先日の「やさしい夜遊び」で桑田さんソロの「可愛いミーナ」とチューリップの「心の旅」がかかったようですね。
「可愛いミーナ」というのは1番に比べて2番の詞がまるで一旦外国語で書いてそれを翻訳したかのようで、
非常に好きな曲でありながら若き自分にはその違和に納得がいかずにいました。
1番なんて「逢瀬の晩」なんて言ってるからね。
今読むと2番の詞のある種の軽薄さというのは、憧れた外国文化のように恋をしようとして挫折した
ある時期の日本の若者の姿を感じます。深い恋心を表現しようとすればするほど、
感情にべったりな日本語に至ってしまうという悲劇性が、1番と2番の間にギャップとして横たわっている。
桑田さんの「恋は幻」系の曲の狂信者は僕を除いても大勢この国にはいると思いますが、
その場合女性にこの世のものではない幽玄な美といった感じの幻想が付随してくることが多いが、
タイトルに「可愛い」がつくほど「ミーナ」はそのカテゴライズから外れていて、
どちらかというと頼りない一輪の花のような華奢さを薄く感じさせます。
背伸びして憧れた異国文化のような恋そのものが幻だったというのは男にとっても「ミーナ」にとっても
同じ形の悲劇だったと捉えることもできるでしょう。コカコーラのCMだから余計そんな感じがするんだろーか。
だから最後のパートの「タバコの煙が目に染みただけ」という部分に、まだ喫いなれていないぐらいの若さが見えるわけです。
あのパート好きな人多いよね。「寅さん」に安心するマインドに似ているようだ。
そんで「心の旅」。僕はこの前にマチャアキの「さらば恋人」、後ろに大沢誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」を置いて
考えることが多いです。
わが師、北山修が「情とやせ我慢の美学」を額縁にぴっちり収めているような「さらば恋人」に対して、
「心の旅」の別れは「祝福」に包まれた疾走です。
日本語で愛を伝えるとき、「可愛いミーナ」の主人公は日本文学的な湿度の高い情の言葉に行きそうになって苦悶しますが、
「心の旅」の主人公は湿度の抜かれた標準語の圧倒的に平易な言葉に進んでいくことによって、
「シンプルだからこそ間違えようのない想い」という多分当時としては外来的な思想までたどり着いて、
その別れる二人、ひとりひとりに「祝福」としか言えないような匂いが訪れます。
そう考えると「可愛いミーナ」と「心の旅」は同じ男女の別れを歌っていても
まるで対照的な相貌をしていることがわかる。
これが「そして僕は途方に暮れる」の時代までいくと、「社会の中の男という幻想」に無理があるなんてところまで行ききっていて、
ありきたりだが「歌は世につれ」ってのは侮れんねという気になってしまう。
あっ、「やさしい夜遊び」ではシナトラの「My Way」もかかったようですね。
以前何かのラジオで「My Way」がかかった時に、曲送りの紹介でパーソナリティの声が上ずってしまったのを聞いて、
「パーソナリティが余韻に負けたらあかーーん!」と車の中で絶叫したのを思い出します。