amebloから2度目の新潟中越大地震にお見舞い申し上げます。
以前にも一度このamebloでこんな話題に触れた記憶があります。ameblo歴長いなー感心、そうか地震のスパンが短いのか。多分両方ありますね。

いつも何もしてあげれないけど、いつか自分の身にも降りかかってくるかもしれない災害。
自分では何を準備しているかというとあまり何もしていなかったりする。
東京新宿御苑前と、三重県松阪市の山麓に生息している身としては、東京は地震が多くなれてしまい、多少の揺れでは布団からも出てこない、三重は山だからなんとなく地震が少ない。

しかし山の地震は小さくでもちゃんと地鳴りがよく聞こえます。だから少し「!!」とびっくりしたりします。三重の家屋はいわゆる古民家再生住宅。きっと大地震だとぺしゃんこです。
一応大工の言うことには、「今まで耐震強度が0.2だったのを、2くらいまでにはしてやったわい」だそうで、「いやー安心!ありがとうございます!!」と、素直に言えない感じもします。
もし地震や災害が起きて家に居れない状況になったら、多分サバイバルなことになるでしょう。畑に仮設小屋を竹でつくって、キャンプ装備でしばらく過ごしたり、もしかしたらもっと山に入るかもしれません。
とかいいながら、とっとと新宿御苑までやってきて、「あーやっぱ都会は安心!」とかいいながらファミマにチキンをかぢってるかもしれませんけど。
エコ生活とジャンキーは紙一重なのです。何事も表裏一体。これ真理です。



先週の台風では、畑があらされました。でっかくそだったひまわりが倒れ、休憩小屋にしてあったティピ(インディアンの住居)が倒れ、隣のたんぼの稲を数本折ってしまいました。
少し悲しい出来事だったのです。
しかしまじ停電とか気になりだし、ロウソクとか、ラジオとか用意したりして、おいらったら・・

そんなさなかにもめげずにプログラムを書いたり、企画を練ったり、いんげんを植えたりしています。
一日も早い復興と、被災者の精神安定を祈ります。
天はひとのうえにひとをつくらず、ひとのしたにひとをつくらず

人間みな平等

なんとなくこんな言葉が最近ふと腑に落ちてきています。

普通、「誰々よりもうまくできる」「あの人よりもいいやつだ」「誰よりもかわいい」
と誰々よりも、って考えることが多いと思いますが、

ひとはみ~んな とんとん、

結局個性を見ずに、比較対象だけに視野がいってしまうと、感情や自信が乱降下することになります。しかし個性、個々の特性としての視点を見始めると、結局みんな同じくらいなのです。

大きな幸せをつかんでいるひとは、大きな悩みや不幸があったり、、
大きなお金を持っている人は、貧乏のどんぞこも知っていたり、
かわいい、かっこいいひとには、トゲ!?があったり、
そう、最高点と最低点は比例しているのです。そんな気がします。
その点差の違いが大きいほど波乱万丈の人生ということになりますし、点差が小さく、穏やかに生きている人もいるでしょう。
どちらがいいということはなく、それも含めて個性であります。

人間関係を考えるとき、
「相手の性格」「相手の能力」「相手の価値観」「相手の容姿」
いろいろと分析することになりますけど、「好き・嫌い」という感情的な判断を除いて、「個性」を認めることは、少しの訓練で腑に落ちてくるでしょう。
そうすれば、非常に気が楽になります。なぜならば相手に求める気持ちの焦点が会って来るからです。焦点が合うと相手も楽なので、うらぎられる確率が減るようです。

そうみんな、自分で「相手に求めすぎて」、自分で勝手に「うらぎられる」を繰り返します。
だから疲れます。

みーんなとんとん は、結局真理だと思います。
赤か青か、混ぜれば紫になるな。人間関係はそんな発想と視点を癖にすれば、楽になりますよ。
とあるおじ様から、「本気」になれと言われました。

そういえば「本気」とはどういうことだったかな?とか、最近「本気」を出したのはいつだったかな?とか、考えてしまいました。

よくよく考えてみると、仕事は結構一生懸命やってますね。
朝早く起きて、一回りして、いろいろな企画を練って、、、、あ、多少おサボりすることも。。。

しかしそれに「本気」の「すごみ」があるかといえば、、、、「無い!?」かも。

これは、そう大反省課題でした。

これまで人脈、というか、助けていただいた人たちに恵まれ、
いい仕事もいただき、いい機会や、いい出会いも与えてもらえ、
何かしれがあたり前のような傲慢さも現れた時期もあったり反省したり、
時代に追われるではないけれど、社会システムに反面教師になったりもしたので、いろいろと距離をあける癖がついてしまったり。
そんな習慣が「本気」ということから遠ざかっていたと思うのでした。

「本気で一発やったろーやんけ!」と力強く言えることってありますか?

それだけがあれば、後はサボろうと怠けようと、遅刻しようと、居留守を使おうと、、「本気」でやってもらえるだけの価値はあると思います。
一生懸命との違いを考えるのがポイントのようです。
新宿御苑の会社、、だけど、三重の山の麓にも事務所があります。
仕事がら、ロハスやスローなことと情報産業を結ぶ会社なので、いわゆる現地主義のようなものです。

こんな山の麓でもインターネットは引かれてて、フレッツもしくはCATVが可能です。
ブロードバンド(死語?)な環境もどんどん加速していますが、こちらは1Mbpsの回線です。これにパソコンが5台くらいぶら下がっています。昔インドで使ったインターネットカフェで、54kモデムを10台で回線シェアしていたのよりもマシです。

しかし、実際のところ、これで充分なのです。
大好きなインターネットラジオを128kでストリームしつつ、誰かがネットサーフィンしてても、普通にWebサイト制作の仕事もできます。

アップロードが遅い?
まぁ、何十メガのアプリケーションや書類を送信する場合は、瞬時にはいきません。
しかし待てる範囲です。当然画像をたくさん張ったパワーポイント資料なんかをメール添付した場合、時間かかるようですが、当然バックグラウンドで仕事してくれているので、ストレスもかかりません。


当然事務所内にサーバを設置することもないので、サーバが稼動できない(しずらい)のは問題になりません。実際に新宿御苑の事務所にはサーバを置いてますが、光だからなのか、普通のウェブサーバと遜色ないレスポンスのようです。ま、稼働率の信頼性とかを考慮すると、一般公開向きには使用していませんが。


一部のヘビーユーザー以外に、それほどの帯域を使用することなんてないのではないかと思います。
なぜなら、こちらも一般よりはヘビーユーザーだからです。
もし、1Mbのサービスが格安であるのならば、僕はそちらをオススメします。
回線に固定費をかける必要はないと思います。

煽られて、数字が大きいほうがいい、偉い、すごいと思うのをワンテンポ遅らして7秒間「本当にいいの?」と問い掛けましょう。その習慣はとてもいい精神衛生状態をつくりあげます。

欲望と安心に素直に従うほど、追い詰められているのが現代人の習性です。

「7秒」のこころの空白。

7秒後には、「必要ない」という答えが返ってくるでしょう。たいがいの場合。それがサバイバルで楽しいのです。
情報断食とは、一定期間の間、情報の入力を断つということです。
時代遅れとか流行についていけなくなるといった恐怖に耐え、あるがままの日常に没頭することです。

Webの仕事をやりながら情報断食をすることは、ままあるのですが、それはWebの世界が技術者レベルのマーケティング戦略の渦に業界が没頭しているからです。新しい技術的な潮流や流行を生み出すことを趣味としている人々も多く、なんたら2.0だとか、アルファベットを4つくらい組み合わせて流行を装います。

しかし、本質的な技術者でもないため、結局は既存の技術の新しい使い方、もしくは新しくもないんだけど、新しいことにしてみた感じで、発表します。マスコミ系技術者とでもいうのでしょうか?
このメリットは、それをネタにして、仕事営業に精を出す、技術講習会を開ける、関連書籍を出せる、記事としてのネタになるとまぁそんなところです。今までも私もそれらのいくつかに手を出し技術を習得したり、概念を調べたりしてきました。
しかし、実際にはまぁ確かに便利に進化しているといえば、しているけれど、やはり本質的にはアイディアを一番に実行した人が一番偉いわけでしょう。しかしその一番偉い人は、きっとその新しいトレンドを生み出そうとしたわけでもなく、一心に質の良いWebサイト、使い勝手の良いインターフェイスを目指す、ユーザーの動向を見極めたコンテンツ展開を考慮したあげくのアイディアだったわけであり、それはとても普通で普遍的なことだと思います。


情報断食をすると、今自分が持っている能力と経験の範疇で、新しいアイディアを抽出することになり、それは実際には、一番確実な技術であり、コストパフォーマンスのいい仕事であったりするわけです。

いいサイトを作りたい。シンプルに今できることを集大成して。

後追いすれば、マーケティングの餌食になります。
IT業界においての情報断食は、とても新鮮で精神衛生的にも良い結果をもたらすようです。


一般人が普通に使うようになったWebサイトも、新しいトレンドで混乱せず、デジタルディバイドを引き起こさないWebサイトをつくりたいものです。
昔このブログをやってて、スローでロハスなことを書いていたように思いますけど、ブログを点々として落ち着いたので、このブログの題名そのものの日記でも綴ろうと思います。

パーマカルチャーなライフスタイルを作り出そうと山に住んでみたり、以前提唱したり思いついたりしていたことをコツコツと実践している中ででも、新宿御苑のIT屋は存続させていただいております。

いわゆる2重生活のようなものです。

しかしこうなると以前のようなWeb業界人っぽさではなくなり、もっとまったりしているようです。
ストレスフリーになっている分、なんとなく無茶な注文や優柔不断なプロジェクトも笑顔で答える、、といった昔では考えられないような現象も起きています^^

多分金持ちになったも同じような余裕がでるのかもしれませんが、当方は金持ちにもなれていません。
が、満たされていることは事実のようで、その指針を与えてくれたのがパーマカルチャーなライフスタイル概念の恩恵であることは間違いありません。

人として生きることの仕事を半分、経済活動としての仕事を半分、と思い経済的儲けが減少しても、精神的儲けが上昇する道を選んだこと、そのことが充足感を得ることに繋がっています。

満たされた充足感とは、今まで望んでいたことが、次々と手に入るといった充足ではなく、
今まで望んでいたこと、また必要だと思っていたこと、買うべきだと思っていたものの多くが、必要でなくなったために、余計な仕事や時間、儲けが減少したことに伴う、開放のようなものです。



自給自足 をも目指しています。



しかし自給率のアップは、可能ですが、自足率のアップは精神的な問題です。
普通の社会生活を自給自足することは困難でしょうが、足ることを知ると、自足率が急速にアップし、自給する目処が立ちます。


このことは会社の経営の効率化にも結びつきます。
精神的貧乏になるとガツガツしてしまいますし、経済リッチになる機会も減っていくように思います。経済的貧乏でも精神リッチだと、経済的にもうまくやっていける機会が増えるのです。

自分は映像からCG、CD-ROMプロモーション、Webサイト、CMSといったプロモーションメディアシステムの技術と、そのプロジェクトマネジメントを多く経験してきたので、その蓄積を継承していくことは必然ですが、ここにきて、その仕事がオカネのためだけでなくなってきています。
自営業ですので、行動指針は多様性を持っています。数字の整合性を一番に据えることがオカシイのでは!?とも思ったりしています。
資本主義経済社会を否定するつもりはないのですが、その中にどっぷり洗脳されていては、人本来の幸せや楽しみが得られにくいと感じているのです。



◆パソコンの修理
先日4年くらいつかっていた富士通のノートパソコンが壊れました。ACアダプタの接続口が壊れて、ACを挿しても電源が入らなくなりました。バッテリーが無くなれば一生立ち上がりません。古いパソコンですので、そのバッテリーも1時間くらいでしょう。

しかし接続口破損で電源が入らないのは接続不良という物理的な損傷でしょう。
ということで分解して修理することにしました。

10個以上のネジを取り、はずれるところははずしていく。なんと電源端子部分は、ほとんどのパーツを取らなくてはたどり着かない一番奥の世界だったのです。

プラスティックの繋ぎ目は、パワーオブパワーで外したりして折れたりしました。構造がよくわからんので分解の手順も勘だけです。液晶部分と本体も外れた状態は、もはや元にもどらんのとちゃうかという状態です。
基盤を数枚外すとようやく、目的の電源端子部分にとうちゃくしました。

原因は、

「電源端子と基盤の接合部分の金属が折れていた」

でした。おもぬろにハンダこてを暖め、無造作に折れた金属部分をハンダで塗り固めてやりました。

「電源が入った!」

ということで、ばらしたパソコンを元通りに、、、、ネジがあまったりしましたが一応形は取り戻し、復帰したようです。
4年前といえども、WindowsXPで1GHzのPIIIです。仕事に支障をきたしません。
Windows2000にダウンさせたのでメモリも256Mbで充分です。



そもそもデータ復旧の必要がないくらい、バックアップしてあるので、仕事上のデータが困ることは滅多にありませんので、このような分解を躊躇せずにできます。
新しいものを買うことの方が、残されたこいつの処分に困るだけ厄介なのです。

↑ 処分に厄介?

パーマカルチャーでは生活圏内で循環をつくることを前提とします。
つまり捨てるものも自分の生活圏内で捨てることになり(あくまで概念として)、そう考えると、自然に戻らないものは倉庫にしまうか、なんかの資源として再利用することになります。
自分の生活圏内で処分しにくいと発想することが、↑の処分に厄介という考えに結びつきます。


そう業者に持っていってもらっても結局どこかの誰かがこのような厄介を引き受けてくれているだけなのです。


治せるものは治して使うことに、効率ではなく、ハッピーがあることに気付きました。

テレビ、新聞、雑誌、インターネット、そして広告と日々様々な情報を受け取りながら生活しています。都会でも田舎でも飛行機の中でも睡眠中(ん?)でも。

その情報というものには3つあります。

1:嘘の情報
2:間違った情報
3:正しい情報

受け取った情報がどれにあたるのかって意識したことありますか?
新聞記事、広告が詠う効能や性能、政治家の発言、テレビのドキュメント、商品の成分表示や産地情報、原材料、学校の教科書、警察の発表。

受け取りまず、「ふーん」と信じてみる。いちいち疑っていてもめんどくさい。
でもこの情報化時代にいえることは、「本当の正しい情報を得るには努力が必要」ということ。努力無しにゲットしている情報は、上の3つのどれかであることは間違いなくそれが「3つのうち別にどれでもいい」といったレベルの情報から、「正しくないと死活問題だ」といったレベルまでいろいろあると思います。

情報発信者に有利になるようなという意識がある限り、情報は正しくもなりうそにも化けます。2の間違った情報というものの中には、「正論」というこれまた面倒な性質をもったものもあり、確かに理屈は正しい、、けれど・・・○○的に間違っているのでは、とか。

「産地偽装」「耐震強度偽装」なんて「偽装」ブームですけど、「正論」で通すようなものも一種の「偽装」に近いですよね。一律に印刷されている弁当のカロリー数も、表示されていない添加物も、金利情報も。


情報化社会とは、真実を覆い隠すために都合のいい社会なのかもしれません。
自分のもっている知識さえも、実体験の伴っていない知恵でないのであれば、全て疑う余地が出てくるかもしれません。専門特化せずにいろんなことに自らが接し知恵を得ることと、余計な情報を摂取しないことによって、自己内情報の信憑性濃度を高めることができます。

なんら切羽詰った問題でもない、嘘にまみれた情報の中で生きているということは、つまり泳がされているということです。情報化社会とは、人を都合よく導くための社会です。流行は某プロデューサ達の呑み会の雑談で決定され、インサイダー取引は常套手段ではあるし、世界を駆け巡るニュースも目的に基づいて構成されます。


医学や科学の世界でも、これまでの常識を覆す発見があったとしても、権威や名声を守る権力の力で、伏せられる。全ての政治家はいざというときの弱みを握られているので、勝手に正義のヒーローになれない(すぐに疑惑問題をふっかけられつぶされる)。つまり3の正しい情報によってこまる権力者が多いのです。

この社会の中で嘘の無いところ。それは自然です。
自然だけが嘘をつきません。人が自然を見て癒されたりホッとできるのは、うそがないからです。視界に人為的な構造物や介入のない光景を探しましょう。そこには嘘の無い「美しさ」「醜さ」「元気」「病気」「穏やか」「荒れ」があり人を癒したり恐怖を与えたり素直な世界です。

自分で自分に嘘をつく、思い込むなんてこともあり、自分自身の正しい情報も努力しなければ本当を見つけられないかもしれません。素直で自然体が自分の本当であるということがヒントかもしれません。


1:嘘の情報
2:間違った情報
3:正しい情報


しかし全てを正しい情報で生きなければならないなんてこともないのです。知らぬが仏という言葉もあります。その場その場で適応して生きているのですから。
ただ、見聞きする全ての人為的な事柄はこの3つであるということを意識すると、新しい視点ができます。それはここに書くまでもなく体験すると思います。それは実にハッピーなことであり、安心ややる気に通じるようなものです。


1:嘘の情報
2:間違った情報
3:正しい情報



ちなみに、これらは「情報」だけでなく、「道徳」や「常識」にも当てはまります。もしかしたら「五感」にも当てはまる事があるかもしれません。
こんなことを書くと、信用信頼ということに不安になるかもしれませんね。でも生き方とは市場経済に参加するということだけではないのです。
わたしにできること

それをただただ実行すること

自分の向いている矛先に、それをただただ実行してみる。

それが直接関係なさそうに思えても、役にたたなそうでも、それは必要だ。

なぜなら、わたしができることとは、わたし自身が必要ということだから。

わたしの存在が、わたしのできることをするために、その場にいる。

遠くを見つめながら、

わたしのできることをただただやってみる。

ただただそれだけでいい。

それだけでいい。





真理を実行すると最悪なことにはならない。
それが収入にならないと思われても、不安になっても、ただそれをやっているとつじつまがあってくる。自分の生活に見合ったつじつまが合ってくる。
不思議だ。
それを信じる勇気が必要だ。
失敗とか不安とかココロはネガティブでいっぱいになる。
真理とはお金を稼ぐことじゃない。真理とはハッピーを稼ぐこと。
つじつまが合うということは、それなりの生活がおくれるということではない。
つじつまあ合うということは、最高にハッピーな状態になることだ。

きっとそうだ。みんなそうみたいだから。
最近の隠れたキーワードの「下流社会」

下流とは「1億総中流家庭になった日本!」と言われた上流、中流、下流に値する意味を持つ言葉。一億総中流という感覚は差別社会を無くし、皆がひとつに団結できたかもしれないいい時代。

自分は下流には落ちないよ。

ホント?

下流の恐ろしいところは、中から下に落ちるのではなく、社会動向に沿って生活していると上がどんどんとアガッテいくので、知らない間に自分は下層に位置してくるという受動的な意味がある。
つまり、下流といっても浮浪者や食うに困るような人のことではなく、普通に社会生活をしている人を指すそうである。
自分から行動を起こして上に行くか、外に出るかしないと、普通の人はみんなで下流化していく。みんなだから安心、しかも毎日テレビみれて、パソコンもあるし、好きなときにディズニーランドにも行けるだろう。普通に結婚もできるし、就職もできる。別に特別に苦を味わうことなく、湯だっていくような感じだろうか。

グローバリゼーション、デフレーション。確実に社会基盤や社会通念もグローバリゼーションを受け入れている。日本は他国に比べて高所得だったかもしれない。外国人の労働条件はグローバリゼーションによって日本にも当てはめられてくる。労働者格差は世界をグローバルに均一化してくるかもしれない。

最初に資本主義経済に移行した時点の記憶を思い出さない限り、この今の状況というものを俯瞰することはできない。どこまでもどこまでもこの社会で生きているので、それがあたりまえだし、その外側はもはや未開拓な原始生活しかありえないと思い込まされている。

つまり下流とは、上流権力によって、完全にコントロール下に置かれて、尚且つそれに従順に従っている層を指すのかもしれない。毎日マスコミの報道するニュースを真実と思いながら追いかけ、芸能人の発信する流行に従い、タバコや酒や公営ギャンブルで多大な税金を納税し、決められたルーチンが生活の大半を占めている。
でもこれらは本人の選択した結果であり、日本はまだまだ自由の余地もある。

主体的になって生活を築くことは、上流とか下流とかの意識をしなくても、ココロ上流になれるチャンスがある。つまり一般的に言われだした下流の真髄は「やるきのない」感覚に冒された層ということになる。
今の状況がお気に入りであろうが、上に行けるわけがないと思おうが、何も気付いていないのであろうと、コントロール下ということは、自分のお金も時間も精神も搾取されつづけるということ。その損失を少しでも減らそうと思い立つことが中流に居残れる条件かもしれない。

それでも中流?

でもこれからの中流はかなりハッピーかもしれない。

上流を目指さない?

上流とは資本主義経済圏での勝ち組みを指す事がほとんど。そこには世襲制もあるし、特権階級も含まれる。資本を勝ち得て成り上がることももちろんできるだろう。

上流は目立つんだよ・・・
しかもこの上中下の概念は資本主義経済圏で交わされている言葉の範疇であり、もっと幅広くライフスタイルを追求すると、左も右もあるし、前も後もあるかもしれない。つまり三次元、四次元的なポジショニングを得れる可能性。

人は単なる動物だ。枠を越えて主体的になってみることこそ本当の自由だ。
そしてそれは誰も邪魔しない。自分で決定できる。
上に行かなければハッピーにはなれない?
このままがハッピー?
何も知らないのがハッピー?
新しい領域を見つけることがハッピー?

答えは死んだ後。
問いつづけることを楽しんだもの勝ちだ。


下流社会?国家破産?パラダイス?全ては同じ線上にあるようだ
危ないぞこれは!
と思われるのがワンセグ。

自分はテレビ中毒から解毒されて、ほぼ4年になる。ジーコジャパンの試合の時にせっせとテレビを接続して見る時以外はほぼテレビが生活にはない。
それによって莫大な時間が確保でき、余計な欲求も感化されないのでお金も残り、自分のやりたいことに集中できるようになった。

その代わりネットに接続している時間は多くなる。また仕事も兼ねているので多くなる。TBSニュースも動画でネットで見ている。しかしネットはテレビほど面白くないので、それほど無駄な時間が割かれているとは考えにくい。

しかし最近やっぱ携帯電話に夢中になっている人を本当にたくさん見かける。
自分の携帯は古いので通信速度も遅いので面倒だし程ほどに使っているけど、街中ほんとにみんな携帯を手に持って画面を見ながら、自分の行動を平行して行っている。これはほとんど中毒に近い。

その中毒の大半はメールにあるんだと思うけど、メール中毒、家に帰ればテレビ中毒。本当に現代人は操られている。
しかし、その携帯でとうとうテレビが本格的に参入するのがワンセグ。

これのアンケート結果では体験した人の93%が利用したいと答えたそうだ。
そうテレビ中毒を解毒したおいらにさえ、手元の携帯にテレビが忍び寄ってきているという現状なのだ。メールを気にしながら、テレビ番組も気になる。携帯の中でタレントが何かしているのでとても気になる。そしてメールも気になる。

携帯電話はかなり危険なものへと進化してきているぞ。

個人を結ぶ通信という意味では、もうそれ無しでは考えられないとまでなってきていると思われるけど、それが無くてもいい生活様式のパラダイムをなんとなく考え出さないとハッピーが虫食いになる。

実際携帯電話を持たない知り合いが増えている。
連絡?もちろん固定電話か手紙か(笑)
しかし一日一度でもチェックするメールアドレスがあれば、本当はそれでいいのではないだろうか。(実際の業務とか抜きで理想感として)



新しいパラダイムの通信形態のビジョンがある。
それを創りこみたい。新しい中毒が忍び込む前に。
それは本当に大切な繋がりを確保する通信。ココロが通い合っている通信ライン。
日曜雑多な通信とは切り離されたイントラネットかもしれない。


スパムも最新情報も最新ニュースも広告もお得情報もワンセグもいらない通信。
ココロ通った話とあまりモノの交換、そして共同作業のマネジメント。
この新しいパラダイムの通信は情報のインフラから感情のインフラへとスピンアウトする。