コークス炉の排ガスがうっすらと立ちのぼる午前5時。
名古屋製鉄所の構内に足を踏み入れたとたん、のどの奥がイガイガと痛み、鼻の奥がつんとする。粉塵は目に見えないほどに微細で、それがかえって恐ろしい。
「十年勤めたけど、最初の五年で肺が悪くなった。診断書には“慢性気管支炎の疑い”って書かれてたけど、実質、粉塵のせいだよ」
そう話したのは構内の1次請けダンプに従事していた運転手(65歳以上)。黒ずんだマスクをつけ、湿った咳を繰り返しながら語る彼の声は、細く、掠れていた。
鉄鋼現場における粉塵吸入は、長期的にじん肺や肺がんのリスクを高める。
「とくに“PM2.5”レベルの超微粒子は、マスクの隙間をすり抜けて肺胞に到達。現場での高濃度のばく露が続けば、慢性的な炎症を引き起こし、やがては肺の線維化や、悪性化に至る」
だが、構内で配られるのは、不織布製の簡易マスクか、あるいは何年も使い回された防塵マスク。フィルターの交換期限も不明で、マスクの管理は各自に委ねられている。
「会社から支給されるのは最初だけ。あとは自己責任。フィルターが詰まって息が苦しくなるまで、同じのをずっと使うよ」
別の運転手(60代)はそう語る。彼の手の甲には、薄く黒い煤がこびりついていた。
安全衛生教育は月に一度あるとされているが、実態は何もない、名前だけのチェックシート。「今日は蒸し暑いからマスク外すか」といった“現場判断”が、粉塵防御の最後の壁をあっさり越えることもある。
「なーにこんな粉たいしたことねぇよ」
被害の“見えにくさ”が問題を深刻にしていると指摘されてる。
「じん肺は初期症状が乏しいうえ、進行も緩やかで、“歳のせい”や“タバコのせい”と片づけられてしまうことが多い。本人が気づいたときには、もう戻らない段階まで進んでいる」
名古屋製鉄所で働く下請け作業員たちは社会保険には加入している。しかし、労災の申請や健康被害の因果関係の立証は極めて難しい。
「証明できなければ自己責任。その壁は思った以上に高いよ」
現場歴25年の1次請けベテラン。彼は粉塵の多い部署にいた過去を振り返りながら「早く出ろ」と俺に忠告
粉塵は、肺を蝕むだけでなく、沈黙と服従という“空気”も、じわじわと現場運転手の中に広げていく。
そして今日も、微細な粒子が陽光に紛れて、名もなき労働者たちの肺へと24時間。
吸い込まれている。