親父の誕生日だ うちの親父は55歳で死んでしまったから、当時でも若死であったろう
もう、自分も今年63歳だから、親父よりも8年も多く生きていることになる
親父がなくなり、その時葬儀をお願いした坊主が「お父さんは何歳でしたか」と聞かれ
55でしたと答えると「55で死んでも5歳で死んでも寿命ですからね」といったことを
今でも覚えている、その時の葬式は組織の人たちが大勢駆けつけてくれて、思いの外
盛大だったことを、覚えている。
うちの親父は、新小岩にある重松工作所という当時カーテンレールを作って入る会社の長男に生まれた
この字形のレールに動く球を入れて、カーテンを移動させる現代でもメジャーなレールを開発、制作したのは
うちの親時の親父、つまり自分のお爺さんだったらしい。
その当時はそれの特許をもち、そこそこの大企業であったが、親子の関係が上手くいかず
うちの親父は家を飛び出して、勝手に会社を起こしてしまった。
小さい時はまだ江戸川区 松島の工場に親父が働いており、大きな熊のような犬がいた
3歳ぐらいであったか、その背中に乗って街を歩いていると「金太郎さんだ」と声をかけられたらしい
その犬が死んで、鼻から血を流していたシーンだけ鮮明に憶えている。
父はそれから寿司屋を出したり、焼き鳥屋を行ったがどれも鳴かず飛ばずで終わってしまった。
うちの長男である敦史と動物園に行くと約束していたが、父が風邪で熱を出してしまい「また今度行こうと
敦史に伝えてくれ」という電話が最後の言葉になってしまった。
生きていればもう89歳になっていた。
父よりも多く生きている、この命を何に使って行くべきだろう?
余命半年と言われ、自分の生きて来た証を残したくて、私小説書きました、駄文の為、突然閉鎖するかもしれません、もしかすると、癌寛解のヒントがあるかも知れません、抗がん剤の治療をされている方にも少しは参考になるかも知れません。
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25年ぶりに三峰神社から、三峰山を下り、浄蓮の滝で心身を研ぎ澄まして来ました、膝と腰に障害を抱えていたので、かなり厳しい試練となりましたが、また、一つ乗り越えることが出来ました 押忍
パッキャオ 本当に戦うなら、ルールは公平に総合ルールでやってほしい どこかの金持ちチャンピオンみたいに
ボクシングルールで億を稼ごうなんて、みっともない
西島洋介はKー1ルールや総合ルールで戦ったぞ(殆ど負けたが)
いずれにしても、見て見たいカードNO1 生きていて良かった