過日、電車で
若夫婦に抱かれた四ケ月の赤ちゃんと
隣り合わせました。

赤ちゃんはお母さんの服を触ったり、
手を延ばし、隣りの私の
作務衣の紐と遊んだりと
自由自在です。

翻ってみると、歳と共に、
自分と他人と境界を作り、
自分基準で判断します。

赤ちゃんはいわば宇宙基準です。
いや、「基準」すらなく、
周囲と溶けあってます。

紐に飽き足らず、
私の指に触った小さな手は
ギュッとつかんで離しません。
「力、強いんですよ」
お父さんが共感を求めるように
笑顔で語ります。

ふと思うのが
道元さんの疑問です。
「人は本来、仏性があるはずなのに、
なぜ修行してそれを
見つけなければならないのか」

「なぜ修行が必要なのか」

この疑問に中国の禅僧の多くは
応えることができなく、
帰国間際に、如浄に出会い、
「必要ない!」と喝破されます。

そして
「自己を学ぶということは、
自己を忘れることである」
という正法眼蔵の
有名なフレーズに続きます。

「自己を忘れるということは
すべてに悟らされることである」

赤ちゃんは「自己を忘れて」います。
瞬間、瞬間を生きています。

最寄り駅が来たので、
バイバイをしながら、
眼を合わそうと、
赤ちゃんを見たら、
虚空を見るような眼差しでいました。

Oshoの道元の講話にこうあります。

「想像の及ぶ限りの、
あらゆる状況の下で人々は
悟りを得てきた。
問題は自己が
脱落しているかどうかだ。
そうなれば、
木を切っていようが、
井戸から水を汲んでいようが
問題ではない。
自己がない瞬間、
ただ観照しているだけとなり、
沈黙した注意深さのみがある時、
あなたのは全てのものによって
悟らされている」

「道のことは迷わないことだ。
ただ自分自身を学ぶがいい」