。
だから僕はASTROMATEを変わらず礼賛するし、肯定する。

先日のDDD@白金高輪SELENE b2。僕はなんとなく気が乗らず、であればこの広いステージを後方からのんびり見てみよう、そして彼女たちの今を感じてみようと、声も手振りもせずただ腕を組んで眺めていた。
実に隙がなく、流れるようにステージは展開していき、流動的かつ規律をもって集合離散を繰り返し進んでいく、なかなかに鍛え上げられた兵隊だった。遊びを差し挟む間もなかった。結成1年のステージとしては上出来だったように見えた。
フロアは熱が低く、寒かった。寒いことをしているというのではなく、単純に熱が不足していた。

前に、あそびダンジョンの瀬戸そらら(今現在通っているわけではないが、考えてみれば知り合ってからは何年か経っている子である)に、ASTROMATEと対バンで一緒になったときに、感想を聞いてみたことがある。
曰く、このレベルにいる歌声ではない、と。
そこまでほめちぎるほどに突き抜けた水準ではない、多分にお世辞も入ってのこととは思うが、生歌で不安になることも特になく、ステージの成立を危ぶむことも、不快になることもない。歌声に関しては、十分な水準だろう。

ダンスに関しては結局門外漢なのでわかりはしないのだが、秀でたレベルにあると思う。目を凝らしてステージを見ると、その動きの良さにほれぼれとする。
特に望月さあやと結川まひろ…この両名はこのグループの結成時基礎レッスンから関わり、ほとんどの曲に振付師として携わっている槙田紗子が「ダンスモンスター」と称した2人だが、このツートップは現代のアイドル界でもなかなかの次元にいるのではないのだろうか(本当の意味での本格的な鍛え方はされていないであろうにも関わらず)。
力、勢い、サイズゆえの速度感(体の小さい子は同じ速度で動いても速く見えるものである)の望月さあや、所作の美しさと切れ味(そして自らの世界に陶酔するがごとく、クールで妖艶な表情)の結川まひろ。

アイドルの裏方、作る側としては駆け出しの槙田紗子だが、現在において最高傑作なのがASTROMATEだろう。自分のイメージを実体化してくれる、自分が好き放題やっても破たんせず消化してくれる、それだけのスキルを備えた子たち。
彼女自身もあすとろに携わるのが楽しいのだろう。自分にも人にも厳しい人だし、その要求水準を満たす者に対する喜び、満たさぬものに対する怒り、いずれも隠すのが下手な人だ。ASTROMATEに携わっているときの彼女からはその喜びを感じる。

もう4年前になる。彼女がPASSPO☆を辞める(当時は無期限休止扱いであったが)時、僕に夢について聞かれ、語ったのは「いつかアイドルを作りたい」ということであった。
もちろん夢は絶えず流転していくものであるし、彼女の夢が終始一貫してそれであるということもきっとない、僕はそれは一時的な気まぐれ程度のものだと思っていたのだが、ことアイドルに関しての精力的な携わり方を見るに、そう軽い語りでもなかったのだと思うようになった。
彼女が夢を追う過程を見続けたいと願っている僕からすれば、彼女が夢として語ったその分野での手習い、修行過程において、一番のびのびと好きなようにその能力を発揮し作品として仕上げているASTROMATEを見るのは至極当然なのである。

正直、ロックは聴くもののジャンル分けには疎い僕としては、ASTROMATEのロックを端的に言い表す語彙を持たないのだが、あえて言えば「メタルコア」とでもいうのだろうか。そんなことを言ったところで僕も実感はないのだが。
それよりは、かなり強めながらどこかキラキラしている、宇宙に輝く星のように、とでも言った方が、「ASTRO」MATEにもかかっていてよいのではないか。

それを、踊る。
ロック×アイドルというのはこのアイドル戦国時代と称されたここ10年弱において使い古された手法ではあるが、その分野が洗練されていった結果、踊りよりも客を煽ること、客を乗せ踊らせること、その行為と歌を合わせ客に対峙するアイドルが増えたように思い、また、そのほうが現在の客にとって受けが良いようにも思う。
スタイルの違いゆえ、優劣というものではないし、そもそものロックというところからすれば、例えばミュージカルに対して「なぜ突然歌いだすのか」という疑問を抱くがごとく(ここでミュージカルについて語る気は毛頭ない)、ロックミュージックが流れる中でなぜ踊るのか、不自然ではないか、という気もする。極めて正常な進化、洗練なのかもしれない。
そしてそれを求める客が減るのであれば、それはそれを志向するアイドルが流行らないのも当然の話なのだろう。

ここ10年弱はアイドル戦国時代と称されてきた。僕が現場に足繁く通うアイドルをたくとして過ごしてきたのも、ちょうどこの10年(正確にはもう数年長いが)だった気がする。
その中で、「ロックを歌って踊るアイドル」を数多く見てきた。曲と歌声と踊りとでステージを彩る、その3つを鍛錬して磨き上げ、客に見せ、客とつばぜり合いをし戦いそしてその場を成立させるアイドルたちを、数多く見てきた。
その現場のをたくたちは、曲を聴き、歌声を聴き、踊りを見て、そして壇上の自らの推しに対し、自らの思いを叩きつけるがごとく、その名前を呼び、その方向に手を向けてきた。

もはや戦国時代も終わったと言われる。前述の、歌と煽りをもってその場を成立させるロックアイドルたちのをたくは、皆で同じ動きをし、コールアンドレスポンスをし、あるいはサークルを作ったりしているような者が多い気がする。全くの私見である。
しかし、旧来のをたくの在り方と違ってきているような気がする。もちろん悪いわけではない。ある意味これも、ロックアイドルに対するをたくの正常進化なのかもしれない。

ASTROMATEはそういう現場になっていない。ミックスすらない、極端なコール現場として、そして推しを指さす現場としてここまで来ている。
古臭い現場かもしれない。時代に逆行しているのかもしれない。少なくとも現場をそういうようにしたをたくのうちの一人である僕としては、これでよかったのか、と思うところはある。

だが、この10年の中で、僕はそう在ってきてしまったのだ。曲を聴き、歌を聴き、踊りを見る。時には睨みつけるようにして見る。そして、その推しのパートで、ただただまっすぐに腕を伸ばし、指をさしながら、その子の名前を呼ぶ。そう在ってきてしまった。
そして、その場のをたくのその声、その熱量が壇上のアイドルと呼応してさらにその現場を形作っていく、そういう現場を是として育ってきてしまった。

きっとそうしたいをたくはまだたくさんいると思っている。その形が必ずしも肯定されるべきものとも思っていない、しかし、また、ASTROMATEにおいては壇上の5人のうち少なくとも2人は(そんなものはないという公式設定だが)、これまでの経験をもって、自らの名を呼ぶ声が多い、大きいことを是とするように育ってきてしまった。別の1人も少なくともそれを是とする価値観を持ってしまっているようである。

単純に声が足りない。もっと人が、声が欲しい。

僕に、「(僕のように)前に突っ込んでいっていいんですか」と聞いてきたをたくがいた。もちろん、と答えた。
もちろん、僕が許可するようなものではない。勝手にやっていい。推しの名前を叫びたければ叫べばいい、前に突っ込みたければ突っ込めばいい(誰も怪我だけはしないように、それだけは気を付けて)。

別に僕がそうしているというだけで、それだけがあすとろ現場において是とされているわけでもない。そもそも誰が是だの非だの言うのか。好きにやって、好きに楽しめばいい。誰に遠慮する必要もない。
ただ、とにかく壇上の流れるような、それでいて熱を帯びたパフォーマンスに対し、客席の熱が足りないのだ。

もっと熱を。君たちは推しの名前を叫びたくないのか?叫びたいだろう?そうやって戦国時代を生きてきたじゃないか。歌って踊るアイドルたちにそうやって対峙して生きてきたじゃないか。
そんな、滅びつつある現場がまだここにある。そういう現場に育つ可能性を秘めた、ポテンシャルを十分に秘めた現場がここにある。
3月17日、新宿samurai。1周年を記念し、初の単独ライブ。19時半開場、20時開演。
予約はこちらから(16日23時59分まで)。

 

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「あの頃は良かった」って?それはお前が止まっとるんじゃ。
(吉野寿(イースタンユース))

懐古ではない。スタイルは古くても、現在進行形であり、ここから始まっていくのだ。
去りゆく戦国時代への鎮魂歌、しかし彼女たち、ASTROMATEはそんなものを歌うためにいるのではない、いまを生きていて、この泥濘から宇宙を目指さんともがいているのだ。