仏教研究者や仏教学者は、往々にして、神と仏とは異なり、神 は宇宙を創造したように説かれているが、 

 

「仏」は凡夫が修行して悟りを開いて仏陀の境地に達したものであるから、それは全然異なるのである。

 

それなのに生長の家のように 「神」 と 「仏」 とを混同して、

 

 「神」 も 「仏」 も同じだと言うのは滅茶苦茶だと、反駁者は言うのである。

 

其の位の在来の仏教学説は、誰だって知らぬではない凡説である。

 

それにも拘わらず,私は 「神 」も 「仏」 も同じき「 神秘者 」の別名であると説くのである。

 

 そのように説くのは、説くべき正当の理由があるのである。

 

それは法華経の如来寿量品に、釈尊が「 現象的には、私は29歳で出家して35歳の暁の明星を見ながら

 

悟りを開いた人間のように思われているけれども、実はそんな若造ではないのである。

 

私の実相は久遠の昔から悟りを開いている仏である 」 という意味を事こまかく述べているのである。

 

そうすると、釈尊が29歳の単なる凡夫であったその時にも、その肉体の奥に、

 

時間なき時間の始めから既に悟りを開いた仏なる実相が実在したと言う事を表しているのである。

 

また釈尊と言うインド人が法華経を説く前から、無限年間以前から法華経が説かれているのである。

 

ただ法華経と言う漢字が使われていないだけである。

 

そして「仏」とは、一切の束縛かを解脱(ホトケ)したる自由自在の宇宙の本体であるのである。

 

その本体の「 自由自在なる本体 」が各人に宿っているからこそ、

 

すべての人間は、やがては「自由自在なる本体」を顕わす時が来て成仏するのである。

 

これは釈尊だけのことではなく、法華経の方便品に

 

「われ昔誓願をたて一切の衆をしてわが(釈尊)如く等しくして異なることなからしめんと欲せり、

 

わが昔願う所の如き既に満足せり」と釈尊が仰せられているように一切の衆生(人類)全体のことなのである。

 

この内に宿る「自由自在の本体」(仏なる本質)がキリスト教的に云えば

 

 「 内在の神 」 又は 「 内在のキリスト(神の子) 」 なのである。

 

だから法華経には万教帰一が説かれているのである。