満洲の長春にやって来ました。長春は旧満洲国の帝都・新京の改称です。

 

偽満皇宮博物院にやってきました。

 満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が、満洲国の建国から滅亡まで過ごした場所です。溥儀は映画「ラストエンペラー」で有名ですね。

 

 

 

史実と違うところも多いが、映画としては面白いですね。

 

 愛新覚羅溥儀は1906年生まれ。わずか3歳で清朝(満州人の王朝)の皇帝になります。しかし1911年に辛亥革命が勃発。清朝は崩壊してしまいます。

 

その後もしばらくは溥儀の「皇帝待遇」は守られますが、1924年に漢人軍閥のクーデターが発生。溥儀家族は北京を追われ、天津の日本公使館に匿われます。ここから日本との繋がりができます。

では入館していきましょう。

満洲は19世紀末まで漢民族はほとんど住んでおらず、満洲民族の聖地でした。

日本による1932年の満洲国建国には、もちろん①市場や資源確保日露戦争で得た南満洲の特殊権益保護国内過剰人口の移民先の確保ソ連の南下の防波堤づくりシナ大陸の赤化阻止など、さまざまな目的がありました。

 

一方で、日本は国際世論(欧米白人国家)の批判も恐れていて、満洲に親日国家をつくるための大義名分が必要でした。

そこで「清朝」の聖地である満洲に、清朝の後継の帝国をつくるというストーリーを考えた。溥儀としても願ったり叶ったりで、飛びついて協力したのです。名前も「後清」にしたかったみたいですね。

庭園があります。1938年につくられた東御苑です。趣きありますね。

 

 

 

ここが「天照大神防空壕」です。1940年につくられました。

隣の神社の御神体を避難させるための防空壕だったみたい。

建国神廟」の礎石です。

1940年につくられた木造の神社がここにあったそうです。

この中が「御用防空壕」。中は鉄筋コンクリートの部屋があり、溥儀とその家族が避難するためのものでした。

 

プールもあったんですね。溥儀はイギリス人家庭教師レジナルド・ジョンストンの教えを受け、西洋文化に憧れを抱いていました。

もっとも自分自身は泳ごうとせず、他の人が遊ぶのを見てプールサイドでくつろぐのが好きだったみたいです。

 

仮宮殿である同徳殿です。

1938年に竣工しましたが、溥儀は日本軍に盗聴されることを恐れあまり使用しなかったとか。

入場してみます。

日本間です。

 

ビリヤード室です。

 

 

ここはピアノ室。

 

左奥にピアノがありますね。孤独な裸の王様には、様々な慰めが必要だったようですね。

ここは中国間。

「便見室」です。溥儀が非公式会見(密談?)などに使用したとか。

これがラストエンペラー溥儀です。

「映画ホール」です。

ここで映画を見たり、バドミントンをしたりしたそうです。溥儀の伝記っぽい映画も上映してましたね。

「参拝室」です。来賓との会見や、朝貢を受けるのに使われるはずでした。実際には使用されてないとか。

「大広間」です。

ここで溥儀は祝日と誕生日の朝貢を受けました。

これで同徳殿の見学は終了です。下がかつての同徳殿です。

 

長春門をくぐると、溥儀やその家族が過ごした緝熙楼(しゅうきろう)が見えます。

 

緝熙楼(しゅうきろう)は溥儀と皇后婉容(えんよう)の住居とされ、日常生活を過ごしていました。

 

2階が溥儀と皇后婉容の居住エリアです。

溥儀の寝室。

溥儀のバスとトイレ。

溥儀の理髪室。

溥儀の書斎。

溥儀の仏間です。

 

溥儀の皇后婉容(えんよう)の応接間です。

婉容のアヘン吸引室!

溥儀は生まれながらの皇帝のため、妻といえども奴隷と同等にしか見なさず、皇后婉容にも愛情を注ぐことは少なかったようです。孤独に苛まれた婉容阿片に手を出し、中毒状態になっていきます。

 

婉容の寝室です。

 

1階は皇妃(側室)譚玉玲(たんぎょくれい)の居住区でした。この人は早逝してしまいます。

 

1階には溥儀や婉容らの写真が展示されます。

 

ラストエンペラー溥儀の後半生は劇的なものでした。日本の敗戦とともに皇帝を退位。日本への亡命を図りますが、ソ連軍によって拿捕されます。

その後は東京裁判に出廷し、「自分は満洲国の皇帝になどなりたくなかった。日本人に強制された」と証言します。本当はノリノリだったくせにね。保身のための偽証だったことを、後に本人も認めています。

 

その後は共産シナに引き渡され、撫順戦犯管理所で再教育を受けさせられます。10年の服役の後に、模範囚として出所。植物園勤務を経て政協全国委員(国会議員待遇)を勤め、1967年に病死しています。

 

皇后・婉容の最期は悲惨なものでした。孤独から阿片への依存度を高めた婉容は、精神錯乱をきたし、視力も失います。そんな状態の婉容に、溥儀は全く関心を示しませんでした。

戦後は共産シナにとらわれ、監獄で見世物状態にされたといいます。もはや廃人で、食事も用便もできなくなっていました。放置死された婉容の遺体は、行方不明になり骨も残っていません。

 

一番左が日本女性・嵯峨浩(さがひろ)で、溥儀の弟・溥傑の妻です。日本の侯爵家からお嫁入りしました。溥傑との仲は円満で、二人の子供をもうけました。

しかし敗戦とともに溥傑はソ連に捉えられ、収容所へ。嵯峨浩も幼い娘と、婉容らとともに満洲を逃避行します。ソ連軍・中共軍の暴虐(略奪・強姦・虐殺)が吹き荒れる中、廃人となった婉容に最後まで寄り添ったのは嵯峨浩だったのです。

 

婉容と引き離された後、1947年に命からがら帰国。1960年に溥傑が釈放されると、翌年には北京に飛び15年ぶりの再会を果たします。夫妻は浩が1987年に死去するまで、北京で添い遂げました。

 

 

 

 

2003年放映の、このドラマでは常盤貴子さんを演じました。テレビ朝日製作らしく、なるほど日本軍は悪魔のように描かれている。満洲民族と漢民族が区別されてないなど、歴史考証は適当な作品。

 

勤民楼です。ここでは公式行事などが行われました。