羊頭を懸けて狗肉を売る

羊頭を懸けて狗肉を売る

社本善幸の似顔絵日記

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うつくしい

ときがぱられる

東京の

尖塔の先から

漏れ出でる

其々の

かたわれを秘め

犇きし

すくらんぶる交差点渡る

 

父祖の恥

闇垂れ流す

上塗り憚らず

パッカ

パッカパカ

パッカパッカカ

パッカパカパカ

pack a national journey!

ベツレヘム

からの東方は

此処ぞ

とばかりに

星を打ち上げる馬鹿

バカバッカダマッタク

バカバッカダマッタク

バカバッカダマッタク

 

夜明けの晩の

暗がりに

てんでバラバラ

浮き袋抱え

数分の無呼吸

アケタアケタカ?

アケタカ夜明け

マスクしてたらわからない

夜明けの晩の

暗がりに

てんでバラバラ

浮き袋

爆発せて

なりませぬ

ヨアケのうしろ

正面、だぁれ?

マスクしてたらわからない

 

【土壕の壁】

痛くも痒くもなくば

死は

眠りのように

夜毎

昼毎

横たふ

安穏たる奴隷生活の

unknown crowd

アルマゲドンか

垂れ込めし

暗雲の下

胎内回帰感を

得てしまう人たち

「真実」が

反人間的ならば

辞めるのか

人間であることを

分断されし

木阿弥を繋ぎ留め

じぇんとるりべらる

でも暮らし

トラベルと

トラブル

または

アクセントと

アクシデント

デモーニッシュな

デモクラシーか

日本化という履き違えは

さかしまな黄禍として

滅ぼし召すか

善悪は

決せずただ消え去るのみ

という末路も

大いにあり得る

嘘で塗り固められし

土壕の壁

欠伸をすれば

撥ね返り落つ

サイフォンの

岩塊から潜りたるは

先人の魂

げに移ろぎや

 

水路持て

半島に伸ばしたる

あの

だいだらぼっちの

腕の撓り

 

秋空に

ロキロキロキと

軋む音かろきは

大男の抜け殻

 

赤埴の

紅さす頬に

ロキロキと

笑み浮かびあう

浮かびあう笑み

 

地の神は

だいだらぼっち

又の名を

茜姫

ツガイなる

ひめごと

 

その声は

足の裏から

吸い上げられし

地のうねり

滾る火の歌

 

岬立つ

裸足の声は

海渡り

その火を飛び越えて来い

と言う

 

声が来る

声が裸足で歩いて来る

その

実直さこそ

戦け

 

マカダムは

砕石のことと

思いし

幼き日の

足裏の痛み

 

浪打ちて

伊勢まで連ぬ

この道が

死に(42)号線と

呼ばるるは何故

 

アダムの子

マックアダムとは

カシオンで

仕留められし

息吹のことか

 

伊勢にむけ

突き伸ばしたる

腕先に

洋上渡る

息吹が触れて

 

 

 

 

今回インスタレーションのコラボレーション参加にあたり
社本善幸 

【緋•田•工】
このたびLAMPは牟呂用水路の流水域を一人の身体と見立て三人のメンバーがそれぞれの思いを室内にインストールすることとなった。そこでわたし社本善幸はその流水域という人格の記憶•歴史性を担当しようと思った。
牟呂用水は1893年に神野金之助が完成させたものだが、現在ではその大部分が牟呂豊川用水路として水資源機構によって一括管理されている。さらに戦後復興期には愛知用水公団の傘下にあった。愛知県の用水路が延伸拡張され不毛の地と呼ばれた渥美半島などに劇的な変化をもたらし農業王国と呼ばれるまでの成長へと導いた背景には愛知用水公団の功績が大きい。その時期の公団の周辺には緋田工(あけた たくみ)という人物が居た。
緋=血脈の赤
田=農業
工=工業
謎めいた暗号のような名前のその人物は戦時中は内務省警保局(通称•特高警察)のエリートで「特高必携:社会運動現勢要覧」といういわゆる赤狩りマニュアル本の著者でもあった。
戦後緋田は請われて愛知県の用水路再整備事業の相談役に就任。中央政界とのパイプ役を果たし予算捻出などの陰の立役者となった。
また肖像画の桑原幹根は戦後の愛知県知事だが戦前は内務省官僚。官僚退職後は国策企業の社長に就任。そのことを咎められ一時期公職追放にもなっていた人物。緋田工を愛知県の用水路事業と結びつけたのはあるいは桑原だったかもしれない。

【赤い薮椿】
このイメージは渥美半島出身の小説家•日原いずみ氏の「赤土に咲くダリア」の中で主人公の母親が子育て時に余った母乳を雪のかぶった赤土の畑に搾り捨てたのを述懐する場面、そのことを主人公が(母乳はもともと血液だから命が大地に還流しているようだ…)と思い巡らす場面に感銘を受けたことに端を発する。
そのイメージはわたしの中で渥美半島太平洋沿岸の断崖上に群生する赤い薮椿とつながった。用水路開削以前の貧しかった渥美半島では、その薮椿の実を採取し搾油して食用などに用いていた。
また幕末の高名な画家であり渥美半島田原藩の家老でもあった渡辺華山は窮民救済のために農学者•大蔵永常を招聘。永常は荒地栽培に適した作物の研究やハゼ、菜種、椿などからの搾油の奨励普及に邁進したが、後ろ盾である華山が反対派の計略に嵌まって自害に追い込まれてしまう。
「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり。」とは徳川吉宗の側近•神尾春央の言葉だが武士階級が百姓を見下す常套句としてひろく幕末まで用いられていた。渡辺華山が自刃させられた小屋の土間は永常が研究用に搾油機を置いていたその場所だった。反対派の高笑いが聞こえて来るようだ。

【12脚の赤い椅子】
会場である開発ビル2Fのこの部屋は映画監督•園子温氏が撮影に使用した場所で壁面や窓には撮影時の生々しいペインティング等が残っている。12脚の椅子も撮影に使われたもので、わたしはそのことを記念する意味で映画館の客席をイメージし設置した。

 

大蔵永常著「製油記」より搾油機の図   画像提供 田原市博物館

 

Facebook街の督脈アルバム

https://www.facebook.com/yosiyuki.syamoto/media_set?set=a.2412062485549872&type=3&uploaded=17

 

 

こういう事をすればこうなるとわかりきっていたのに…という声があまりにも多く、ほぼ一般化していることに驚かされるし暗澹たる気持ちになる。
政府主導で日韓関係が最悪化する最中で、たしかにタイミングは良くなかっただろうが、なによりまず名古屋市長が暴力の側に立ったことが厳しく糾弾されるべきだ。

一件を巡るさまざまな会話の中では芸術性と公共性が混同されているような気もする。美術と公共美術は似て非なるものであって、そもそも美術に公共性を求めること自体が暴力を孕んでいる。
いや、そもそもと言うならそもそもこの国に美術は無い。
ギュスターヴ・クールベが「世界の起源」を描いたとき、たしかに葛飾北斎の大つび絵の影響があったのかもしれない。けれども画狂とリアリストを隔てる海溝はいかほどのものだったか?。
美術だの芸術だのの言葉を翻案したのは西周だったと思う。西はリベラルアーツの翻訳として「芸術」、ファインアートのそれとして「美術」を用意した。
しかしそれらがまったく理解されることなく誤用され現在に至ること…上っ面の体裁だけを整えてきたことが、ここにきておおっぴらになってしまった。それは実はめでたいことかもしれない。その意味では今回の展示はすでに成功していると言う人もある。

また片方今回のことを単なるスキャンダリズムだとか炎上商法だとして非難する人も居る。
スキャンダリズム、炎上商法…  結構なことではないか。
19世紀パリ、ナポレオン3世の少々頓馬な介入によるサロン落選作品展ではエドゥアール・マネの「草上の昼食」が罵倒中傷と哄笑の渦に晒されていた。そしてそこから印象派が生まれアヴァンギャルドが始まったのだから。

 

大雨から5日目、宇連ダムの流入量がいよいよ1㎥から0㎥の間を行ったり来たり。貯水率はたぶん18%で打ち止め。

今回推移をネット上で観ていて思ったのは、渇水対策として新ダムを建設するのではなく‘水源域全体の森林整備と同時進行の宇連ダムへの流入水路造り’という手があったんだろうなぁ…ということ。

勿論小さな水路にしたって植生との兼ね合いについてのアセスメントは必要だろうけど、ダム建設のような大規模な環境アセスとはならないし試行錯誤が可能だ。

そんなチマチマしたことをやったところで効果があがるのは何時になるやら…と鼻で笑う向きもあるだろう。けれど設楽ダム新設計画の立ち上げから一体何年が経過しているのか?。そのあいだ森林地帯の暮らしはどれだけ荒廃したのか?。

水源地に大きなダムを作り下流に向かって分水してゆくという発想は、謂わば中央集権的発想だ。

今やそんな時代ではなくなっている。流水域には三口池、万場調整池、芦ケ池、初立ダムといった大規模貯水場が作られ、水源の渇水がそのまま流水域の枯渇には繋がらない。

20数年前ベイルートに居たとき、街の景観もインフラも内戦によって破壊されつくされていた。送電線や電話線はいかにも素人仕事という感じでゴチャゴチャと絡み合い始終停電していた。それでも街の人たちは実に活力旺盛だった。特に通信については固定電話などは殆どなく、皆携帯電話を持ち歩いていた。日本ではまだまだ携帯が普及していなかった時代。

当たり前のことだけどインフラは時代とともに、技術革新によって変化する。それによって人間たちの社会への参与の仕方も変化する。社会が変わればまた時代も変化する。

つまりは旧態然としたインフラの仕組みにしがみつくことは旧式な世の中に隷属することであり、ついには全体で滅びに向かうことになるんじゃないか?。

10年以上前の話し、市の美術博物館を今後どうするか? という会議があった。

収蔵庫が手狭になったことに端を発していたが、この際今後の美術博物館の在り方自体を考え、計画を立てようと検討委員会が招集され拙者もメンバーになった。用地として設定されていたのは現在プロバスケットボールリーグの試合が開催できるアリーナを作ろうと言っているあの場所だ。検討委員会の議長は早稲田大学建築科の中川武さん。メンバーには元美術評論家の某美術館館長などが居た。

 

議題としてまず提出されたのは、「これを機会に美術館と博物館を分離すべきでは?。」だった。当時美術部門の主任学芸員だった大野俊治さんと拙者はそれに反対した。異質なものを分離して美術だけを鑑賞したいという意見は一見正当に思えるけれど、それは美術を固定化された価値観…言わば過去のものとして捉えている。考古資料や産業遺産などと美術作品が同居していることを、むしろ積極的に捉えその境界から新たな表現が生まれてくることを促進する場づくりとして、新たな美術博物館には大きなファクトリーを併設すべきだと主張した。

当時拙者は豊橋工業高校の石田正治さんたちの「人造石工法を含めた牟呂用水路の産業遺産研究」や自然史博物館で行われた「高師小僧を原料としたタタラ製鉄実験」に感動していたし、現代美術も旧態的な美術館では抱えきれない展示不可能なものへと変貌していた。奇しくも議長の中川武さんはカンボジアの アンコール遺跡修復チームの団長でもあり、そこでは 人造石工法が活用されていることを知らされた。さらには拙者が在京時代にお世話になった鈴木了二建築計画事務所に居た桜田滋さんが 遺跡修復チームの現地所長として活躍されていることを知り嬉しくなった。議論は良い方向に纏まりつつあった。新美術博物館建設に向けて国際コンペを開催しよう、審査員は誰にすべきかという所まで進んでいた。妹島和世さんの講演が市役所講堂で開催されたのもその頃だと思う。

 

ところがその動きは前市長の「子ども関連施設を建設する。」の一言でバッサリと中断されてしまった。前市長は革新系の人物でそのまた前任者の汚職横暴があまりにも酷かったからかリベラル層の人たちからは評判が良かったようだけれど、正直言って拙者は大嫌いだ。要するに自分の任期中に記念となる箱物を作りたかっただけじゃないか。時系列の前後は忘れてしまったけれど愛知万博での瓦アートをアクアリーナ豊橋に移築した際に対面したがヘラヘラ薄笑いを浮かべた極めて無礼な人物だった。

 

新美術博物館検討の委員会が解散したとき、市役所の担当責任者は非礼を詫び「将来この議事録を必ず活かす。」と約束した。その約束がどうなったかは知らない。 バスケットボールのアリーナが建設されるとすれば反故にされたということだろうが、もはやどうでもいい。興味はない。

何かを糾弾しようとこんな文章を書いてるわけじゃない。バスケットボールのアリーナもまたいいじゃないかと思う。ただそれと同等の情熱を持って我々も議論していた。長期間議論していたことがくだらない個人の自尊心で簡単に御破算にされてしまう。それがこの国だ。

今日、豊洲市場の強引な移設開場を観ていてふと思い出し、どうしても書いておきたかった。

マニブ・ザバジルバより大キリンのサーカス
Gigant giraffe's circus from "MANIB ZABAJILEBA"

 

【マニブ・ザバジルバ抄】

マニブ・ザバジルバは、ぐふぐふと笑う。
マニブが土塊から生まれたと人々が噂するのは、その馬鈴薯のような容姿からかもしれない。
矮人マニブは歌を歌う。石笛のような美しい声で。
意味はわからないが人々は聴き惚れる。働きもしない余所者マニブが生きていられるのは愛されているからだった。

サーカスが来た。
サーカスは大キリンに載ってやって来た。
ゆっくりと歩むキリンはとてつもなく大きい。ともすれば首から上は雲に隠れてしまう。

雲の上からするすると梯子段が降ろされ、大キリンの四肢にそれぞれ架けられた。遠目に見れば蟻のような団員が甲斐甲斐しく働き、またたく間にサーカスが用意された。天幕が張られた。天幕は大キリンの首を柱としていた。

大キリンは天幕から頭を出し虚空を見つめる。大キリンはいつもひとりぼっちだった。

サーカスが始まると人々は押しかけ、天幕の内側で享楽に耽り笑い興じた。誰もマニブの歌を聴かなくなった。街には人っ子一人居なくなった。マニブもまたひとりぼっちとなった。

ひもじさを抱えたマニブは一人歌った。歌声は風に吹かれ旋回し天に巻き上げられた。ただふたつだけそれを聴く耳のもとに。

キリンは首を傾げた。
天幕は揺らいだ。
マニブは歌った。
キリンはそれを聴き取るために長い首をさらに傾ける。

さてその後のサーカスの顛末は、言わずもがな 推して知るべし。

 

 

豊橋市東田町字西脇29

サロンぬくもり「ぬくもり動物苑」展にて展示中

9月

23日(日)10:00〜17:00

26日(水)13:00〜17:00

27日(木)13:00〜17:00

28日(金)13:00〜17:00

30日(日)10:00〜12:00

Tel 0532-52-7399

 

 

 

【赤埴の里】 land of red soil
2018年8月10日〜17日、赤羽根地区高松でのワークショップ開催中に制作。
素材:トロ箱、綿布、椿の実、油彩、椿油、金網、他。

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 赤埴(あかはに)とは赤土を指す言葉であるとか、あるいは赤土を材料とし土器を作る職人を指すとか言われる。赤埴と書いて「あかばね」と読む地名や人名もある。
渥美半島の赤羽根地区もおそらく赤埴が語源だろう。無数の窯跡が見つかる半島は古代の陶工たちの里であったし、強酸性の赤土による不毛の大地でもあった。今年6月に通水50周年を迎えた豊川用水路によって劇的な変化・発展を遂げた農業王国・渥美半島は、しかし用水路通水以前にも様々な工夫がなされ人々の営みが繰り広げられてきた。
赤羽根地区の海岸には今でもヤブツバキの自生林が観られるが、かつてはそこで実が採取され椿油となり生活に役立てられていた。今では顧みられることもないヤブツバキ林は豊川用水路というインフラストラクチャーの「負の部分」とは言わないまでも、失われてしまった「別の豊かさ」の象徴であることは間違いない。

 また画家としても有名な田原藩家老・渡辺崋山は蛮社の獄で蟄居謹慎申し渡されたのち池ノ原の屋敷に幽閉されたが、この屋敷はもともと崋山が招聘した農学者の大蔵永常のためにに建てられたものだった。そして崋山が自刃した屋敷脇の小屋は、永常が菜種や椿、ハゼなどの実を搾った搾油機が置かれていたその場所であった。

 さて、椿油で油絵を描くことはできるだろうか?。結論から言えば不可能だ。顔料をキャンバスなどの支持体に定着させる材料を展色剤とかバインダーと呼ぶ。この展色剤の違いによって絵の具の種類が異なってくる。水彩画の場合はアラビアゴム。日本画では膠。アクリル絵の具はアクリルエマルジョン。そして油絵の具はリンシード油やポピー油のような乾性油と呼ばれる植物油脂。
乾性油と言っても乾燥する訳ではなく不飽和脂肪酸が酸化し固化することで画面に定着する。植物油脂は不飽和脂肪酸の含有量により乾性油、半乾性油、不乾性油と区分される。したがってオリーブオイルや椿油などの不乾性油を展色剤として使用すると顔料は永遠に定着しない。要するに画面はずっと乾かないままだ。
しかし今回それを敢えて少量の椿油をリンシード油(亜麻仁油)に混入させ描画してみた。

なおトロ箱アート展に使用されている木製トロ箱は赤羽根漁港において使用されるはずだったものだ。赤羽根漁港は豊川用水路の提唱者・近藤寿市郎によって同じく提唱建設されたインフラである。そのことが今回の作画に歴史的な繋がりを与えてくれるように思われた。

2018年8月22日 社本善幸