以下妄想。今回はこれまでに増して支離滅裂になる気がする。書いといて難だが、はじめに言っておこう。以下の文章を読んでも、きっと時間の無駄。まあ、このブログを読んでいただけるような奇特な方々なら先刻承知か。

まあいいや、以下随想。



「だが、プロレスとはいったいなんなのだ?」

時のNWAチャンピオン、ハリー・レイスのたたずまいに、そのようなセリフを見たのはかつての直木賞作家・村松友視氏(ホントは旧字体なのだが変換機能で出てこないため勘弁してください)だった。彼の著書『ダーティ・ヒロイズム宣言』によれば、プロレスのチャンピオンとは何か、という疑問には「ルールに守られた保守の醜さを表現する立場」と結論を出しながら、いまだにプロレスとは何か、という疑問だけが頭に残る。そして、かつて無法者のラフ・ファイターであった彼は、今は何をしてでも「ルールの上で」王座を守り続ける「汚い王者」としての道を歩み続ける、ということであった。

俺は高々二十歳の若造であるからそんな太古の昔のアメリカ・プロレスなど知らない。そもそも俺はプロレスは見ないので今だろうが昔だろうが知らない。この本にしてみたって、たまたま親父の本棚にあったがゆえに読んでいるだけ、文章上でいくら感銘を受けたところで本物を見ないのだからまったくどうしようもない。


しかし我々も、ある意味では彼と同じただの傍観者であり、発するオーラから何かを感じ取って妄想するだけの人種である以上、例えば彼女たちの一挙手一投足からこんな疑問を感じ取っても誰も怒るまい。

「だが、アイドルとはいったいなんなのだ?」

アイドル、つまり偶像である。と書くと、一気に宗教めいてくる。なんて話はきっと前に書いた。つまり崇拝の対象。劇場に行き自分の偶像を拝む、しかしどう考えてもそんなに神聖な行為じゃない。第一、何の偶像なのか?キリスト像はキリスト教の神でありキリストであり聖霊である(と昔、世界史で習った気がするのだがクリスチャンでもないので細かいことはわからない。メチャクチャでも勘弁してください)ものの代わりに拝むための像であるし、仏像はその名のとおり、仏をかたどった偶像である。もっとも真の意味で偶像と言ってしまってよいものかどうかは知らないが。

ならば彼女たちは何の偶像なのか、はて、脱線してきた。わざわざ冒頭でプロレスラーの話を書いた、つまり演じる側の思いを今日は書こうと決めたのだから、彼女たちが何を思ってアイドルしているのかの「妄想」をせねばならぬ。

「好きって言ってくれなきゃすねちゃうもん、ねっ」

「みんなの視線をいただきまゆゆ!」

「(投げやりな口調で)はーい、元気でーす、シンディこと―」

これがアイドルらしい。最後の人はまあとにかく(笑)、元気、笑顔、夢の世界。疲れも何もありません、夢に向かって一直線。みんな応援してね。かわいくやさしくステキなアイドル。

まあ、どの世界でも仕事というのはそういうものだろうが、100パーセント自分の本意でやっている者などいない。各々が自分のアイドル像を精一杯演じて見せている。疲れた顔をする暇があったら、誰にもはがせない笑顔の仮面を自分に貼り付ける。


プロレスラーなら喧嘩が強くなくちゃいけない。前述の村松氏の著作によれば、プロレスラーは喧嘩を売られた場合、それを避けるわけにはいかないという。断れば、「あのレスラーは、俺の喧嘩も買えない弱虫だぜ」などと陰口を叩かれ、そのレスラーのリング上での格闘を誰も本気で見なくなるから、らしい。

アイドルならかわいくなくちゃいけない、夢を体現しなくちゃいけない。というほどの強迫観念はいまのアイドルにはないだろう。特に、近づきがたいオーラを要求されない「身近な」アイドルたちは。むしろ、「私たちはアイドルですけど―」という、醒めた姿勢を「あえて示す」ことによってもまた、客の心理に近づいていく。「身近にいてくれる、手の届くところにいるアイドル」像を客に見せるのである。伝説時代、例えば松田聖子やもっとさかのぼって山口百恵、先人たちの明確な「アイドル」像を元として、「絶対あそこまではいけない、けど目指すのはそこ、だけど今の私たちはねえ(笑)」などと、自らを笑って見せることによってさえ、「身近なアイドル」像をさらに強固なものにしていく。自らをネタとしながら、「人気」という、芸能界で成り上がるための武器を集めていくのである。


いかにして、自らの思い描く「アイドル」像を「見せて」いくか。また、どうしたら客の求める需要、「アイドル」のイメージに答えていくか。「いかに見せていくか」の追求という点で、アイドルとプロレスは何か似通ったものがある気がする。

「元気、笑顔、夢の世界。疲れも何もありません、夢に向かって一直線。みんな応援してね。かわいくやさしくステキなアイドル」だけではきっともう駄目なのだろう。そのような「正統派」を期待しつつ、客もまた「醒めている」。醒めた部分、つまり「素」の部分をさらけだすことも、また客は期待しているからだ。つまり、アイドル側としては、その「醒めた部分」をも演じる必要性が出てくる。難しい注文だ。「正統派」を求めながら、「醒めて」もいる、その両面を表現しなければならない。いまどきのアイドルにはそのようなものが求められている。とはいえ、べつにそこまで演じる必要もない。本気で「アイドル」の思考回路をしている子ならそれをそのまま出せばいいし、「醒めている」思考回路をお持ちなら、「アイドル」の方だけ演じていればいい。


・・・だが、アイドルとはいったいなんなのだ?この疑問に、結局何も答えられていない。しょせんはただの妄想の「偶像」か?そこいらを歩いている女の子にまずハンコを押させ、衣装を着せて、名前を与えて舞台へと放り出す。すると、「ファン」たちがゾロゾロやってきて口々に彼女の名前を叫ぶ。そして脈拍数を上げる。ただのお遊びか?「アイドル」は単なる舞台装置か?「アイドル」の名がつけば、男たちは口々に愛を叫ぶ。そんな男たち(に限らなくてもいいのだが)を右から左へと調理しながら、彼女たちは自分の野望に向かって突進していく、とも限らない。「アイドル」の名がつくこと、それだけが目的の子だっている。



・・・なんだこの文。公開していいのか?まさに徒然なるままに、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくった。自分でも何言ってるかわからん。