先日9月13日に誕生日を迎えたクララ・シューマンへのオマージュ・アルバム。クララ生誕200年記念として2019年にレコーディングされたこのCDは、ピアノ・デュオ「タール&グロートホイゼン」の一人ヤアラ・タールがソニー・クラシカルに録音した3枚目のソロ・アルバムであるが、独自のコンセプトで選曲され、世界初録音などを含む資料的にも大変興味深い一枚となっている。

 

 

 

 

 

クララの作品が入っているのは当然としても、面白いのはロベルト・シューマンの作品が1曲も含まれていないことだ(もっとも引用のかたちで現れるが)。むしろロベルト&クララの周辺にいた作曲家たちにスポットが当てられているのが独創的で、早速アルバム1曲目に選ばれたのが世界初録音の楽曲となる―「ユリー・フォン・ヴェーベナウ/幻想的小品『さようならとお帰り』Op.25」である。彼女は旧姓「ユリー・フォン・バロニ=カヴァルカボ」で、あのモーツァルトの息子フランツ・クサーヴァー・モーツァルトに作曲を師事したという。ちなみにシューマンは1835年にこの大作曲家の息子と出会っており、当時22歳だった彼女とそこで知り合っている―彼女の母親がソプラノ歌手でフランツと深い仲にあったともいわれており、シューマンも彼女に「ガイベルによる3つの詩」Op.30を捧げている―。その頃からシューマンと文通する親しい仲になり、そのためか「フモレスケ」Op.20が彼女に献呈されている。当初は「アラベスク」Op.18を献呈するはずだったというが、それがさらに壮大で奥深い内容のフモレスケに変えられたことにシューマンの心境の一端を感じることも可能である―実際には演奏されることのない「内なる声」はいったい何を意味していたのだろうか?―。当時彼はクララと恋愛中であったが、シューマンはユリーの好意に気づいていた節があることがライナーノーツに書かれている。クララの態度が気になるところだが、当然ライバル視したとしても不思議ではない―知ってか知らずか、ユリーはクララに未発表のピアノ作品を捧げたが、彼女が公で演奏することはなかったという―。1838年にユリーは結婚し、ヴェーベナウ姓を名乗るようになるが、シューマンへの好意を抱き続けていたことは前述の通りである。

 

 

 

 

その視点で彼女の作品タイトル―「さようなら&おかえり」―を観ると何も感じないわけにはいかない。結婚の翌年1839年に作曲、他ならぬロベルト・シューマンに捧げられ(「フモレスケ」のお返しのようである)、彼によって高く評価されたとのことである―新音楽時報にも取り上げられた。「告別」「再会」の各表題を持つベートーヴェンのソナタ第26番を彷彿とさせるところが理由のひとつだろうが、一番のポイントは「幻想的小品」と名付けられるに相応しい楽想ではないだろうか。実際に聴いてみると、基本的には3部形式ながらもモーツァルトの幻想曲のように滑らかに楽想が変化してゆく様を感じ取れる。ただ、モーツァルトやベートーヴェンよりはむしろショパンを思わせるサロン風のピアノ曲で、第1曲では「別れの曲」の一部のようなパッセージすら現れる。第2曲は穏やかなポロネーズのようにも聞こえた。ドラマティックな箇所ではピアニスティックな処理がなされ、小品ながらも聞き応えのある音楽となっており、初めて録音された意義があったと思われる。

 

当盤音源より、貴重な世界初録音である―。

 

クサヴァ―・モーツァルト/「6つの感傷的なポロネーズ」Op.17

もうすっかりロマン派の音楽である。

 

シューマン/「ガイベルによる3つの詩」Op.30。バリトンの歌声で―。

 

 

 

 

 ヴェーベナウ作品と同じ時期に作曲された「クララ・シューマン/3つのロマンスOp.11」もまた、ロベルト・シューマンに捧げられた作品のひとつで、独身時代最後の作品ともなっている(「クララ・ヴィーク作曲」というべきだろう)。この作品からインスパイアを受けてシューマンが「フモレスケ」を作曲しようと思ったというのだから、前述の事情を重ね合わせるに、人とは不思議なものである。ライナーノーツでは、この作品がクララの「ピアノ協奏曲Op.7と比肩するほどの傑作」と紹介されているが、一聴しただけで調和のとれたロマンティックな作品であることが直ぐにわかる。クララは「ロマンス」という形式を好んだのか何曲か残していて、作曲の筆を置く直前の最後の作品も「ロマンス」であった。

 

「変ホ短調-ト短調-変イ長調」という調性の流れ―哀感がこもるこの楽曲は、父フリードリヒ・ヴィークからの反対が苛烈を極め、結婚を巡る訴訟に発展する直前の作品で、それまでの可憐な表情はここでは聞かれず、当時のクララの心情が伺える。特に「変ホ短調」は後のシューマンの深い感情を表わす調性であるし、当時でも珍しい調性のはずだ―バッハに端を発し、シューベルトでも聞かれる―。クララは謙虚にも「小さな哀愁をたたえたロマンス」と呼び、シューマンへ手紙とともに曲を送り、修正を求めている。

 

それを作曲している間、わたしはずっとあなたのことを考えていました

 

それに対しシューマンは「自分たちが結ばれる運命にあることを、このロマンスから聴き取った」といい、一音の変更も必要がないことを宣言する―。

 

君の楽想のひとつひとつは、この僕の心から発している。実際のところ、僕が自分の音楽すべてに関して感謝しなくてはならない相手は君なんだ

 

 

裁判で勝訴し、二人が正式に結婚したのはクララ21歳の誕生日の前日、9月12日であった―ライプツィヒ近郊シェーネフェルトの教会にて、近親者のみでささやかに執り行われた結婚式に、父フリードリヒの姿はなかったという。

 

 

 

 

前奏曲風の短い第1曲「Andante」から、深い哀愁に胸が締め付けられる―彼女が書いたピアノ曲の中で最も詠嘆的かもしれない(このナンバーはシューマンの薦めにより最後に作曲されたようだ)。ただ、上記のクララの心情がストレートに表現されているのはむしろ第2曲目かもしれない―全曲出版とは別に、この第2曲目だけ「アンダンテとアレグロ」として新音楽時報に楽譜が掲載された経緯がある―。心に問いかけるような楽想は、想いがたくさん詰まっている印象で、音のみならず行間からも零れ落ちそうだ。シューマンがフモレスケ作曲のインスピレーションを受けたのはこの第2曲の変ロ長調のフレーズだったかもしれない。一方の第3曲目「Moderato」は「ショパン/バラード第3番変イ長調」を思わせる部分があり、沈み込む抒情の中に希望を感じさせる。これらロマンスのお返しとして、シューマンは「クライスレリアーナ」をクララに献呈しようと計画していたが、フリードリヒ・ヴィークへの刺激を警戒して、結局ショパンに捧げられることになった。

 

ピアノ曲全集を完成させているJozef De Beenhouwerによる演奏で―。

 

「3つのロマンスOp.21」より。藤田真央が演奏している驚き―。

 

Op.21に含まれる予定だった「ロマンス イ短調」。クララを陰で支えた

目の不自由なロザリー・レーザー嬢に献呈されている。

 

「愛の思いを込めて、クララ」と記載された「ロマンス ロ短調」。シューマンが

亡くなる1年前に作曲、ブラームス/ピアノ・ソナタ第3番~第4楽章から

主題が採られている。これ以降クララは作曲をやめ、夫の作品の出版

と演奏に尽力することとなる―。

 

 

 

アルバム3曲目に登場する「テオドール・キルヒナー」はシューマン夫妻やブラームスと親睦が深かった作曲家であり、シューマンやブラームス作品の編曲も数多く残している―僕もCDで聞いたことがある―。自作品では特に数多くのピアノ小品を残しており、その数は優に1000曲あるといわれている。今回取り上げられた「前奏曲集」Op.9は1859年に作曲、クララに捧げられており、彼女はこの曲集に今は亡きロベルトの面影を感じたのだという―しかしそれはシューマンの書法を模倣したからではなく、「ロベルトへの最も愛情深い献身を証明する感情」によって支えられていたからだ、というクララ自身のコメントがライナーノーツに記載されている。当アルバムのピアニスト、ヤアラ・タールはOp.9の中から3曲(第10,11,13番)を選曲してレコーディングしている。どれも2分かからないピアニスティックな小品ばかりである。

 

クララは(どういうわけか)キルヒナーのことを大変気に入っていたようで、実は2人は秘密裏に交際していたという―勿論クララは未亡人であった―。しかしキルヒナーに相当な浪費癖があり、交際の目的が金銭目当てであることにクララが気づいたため、2人の関係は絶望的なものになってしまったとのことである。シューマン亡き後、交友関係を縮小させていったクララの元に残ったはずの友人に失望させられ、クララが人間不信に陥ったとしても無理はないだろう。さて、(われらが?)ヨハネス・ブラームスはどこに行ったのか―とお思いなら、ご安心を。このアルバムを閉じるのは彼の楽曲(しかも2曲)によるのである。

 

ちなみにブラームスとも親しかったキルヒナーは後に結婚したが、ギャンブルに起因する浪費癖は変わらず、ウィキペディアによればブラームスをはじめ、ハンスリック、ニルス・ゲーゼ、グリーグ、ハンス・フォン・ビューローが彼の負債を立て替えるべく3万マルクを集めたことが記されている。キルヒナーが当時の作曲家や評論家たちが見放せないほどの音楽的な才能や地位、(それなりの)信頼を得ていたことをよく示しているエピソードである。

 

シューマン/「カノン形式による6つの練習曲」Op.56のピアノ三重奏版。

原曲はペダル・フリューゲルのための曲で、ドビュッシーも2台ピアノ版

に編曲している。

 

シューマン/「アンダンテと変奏曲」Op.46。クララとキルヒナーはよく連弾で

演奏していたのだという。

 

 

 

 

 

 

 

ロベルト・シューマンを除いて、クララと最も親密だったのは(キルヒナーではなく)ブラームスである―と世間一般では思われているかもしれない。想像力が飛躍して週刊誌的な内容を妄想してしまったとしても無理はない―当時の人々ですらそうで、ブラームスが名付け親となったクララの息子フェリックスの「真の父親」について噂されるほどであったのだから―。しかし、見事なまでに2人の一線を越えた関係を裏付ける証拠は全く存在していない(「隠蔽を図った」という説も実は根強い)。音楽史の研究成果が日々更新され、新事実が明るみになり、作品や作曲家への見方が180度変わってしまってもおかしくない現代においてですら、そうなのである。でも今回取り上げられた2作品はクララではなく、彼女の娘ユーリエ・シューマンの存在が大きく関わっている。

 

最初の作品、「シューマンの主題による変奏曲」Op.23は、ブラームスが師のテーマを用いた2曲目のピアノ変奏曲であり、自身初の4手連弾用に書かれている-表向きはユーリエの16歳の誕生日プレゼントとして、母クララとの連弾のため、であるが、実はブラームス自身がユーリエとの連弾を期待してのことだった、と感じている。クララの娘たちの中でとりわけ美人だったというユーリエ。もしかしたらブラームスはクララの面影を彼女に見いだしたのだろうか。

 

前作ではクララも用いた主題だったが、この度はシューマン最後の楽想が刻まれた「天使の主題による変奏曲」のテーマを採用している。このテーマには「静かに、親密に」の指示があり、変ホ長調ながら物悲しさが勝る音楽となっている。作曲のきっかけについては、シューマンは夢(幻覚)による啓示と捉えたようだが、その実、最近完成したヴァイオリン協奏曲の第2楽章のテーマであった。

変奏曲は全部で10曲用意され、テーマが曲の始めだけでなく最後にも置かれており、一貫した雰囲気が保たれているが、主題が持つ瞑想性は早くも第2変奏で失われ、意外にも明るく活気づいてくる。シューマンの悲劇的な最期を思い出させるよりも、良き夫であり父であった美しく楽しい思い出にシフトしようとするブラームスの思い遣りを感じる。最後の第10変奏では葬送行進曲風の楽想となるが、再びテーマが回帰するとき、冒頭でのテーマとは(スコアが同じであったとしても)何か異なるものとして響く。たとえ喪失の悲しみで始まろうと、弾き終わった時には微笑みと充足感に満たされるのである。

 

アルバムでは、ヤアラ・タールがパートナーのアンドレアス・グロートホイゼンと組んだピアノデュオで聴かせてくれる―。

 

ブリテン編曲によるシューマン/ヴァイオリン協奏曲~第2楽章を―。

 

知り合いのピアノデュオが師事していたピアノデュオ「ドゥオール」

による演奏で当曲を―。

 

コンスタンチン・リフシッツによるもうひとつの「シューマン」変奏曲Op.9を―。

 

 

 

 

アルバム最後の作品は「アルト・ラプソディ」Op.53。前作の変奏曲の8年後の1869年に作曲、ユーリエに捧げられているが、彼女の結婚祝いとして―というのが、(ユーリエに憧憬の念を抱いていた)ブラームスの複雑な心境の現れとなっている。テキストはゲーテ「冬のハルツの旅」からの断章。決してお祝いに相応しい内容ではなく、人間への信頼を失った人間嫌いの放浪者の心痛を切々と語るもの。これは、淡い恋心を失うことになったブラームスの個人的な感情の捌け口として選ばれたのではなく、(主に)芸術的理由による―この時期ブラームスにはゲーテのテキストによるカンタータ「リナルド」Op.50に取り組んだ経緯があるからだ。それでも「花嫁の歌を恨みをもって怒って書いた」と友人に吐露せざるを得ない感情にブラームスは襲われていた。こともあろうにイタリアの伯爵貴族からのユーリエへの求婚を、(ブラームスの気も知らない)母クララが積極的に支援し、婚約に至ってしまったからである。

 

この作品が、トランペットやトロンボーン、ティンパニを省いたオーケストレーションで、なおかつ低弦が際立つように書かれているのは、まさにブラームスの苦悩の現れ、といっていいかもしれない。そこにアルトと男声のみの合唱が加わり、渋さが増すのだ。「ラプソディ」と呼ばれているのは、ゲーテのテキストによる歌曲を数多く作曲したことで知られるヨハン・フリードリヒ・ライヒャルトの作品の中に、当作品と同じテキストを用いた楽曲があり、それが「狂詩曲」であったという理由による。初演の前に行われたプライヴェートな試演では、クララをはじめとする友人たちが深い感銘を受けたという。初演を担当したアルト歌手はクララの親友だったそうだ。ヨーゼフ・ヨアヒムの妻で歌手のアマーリエもこの曲をレパートリーにしたという。

 

全体は3部形式であり、悲劇的なハ短調が、合唱が加わるパートでは讃美歌調のハ長調へと転調する。1年前に作曲された「ドイツ・レクイエム」の書法が生かされている、という意見も見受けられる。そして当アルバムでは何と、ブラームス自身のピアノ・スコアをもとに、幾人かの協力も得て、アルトではなくテノールを、男声合唱ではなく女声合唱を起用したヴァージョンでの世界初録音となっている。その効果は大きく、受ける印象が変わってしまうほどだ―といっても、歌っている内容は相変わらず暗いままだ。シューベルトの「冬の旅」をバリトンが歌ってもテノールが歌っても、絶望の質が変わらないのと同じだ―。ヤアラ・タールはライナーノーツの冒頭で「なぜこのような哀歌が結婚祝いになるのか、なぜアルトと男声合唱にしたのか」と問い、「原曲の重い雰囲気を軽くするために」ハ長調で現れる天使のような合唱パートを女声に託し、独唱を男性歌手にするアイディアを発案するに至ったそうだ。その新鮮なアイディアに賛同したアーティストたちによるレコーディングが実現した―若きテノール歌手、ユリアン・プレガルディエンを独唱に起用(彼の父はいうまでもなくクリストフ・プレガルディエンである)、アレンジの協力者でもあるユヴァル・ヴァインベルグが合唱指揮を担当し、美しさで定評のあるバイエルン放送女声合唱団が天使から降り注ぐ光のような美声を聞かせるという、異色の演奏となったのである。オリジナルの渋味は洗練された若々しい感性に取って代わり、苦悩より救いや癒しが先行する結果となった。

 

このヴァージョンはオリジナルとは別のものと据えた方が良いだろう―それでも楽曲の素晴らしさは変わらない。ヤアラ・タールは若きブラームスをより強力に救いたかったのかもしれない。

 

ノーマン&ムーティ盤の音源―最初に聞いた演奏だった。

 

当盤音源より―。世界初録音のヴァージョンで。

 

テノール、合唱と管弦楽のためのカンタータ「リナルド」Op.50。

上記のヴァージョンと通じるところがあり興味深い―。