人間は本来完全である。少なくとも潜在的には完全の内性がある。
それ故にこそ善を求め完全さを求めるのである。
人間が何らかの形に於いてすらも善を、完全さを知らないものであるならば、
善を求め完全さを追求する意欲または衝動が起こるはずはないのである。
しかしながら又、それを求めるのは、今なおそれが実現していないからでもある。
善を求め完全さを求める意欲が、既に充足しているならば、もうそれを求める必要はない。
そこで人間が善を求め完全さを求めるのは、人間が本来善であり完全であること、
しかもその善は、完全さは、現実においてはまだ完全には実現していないからこそ求めるのである。